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その空間を愛で埋める男〜静かな底と天井
尾田さんの作品は恋愛ばかりでつまらないと言い切ってしまった過去があるだけに、尾田和彦作品における恋愛については落とし前をつけなければならい。先に申し上げると、大きな見誤りがあったと懺悔しておく。その誤読の要因になっていたのはネット詩の猥雑さへの私の嫌悪感だ。「こんな変態なことネットだから書いてんでしょ?」という下世話な邪推。恋愛に対してはずっとピュアでありたいと私は思っているし、それを尾田氏にも求めていた。だから平気で恋愛を詩にする氏の作品がつまらなかった。ところが、尾田和彦作品における恋愛は猥褻なものではなくて、純度を明らかにするための猥褻があることに気がついた。純粋な愛はたしかに変態的にあるものだ。しかし他人の変態を見せられても、変態は変態でしかない。ただ優れた詩はそのレトリックによってピュアな愛をハイコンテクストさせる。それは()内の固有名詞であり、氏のピュアさが満載されている。「経験値」がぶっこまれていて、あざといと云えばあざとい。けれども、彼はそれを同時に否定もしている。 >脱がしたばかりのレトリックで >女は風邪をひき >男は客体を挿入することによって無名となる みうらのいつもの思い込み解釈を述べるが、「男は性行為をやる時は無名(ピュア)になる」と言っていて、それは経験の否定ということ。もう一つ引用する。 >剥がした傷口を >その瘡蓋を >ドストエフスキーという男に >小説で書かせた >それは主人公の不在を示す 瘡蓋とは失恋であり、片想いの恋であり、ドストエフスキーが書いた宗教的な絶望感だし、でもそれこそが純度100の自己完結する妄想(主人公の不在)だということ。もう一つ付記すれば、文学を持ち出しているのが、己の経験ではなくて、夢想する恋愛としてのメタファーになっている。 誰もがご承知の通り、尾田さんほどネット詩を知り尽くし、ネットの空間にリアリティを持ち込む拘りを持つポエマーはいない。だからこそ尾田和彦作品には純度の高い愛があるのだと思う。なぜならばネットはどこまでいったって仮想だし、リアルなのは、その拘ろうとする無限体の妄想だけだから。その妄想を氏の言葉を借りていえば、一つの矢印、つまり誰かが共有してくれるかもしれない仮のシンボルであり、文学の希望がたくさん詰まっていて好ましい。
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作品データ
P V 数 : 1410.7
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投票数 : 0
作成日時 2020-03-05
コメント日時 2020-03-05
カッコよすぎるぜ!ーーー批評も尾田作品も。 真似てパクってみたいです。
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