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視野狭窄者のかくれんぼ
目を覚まし コタツで啜る 初アイス 『2020』 千才森 万葉 年が明けてすぐの頃、公募の雑誌を買ったのさ。 今までも、小説サイトの作品募集とかは見てたけど、それ以外の公募や懸賞は全く眼中に無かったんだ。でも、こうして馴染みの無かった詩のサイトにも出入りするようになったことだし、視野を広げてもっと手広く活動していきたいなーと。 お手軽な川柳から俳句、エッセイ、小説、音楽、動画、人材、さまざまな募集が載ってた。あ、お手軽って書いたけど、川柳は難しい。口語を使い綺麗に整えるだけじゃ駄目で、滑稽さが含まれてないと川柳としての質が高まらないみたい。まあ、俳句も元々は季語を入れた俳諧(戯れとか滑稽とかの意味)を詠む遊びだったみたいだけどね。今では俳句と言えば、お堅い遊びの代表選手のような扱いになってるけども。本質は変わってないのかもしれない、でも、より軽さを求めて生まれた川柳を、今は嗜む人が多いように見えるね。それは公募にも顕著に表れていて、企画数は俳句よりも川柳の方が多かった。理解しやすい作品は使いやすいって事なんだろう。 公募の中でびっくりしたのがネーミングの募集。品種改良した花・果実とか動物園に仲間入りした子たちの名前を募集するのはわかるけど、学校名とか商業ビルの名前を一般公募するのは、なんというか、すごい。学校って何かしらの信条や目的意識を持って作る物だと思うんだけど、それを前面に押し出せるのが学校名であって、個人的には一番の注目ポイントを他人任せにして欲しくはないかな~とか思うのさ。建物とかは全く利用する気のない人が考えた名前じゃ、ありがたみも無いと思うんだけど。まあ、いいんだけどさ。 スマホ置き コーラブクブクやりながら 芋の斜塔を微分してみる 『マック』 千才森 万葉 短歌の文字数が好き。でも、作るのは頭が7文字の都々逸が楽かな。なんでだろう、しっくりくる気がする。 思ったよりも公募は楽しいね。賞金や賞品が付くから張り合いが出るのかもしれない。そうそう、もう一つ驚いたことがあって、応募するのに『お金が掛かる』賞があること。 これ、結構本気で驚いた。 俳句、短歌でもあったかな? あと、詩の募集でも有料なのがあったねー。選句料や参加費の名目。 小説の募集では、基本的にお金を取られることは無い。受賞したら自費で販売するとかの例外があるにはあるけど。 んー、考えてみれば、送られてくる作品を集めて纏めるのも、賞品を用意するのもタダじゃないし、話題作りのために有名人を起用すれば相応の人件費も掛かるから、公募にお金が掛かるのはわかる。でも、それはどんなジャンルでも言えることで、なぜ有料と無料があるのかと考えれば、集めた作品をお金に換えられるかどうか、ここに違いがあるんだと思う。もう一点には、参加数を抑える理由もあるのかもしれない。自信のある人だけ参加してくれって意味で。でも、企画が盛り上がらなければ廃れるだけだし、後者の理由は弱いかも。 企業が企画する公募は無料なのが多い。受賞作品を自社商品のPRとして使えるから、話題プラスの売り上げから公募に掛かった費用を回収する気なんだろうね。 一般が気軽に参加できる俳句の賞で見れば、お茶の大手メーカーが主催している企画の規模が大きい。選者に有名人を起用しているし賞の肩書きも豪華だから、かなりの費用が掛かってるはずだけど、作品は無料で募集してる。受賞作品は賞品にがっつり印刷してるから、売り上げにも貢献してるのは容易に想像できるね。子供用の応募枠を設けているのも上手だなって思った。子供を積極的に巻き込めば親族の注目を集められるから、効果は倍どころの話ではなさそう。 ただ、メーカーや企業、店舗が絡む公募は、俳句よりも川柳の方が多い。同じ文字数なのに、なぜだろう? まあ、単純に興味を持っている人の違いかなー。 俳句よりも川柳の方が、作るのが楽だし、一般的にわかりやすいから。一般人向けに売る商品のPRに使いたいのなら、わかりやすいに越したことはないし。 この先はどうなるんだろう? 俳句を嗜む人数は増えるのだろうか? 輪っかが二つじゃ絡まらないから あなたのえんをちぎったの 私を入れて お腹で閉じて? 付かず離れず回り続ける 音を生まない愛が好き 『えんえん』 千才森 万葉 はい、本題。 それじゃあ、詩と小説を見てみよう。 あちこちで企画が立ち上がってる小説系はタダで募集をかけられるけど、詩は有料になる場合がある。しかも、企画自体の数も小説に比べたら少ない(気がする)。正直、文字数の多い小説の方が選考は難しいんじゃ無いかなって思うさ。まあ、小説だと、選考で一番最初に作品に触れる下読みの人たちは、最初の数ページしか読まないし、この時点でほとんどの作品が落ちるって聞くけど(だから小説の公募では冒頭が肝って言われるね)、それだって、それなりの経費が掛かるはず。 わたしの考えは前述の通り、二つの違いはお金に出来るかどうか。詩だって、入賞作品を纏めて詩集として売り出すことも出来るだろうに、それだけじゃ費用を回収できないってことなのかな。一方、小説は一本の作品だけで書籍化ができるし、人気が出ればアニメ化などのマルチメディア展開も十分ありえる……。 まあ、成功すれば儲かる訳だけど、現実はそんなに甘く無い。わたしが利用してた新興の小説サイトは、見通しの甘さにより二年で実質活動停止。書籍化などを謳っていたコンテストが開催期間途中で打ち切りという、常軌を逸した様相だった。 脱線脱線。 話を戻すと、賞という箔を付けた小説は売れる(かもしれない)けど、詩は箔を付けても売りにくい。有り体に言って稼ぎにくいのかなって考えてしまう。 この『稼ぎにくい』っていうのが、裾野が広がっていかない理由になっているんだろうなーと。プロを目指す人が少ない(極端にプロの門が狭い)、企業が参入してこない。お金が絡みにくいから、詩を商売に用いようという人が少ないのさ、たぶん。 個人的には、もっと詩の面白さは広まって欲しいと思うんだ。と言ってるわたし自身、あまり詩の面白さを理解しているわけではないし、読めない詩も多い。それでも、何というのかな、詩を書く人たちの感受性を発露させる姿勢? 自分はこう思っている、こんな視点を持っているということを言葉に乗せて(言葉に限らないけど)表現する面白さが広まって欲しいと思うのさ。 詩は、確かに難しいけどさ。 この間、本屋さんで詩集をペラペラ捲ってみたんだけども。中には好きな詩編もあった。一方で、意味の読み込めない詩もあった。こんな事をわざわざ本に書く必要があるのだろうか?(読解力の無さによる不理解) と感じた詩もあった。 買った? いんや、買ってないねー。 だって、好きじゃない作品も含められている値段を払うのはどうかと思ったもの。 小説に対して詩が売れにくい理由は色々あると思うし、この先、詩集が小説の売り上げを上回ることがあるのかと考えれば、かなーり難しい気がする。同じ土俵で競わせるなって意見もあるだろうね。じゃあ、どんな世界なら、詩の良さを発揮できるのか。 一番良いのは、詩の一編ごとに、絵画のようなオークション形式で値段が付くようになれば良いと考える。もちろん絵画のように目を見張るような値段にはならないにしても、夢は膨らむし、プロになりたい人も増えるだろうし、周りの詩への見方も変わる。一般的には理解できない作品を書く作家さんでも好事家の趣味に合えば、食べていけたりするだろう。まあ、頑張っても文学には一律の値段しか付かないんだけどさ。印刷してるからね。 胸を覆った金属製の蓋を開けると、ロコの鼓動が聞こえてくるの。チクタクチクタク止むことの無い、刻まれていく命の音が、機械の身体を満たしてる。 指を伸ばした先にあるのは、懐中時計のど真ん中。 「そんなに言うなら罰をあげる」 最初に触れる針の臓。ころころ変わる喜怒哀楽と、ひたむきなロコの愛情を1秒ごとに生み続けている細い針。熱い血潮を思わせる音に、私の心は共鳴し、押さえきれない高鳴りとなる。もっと早くに聞きたかった。もっと長く聞いていたいの。 淀むことなくひたすら前へ進み続ける秒針を、そっと抜き取り手の中へ。もう、チクタクは聞こえない。 再び伸ばした指で触れる長い針。するっと伸びた背筋は凜々しく、太くなく細すぎない、そんな姿がロコにそっくり。深いところで積み重ねていく呼吸のような時の刻みは、生きていこうとする意志と、未来を望む強い決意を記しているの。 命を示す長針を抜き、二つの針は私の物に。 罪の代償。 最後に残った短い針は…… 伸ばした指に一滴。 動きを止めたロコの瞳。まなじりからあふれた雫は、滑らかに澄む頬に一縷の軌跡を描いた。 人間としての感情と、生き物としての命を外され、それでもロコは逆らわなかった。静かに私の行為を眺めて最期に涙を落としたの。 短い針の歩む姿は、生き物の目にはわからない。 昼と夜の秘密を明かすために進み続ける短い針は、大きさも数も計り知れない星達が、真っ暗闇の果てない空を飽きることなく回り続ける速さを示しているだって。だったら、この針はロコの歴史そのものなんだ。 過去であって、未来の時間。 ロコの命が燃えている時間。 動いているのかいないのかは目で見えないけど。最期に残った小さな針を爪の先でカチリと外した。 手足を地面に投げ出して、硝子細工のような瞳を虚空に向けるロコの姿は、どんな人形にも勝り、美しく可愛いとさえ思う。殻の身体にこんなにも愛を注いであげたくなる人。離れようなんて考えられないのに。 だから、罰を与えるの。 離れようとした罰だからね? 私はゴソゴソその辺を漁って、細い紐を見つけてきた。目立つ色だから、ショーで舞い散らしたりする物なのかな。紐の真ん中に短針を結んだら、頼りないけど二人の絆の首飾り。 満足。 満ち足りる気持ち。 充実した気分になれたから、生きる希望の長針と、ロコの核を成す秒針を慎重に戻していった。硝子の蓋をカチリと閉めたら、ロコの瞼が動き出す。 驚いたようにパチパチ。 不思議な様子できょろきょろ。 「僕の命を止めるんじゃなかったの?」 「あはははははは!」 私は笑った。 どうしてそんな考えになるのかがわかんないよ。好きな人の命を止めて何が面白いのさ。 「私の罰はロコの歴史を奪うこと」 首に掛かった短針を示す。 「これで君は成長しないでしょ?」 「……うん。それはそうだけど……どうしてそんなことを?」 身体の感覚を確かめるように動かしているロコ。特にどこも問題無さそう。 「ロコが変なことを言うのは、成長するからだと思うの」 「変なこと?」 「私をどこか遠くに行かせようとしたり、好きなのに離れようとしたり」 「……それは」 「ロコはこれ以上成長しちゃダメ。ずっと今のままでいるの。子供のままで、一緒に暮らそう? 大人になんかならなくてもいい。賢くなんてならないで」 「それがイーシャの罰?」 「これが私の望み」 誰かを好きになったら、そこで成長なんて止まってしまえばいいのに。大人になる必要なんて無いんだ。 「これ以上一緒にいたら、ほんとうに好きになっちゃう」 「私はずっと、好きだったよ?」 お腹に触れたロコの手が、背中へ回って引き寄せられる。 『ウサギと機械の少年(抜粋)』 千才森 万葉 じゃあ、現実的な話。 詩の最大の強みは、その文章量の自由さにある。個人的な意見だけど。 もちろん、律が醸し出す音のないリズム、作者の語感選びが作り上げる情景、言葉に載らない潜められた感情、そんな良さももちろんあるんだけどさ、それらの特徴は詩だけが持っているわけじゃないから、絶対的な優位性を発揮しないのさ。 ああ、もう一つ、忘れてはならない特徴があるね。 言葉としては意味を成さないのに、なぜが通じてしまう表現の面白みや、どう考えても理解できない、言葉たちが崩壊し始めている瞬間を切り取った危うい感性。これらの魅力は、詩独特のもの。 抽象。 どこかで書いたけど、詩は抽象画に似てる。直接的な意味を描かずに、本質だけを見せて伝えようとする表現方法は、一緒だなって感じるのさ。 抽象画は絵画のジャンルで大きな派閥を持ってて、有名な抽象画は知ってる人も多い。ではなぜ、一般人には何を書いているのかわかんないのに、知名度が高くなったのか。良い作品は一目見たら、その魅力が伝わるから? それは幻想。 高い値段が付くから。 高額の衝撃波がメディアを通じて広まり、抽象画に詳しくない人のアンテナにも引っかかるようになる。海外では、抽象画を好むコレクターも多いみたいだね。日本じゃ人数は少ないみたいだけど。 んー、なぜ日本では抽象画が流行らないのか。わたしは国民性が持つ協調性にあると見てる。日本じゃ、誰かと一緒、集団の中に居られることを好む人が多いのさ。こうなってくると、抽象画との相性は悪い。周りと違う意見を持つことを恐れちゃうから。この感想を持っているのは自分だけなんじゃ無いか? と不安に思ってしまえば、口に出すことを憚られる。みんなと同じ意見を持てないなら、最初から近づかない方が無難と考えるのは、よくわかる。下手なことを発言して仲間はずれにされるのは嫌だからね。 それと、安全でいたいという考え方。個人それぞれの感想を持ってしまうと、どうしても衝突が起きやすくなる。喧嘩をしたいと思う人なんて、多くはないさ。 それと、理解できないものを前に「わかりません」とは言いにくい気風が日本にはあるし。自由に鑑賞して良いですよって言われたときに、自由って何? と考え込んでしまう人も多いんじゃ無いかな。わたしもこのタイプ。これじゃあ、抽象的な作品を楽しもうにも難しい。 それでも、絵画なら高い値段が付くから、知名度は上がる。理解できない作品と出会ったとしても、価値を教えてくれる共通の基準があるのは大きい。 逆に、共通の基準がなかったら、一般人には良さがわからないジャンルになってしまってただろうね。たとえば、絵画が内容問わず、大きさと制作時間だけで値段が決まってしまう世の中になったらどうだろうか? 抽象画は今ほど有名になれただろうか? 抽象的であることに価値を示せるかどうか。これが一般的な意味での強みになれるかどうかの分岐点。 貴方と過ごしたカタパルト 溶けた地球に沈めてきたの 残りのガソリン涙に変えて 手の平そっと温めましょう 『親指越えたらさようなら』 千才森 万葉 何の話をしてたっけ。 うーん。エッチな話? そうだっけ? エロとホラーは刺激物って言うのがわたしの考え。どちらも本能に近い部分を刺激するから、感情が動きやすいんだよね。読者、視聴者に強い刺激を与えやすい。過去、未来、どんな時代でも一定のファンを獲得できる切り札だ。でも、エロとホラーだけでやっていこうとするのは、やっぱり難しい。刺激物だから、毎回摂取していると慣れてきちゃう。そうなると、どんどん強い物を欲し始めるから、創作者は相手に合わせ、どんどん刺激を強くしていく必要がある。相当な覚悟が無いと、続かなくなっちゃうね。 刺激と言えば、恋愛も似たようなものだけど、こっちは人が人であろうとするために身につけた感情だから、本能よりもちょっと弱い。もし、人間が動物に戻ったら、恋愛という感情は無くなると思うし。 エロを書くのに描写は必要かどうか? 難しい問題。わたしの書く小説では、必ず描写を入れるね。てか、わたしの小説は描写が一つの売りだから、書かないわけにはいかないのさ。でも、詩は描写を必ずしも必要としないし、むしろ書かない方が想像の幅が広がって効果的だったりする。 てかさ。昔、男性向けのアダルト小説投稿サイトに成人指定の作品を載せたことがあったんだけど、まーお客さんが付かなくてね。エロに上手な文章はいらないとか何とか。まあ、うん、はい。 ある程度、想像の余地は設けないとね。 春の息 夏の胸 秋の髪 冬の舌 四季の中 繰り返し、おちる 『しゃわー*ドロップス』 千才森 万葉 つつけば、パーン。 『思春期』 千才森 万葉 わたしは文章を書いてる。 何のために書いてるのかって? 他人の余命を奪うために書いてるのさ。 『欲』 千才森 万葉 読むことは時間が掛かる。でも、読んでもらわないと書いた意味が無い。どんな人間も時間は有限で、全人類の自由時間をクリエーターのみんなが奪い合っているのさ。 小説も詩も、読んでもらうことが目的だけど、今は活字を読む人が少なくなってきてる。そりゃ、そうだよね。文章を読むよりも楽に快感を得られるコンテンツが増えたんだから。 スマホの中に、映画、ドラマ、アニメ、ゲーム、投稿動画が溢れかえってる時代。とにもかくにも動画は強い。物書きが競うべき相手は、同じジャンルに立っている物書き達ではない。ひとつの穴の中で優劣を競っていても、腕は確かに上がるけど、最終的な勝利である収益化には結びつかないと思うのさ。穴の外に居る人たちの目をこちらに向けさせないといけない。 活字離れの原因はどこにあるのか? 個人的には、『めんどくさい』ことにあると思ってる。文字を読んで楽しもうとすれば、目からインプットして、頭の中で世界を理解できるようにイメージ化し、その中から自分なりの面白さを抽出する必要がある。更に、作品世界をリアルな五感で楽しみたいとおもうのなら、より詳細に想像しなければいけない。 動画なら、画面の前にぼーっと座っていれば、視覚、聴覚を刺激して『くれる』。そう、目玉をほんの少し動かすだけで動画が人間に楽しみを浴びせてくれるんだ。これは強い。 まあ、身体を動かすアクティブな趣味に時間を費やす人も居るけど、そういう人たちは、外的刺激に快感を得ようとする人たちだから、文字という想像世界での楽しさを伝えるのは難しいかな。もちろんやろうと思えば、楽しさを教えられるんだろうけど、個人的には、外で遊べる人は外で遊んで欲しい。そっちの方が健全だとおもう(笑) 活字離れは、人間が馬鹿になってしまった証だと言う人も居るけど、わたしは時間的な制約と心的な疲労が引き起こしたと思ってる。学校や会社で散々に疲れて帰ってきた後に、更に頭を使って活字を追うのはしんどいのさ。 昔は動画と言えばテレビが主流だったから、見たい番組が終わったら残りの時間に暇が出来て、本を読んだりする人も多かったけど、今はネットで好きなときに好きなチャンネルを、思う存分見られる。ゲームもそう。テレビゲームが主体の時なら、家族の都合もあってそんなに自由な時間割で遊べなかっただろうけど、今はスマホや携帯ゲームで手軽に高品質のゲームを楽しめるようになった。 こんな時代に、わざわざ疲れる活字を誰が読むのさ、と。 活字作品は、単体では弱い。だから、単品で土俵に上げたら、どんな土俵だろうと勝ち目は無い。唯一勝てるとすれば、同じ活字作品と競い合ったときだけ。 それでは意味が無いよね。つぶし合うだけさ。どんどん離れていく読者を引き留めることなんか出来ないし、これから先に新しい読者を引き込むことも出来ない。 だからわたしは考える。 いっそ、主役であることをやめたらどうか、と。 他人のステージに上がり、メインを引き立てる役割に、活字としての活路を見いだせるんじゃ無いかなって。その役割を担える最適なジャンルは、詩なんだって。 卵は黄色い 唐揚げは白い コーラは黒い 無色の宇宙 赤い人間の身体 存在しない私の声 本質を知りたいのならば、 常識を剥がさなければいけない。 でも、変人奇人になったところで…… 『都心の水』 千才森 万葉 小説はある程度の文章量が必要になる。短いのもあるけど、短編が小説の面白さで長編に勝てるのかと言えば、無理。やっぱりキャラクターが背負う歴史の重みは、短編じゃ生み出せないさ。短編小説にも、特有の面白さはあるけどね。 文章量の軽い短編なら他のジャンルと混ぜられるかと言えば、難しいかな。できても二次創作とか。 その点、詩は文章量の制約が無いし、感情を抜き出すだけ、情景を描くだけ、とか様々な場面でピンポイント活躍ができる。ほかのジャンルと混ぜやすいんだ。添えるだけで機能するんだから。 まあ、小説はノベルゲームというジャンルがあるから、小説とゲームの融合は上手くいっているケースもあるけど。個人的には、詩の方がもっと多くのジャンルと組み合わせられると思ってる。 わたしはゲームが好きなので、ゲームの話に寄っちゃうけど、詩は、ロールプレイングでもシミュレーションでも、アクションにだって組み合わせられるはず。 ゲームでは希に詩を見かけるけど、暗い作品が多いね。あと、シナリオライターが書いただろうと思われる作品がほとんど。ここに、プロの詩人が入り込めれば、ワンチャン、詩の裾野を広げる起爆剤になれそうな。 でも、全部が詩では駄目なんだ。詩をメインで張ろうとしても駄目。いつだったか、ゲーム実況動画で、ゲームの実況を詩風の素敵な文章で語る配信者を見かけたことがあったんだ。でも、全部がそんな調子だったから、見ていてダレる。実況していたアクション系ロープレのテンポについていけてなかった。再生数も三桁だったかな、数年前の話。詩をメインとする動画では難しい。やるなら、売りにできるコンテンツ+詩。あ、狂言風のゲーム実況は興味深かいね。 うーん、今も歌の歌詞とかで詩は活躍しているけど、それじゃあちょっと。活字の裾野は広がらない気がする。 「炎上で良いのなら、現代詩をツッコミ系ユーチューバーに放り投げるのが手っ取り早いんじゃね?」 『謀反』 千才森 万葉 小説を書く人は増えているらしい。 多分、詩を書く人も増えていくと思うんだ。 なぜか? 自分を表現する文化が芽生え始めているから。個性を尊ぶ教えが広まってきているから。そして、本当に自分が読みたいと思える作品が、この世に存在しないから。 十人十色って言葉があるね。十人居れば、十色の個性があるって話。これには好みも含まれる。昔は、偉い人が「この文学作品は良い」と評した作品を、みんなが読む。もしくは、メディアがお勧めしてくるのを読むのがメインだった。書店に並んでいる作品の中から好きな本を選ぶというのも、一種、お勧めされた中から選んでいるとも言えるんじゃない? これには、手に取れる本に限りがあったという時代背景も関わっている。 そんな読書の傾向があったけど、今は変わってきている。ネット上に無数に散乱しているコンテンツの中から、本当に自分が読みたいと思える作品を探して読む、そんな新時代になってきてる。 でも、自分が本当に読みたい作品なんてこの世にあるんだろうか? おそらく無いだろうね。その人のために書かれたわけじゃないから、一読者の好みが全て詰まっている作品なんて存在しているわけがないさ。それでも昔は、妥協して視界に入る作品の中から面白そうな作品を選んで読んでいたんだけど、そんな時代は終わってしまった。今では自分で気軽に『自分の好きな物を詰め込んだ』作品を書ける時代になってきてるし、みんな個性を発揮するべきだという風潮があるから、自分好みを象った作品を発表しやすい土台が出来てる。ライトノベル業界に限って言えば、素人がネット上に載せた作品を企業が掬い上げて、書籍化する、お金に換えるケースが多くなってる。素人でもプロという夢を見やすい世界になったことが、書き手の背中を押してるね。(出版社が読者の好みを予想できなくなってきてる証だと思ってる) 何の経験も無い人でも文章で有名になれるかもしれない! 絵画や音楽は学ばないと出来ないけど、文章なら誰でも書ける。物書きさんが増えるのも当たり前さ。文章だって学ばないと書けないだろって? いやいや、面白い話を書きたいのなら、文章力は必要ないんだ。発想力とか観察力とかそっちの能力が大事。 ただねー、好きな作品をみんなが個々に書き始めたら、読者はどんどん減っていく。 これも、当然といえば当然。だって、自分の読みたい作品は自分で書いてるんだもん。わざわざ好みに合わない作品を、時間を削って読もうとは思わないよ。これもわかる話。 自作が一番可愛い。小説に限らないと思うけどさ。 自決が美しいなどと、誰が言い出したのだろう。 最期は華々しく散るのが我らの本懐である。そんな風潮が、確かに組織の中を流れていた。 死んだら月に行くのだという。 その月世界はずいぶんと幸せな所らしい。月に昇るため、高く火柱を上げながら、大きく咲き誇り自爆する最期こそ美徳であると言われている。 それならば、自爆していったみんなは笑顔で最期を迎えられるはずだったろう? 何度かその戦場に立ち会ったことがあるが、彼らの顔は、決して幸せそうでは無かった。悲愴、憎悪、諦念。彼らの表情には負の感情が滲み出ていた。 少なくとも、死の間際に、死んだ先の幸せを信じている者はいなかったように思うのだ。 小さな窓から見上げる月は雲が掛かることも無く、穏やかな微笑みを浮かべていた。なるほど、明日には満ちられるのだと疑っていないのだな。 月は遠く見て愛でるものだ、旅に行くものではない。誰の言葉だったか。 うねる触腕の先に絡めたグラスへ、渋めのワインを注ぎ、まずは英魂御霊に掲げてみせる。 「皆様には悪いけど、彼を向こうに送る気は無いから」 彼を生かしたまま組織から逃がす。いざとなれば、味方を裏切ってでも…… 『スーパーヒーローフルフェイサーズ ~墨ぼかしの恋~(冒頭)』 千才森 万葉 小説に頼ってはいけない。詩に頼ってはいけない。 わたしにとって小説はトランクで、なんでもかんでも詰め込める箱なのさ。世界を丸ごと詰め込んだとしても、容量はまだまだ余裕。でも、トランクは、入れ物でしかない。小説がわたしを飾ることはないし、わたしの姿勢を変えることもない。小説を持っているだけでは、誰にも見らることはないだろう。 わたしにとって詩はファッションで、アクセサリーだ。選び出した言葉の色には思考回路もセンスも全てが映り込むから、一目で『わたし』が伝わってしまう。詩を身に纏うことでわたしは自身を飾るんだ。それでも、詩をいくら並べたところでわたしの世界は作れないし、映し出すことさえ叶わない。 言葉の旅人になろう。詩を身につけて、トランクを携え各地を巡る。行く先々、詩で人々の心を引き寄せたら、集まった人々を前にトランクの中から物語を取り出してみせる。 そういうモノにわたしはなりたい。 いずれにしろ、文字だけでは他に勝てない。 みんな暇を費やしてはくれないから。 何か考えなければ衰退していくだけ。 言の葉遊びは消える、いつの間にか。 未知との融合を恐れてはいけない。 敵は全てのコンテンツの全ては味方。 目に見える全ての物は利用できる。 この世界は希望に満ちあふれている、 思え。 地球に生まれ 地球を這いずり 地球を調べ 地球を削り 地球を食べて 地球を吐いたら 地球に眠り 地球へ帰る そう、わたしも宇宙人 『履歴書』 千才森 万葉 ふはははは。 一万文字を読み込んで、よくぞここまでやってきた。だが、最後の超難問を解かなければ、この森から出ることは叶わぬぞ。 ゆくぞ、勇者よ。最終問題はこれだ! 問、作中に本物の千才森万葉が一人きり居ます。探してください。 『さみしんぼ』 千才森 万葉
視野狭窄者のかくれんぼ ポイントセクション
作品データ
P V 数 : 2648.1
お気に入り数: 1
投票数 : 0
ポイント数 : 17
作成日時 2020-03-01
コメント日時 2020-03-14
項目 | 全期間(2024/11/21現在) | 投稿後10日間 |
---|---|---|
叙情性 | 1 | 1 |
前衛性 | 3 | 2 |
可読性 | 2 | 1 |
エンタメ | 5 | 2 |
技巧 | 2 | 0 |
音韻 | 0 | 0 |
構成 | 4 | 2 |
総合ポイント | 17 | 8 |
平均値 | 中央値 | |
---|---|---|
叙情性 | 0.3 | 0 |
前衛性 | 1 | 1 |
可読性 | 0.7 | 1 |
エンタメ | 1.7 | 1 |
技巧 | 0.7 | 1 |
音韻 | 0 | 0 |
構成 | 1.3 | 1 |
総合 | 5.7 | 4 |
※自作品にはポイントを入れられません。
- 作品に書かれた推薦文
お久しぶりです。ああ、もう、そんなに時間が経ったんですね。2月は公募ガイドという雑誌の公募に精を出していまして、ちょっとこちらに来る気力が沸かなかったんですよ。ひな祭りイベントも、575のイベントだっていうのに完全に出遅れて、最終日にフォーラムの方に書き込むだけという、中途半端な参加になってしまいましたし。 確かに年末はネタが尽きたんです。ただ、公募に投稿する作品を考えていたら、いろいろな案が沸いてきて、ストックが溜まりました。やっぱり張り合いって大事だなと思いました。賞品とかが絡むと、うん。 そうなんですよ、匿名の機能があったので有効活用させてもらいました(笑) わたしにとって新機能は遊び道具ですから。 思考の流れを文章化する。んー、確かに書いていて楽でした。エッセイ風の文章だと、どう書いても間違いがないんですよ。書籍化になるようなエッセイは、色々な順序立てとかあるのかもしれませんけど、頭に浮かんだことを伝わりやすいように文章化するだけなら得意なのかも。ただ、よく読み返してみると、問題と答えの方向がズレていたり、賢い文章ではないなーって思いますね。 今作品は挑戦的な物なので、ファッションに限らず、色々なところに反論が出るかも? と予想はしています。けど、本音は本音で、個人的には正しい話なのですよ。 あ、小説、読めました? 良かった。本編でも触れましたけど、小説や短編を挿入するのは詩を挿入するのに比べてリスクがある分、入れるか迷いましたね。そこだけ世界観が変わってしまいますから。『添える』なら詩の方が楽ですね。 最終問題。 実は答えを用意していません。そもそも、読者を逃がす気は無いんですよ、とか言ってみる(笑) まあ、面白い質問が出来たと舞い上がって、そのまま書いたのが真相です。答えは色々あるかと思いますが、後付けとしてわたしなりの答えを書いておきましょう。 沙一さんがおっしゃったように、設問自体に居る。というより、出てきた名前の全てがわたし自身。これが答えの一つ。『一人きり居る』としか書いていませんから、偽物が居るわけでも、隠れているわけでもない。だだっ広い森の中、かくれんぼと言いながらずっと一人で語っていただけの説。目の前に居る人物をわたしだと認識できない様なら、もう一回読み直してくださいって話ですね。 もう一つは、森自体がわたし。一万文字もわたしの文章を読んだのなら、きっと読者はわたしの中に入り込んでしまっていることでしょう。言の葉一つ一つがわたしであって、しかし、それらは別々の存在として森に舞い散っているが、それでも一人は一人である。無数の一人きり。これは本当に寂しい。無数のわたしの中からひとつのわたしを探そうとすれば、いつまで経っても森を出られません。いずれにしろ、作中にわたし以外は居ないでしょうね。 まあ、こじつければいくらでも答えは出てくるでしょうし、答えたい(森を出たい)と思う方を引き留めたりはしないのですよ。蜘蛛の糸だけくっつけて、出口まで誘導します(笑) ちなみに、悪い回答は、『どこにいるのだろうと探しながら作品を読み返すこと』。2度読みしてしまうようなら、わたしの術中にまんまと嵌まっています(笑) てか、隠恋慕!? それはちょっと予想していませんでした。ああ、ああ、それも面白そうですね。ツンデレかな~
1匿名投稿しといて文中に作者名出てくるのは流石にないんじゃねーのって突っ込まざるを得ないっすよ
0千才森さんには、萩原朔太郎の「詩の原理」をすすめたいですね。それがすべてではないかもしれませんが、詩を理解する上で、とても参考になると思いますよ。紙だと某アマゾンでしか買えないですけど、青空文庫でも読めるはずです。 かくれんぼ。いいですね。隠れるのも、見つけるのも、見つけられるのも楽しい。見つけられないのはさみしい。 千才森さんはもっと世界を見つけてもいいかもしれない。そうやって見つけた数だけ、世界も千才森さんを見つけてくれるかもしれない。 それこそ、世界を千才の森にしてしまうんですよ。そうすれば、森のなかに一人きりの大事な人を探しにくる王子さまもいるというものですよ、お姫さま。あっ、もう上の方に素敵な王子さまが二人ほどいましたね。 個人的には、 >つつけば、パーン。 が好きですね。 面白い一発ギャグのような、よくわからないエネルギーを感じます。
0お読みいただきありがとうございます。筆者の千才森万葉です。(これを書かないと盗作を疑われかねないことに気がつきました) あ、まずかったですか。すみません。 こうして載せてみた結論から言うと、利点は無かったです。欠点はありますけど。名前から辿ってもらえないのは、つらいですね。 実のところ、題名で名前を隠し、作中で連呼する手法を思いついたときは、小躍りしてました。すごいをの思いついてしまったと(笑)ウザい感じのかまってちゃんキャラでかくれんぼする話は面白そうだ! と。 うーん。個人的には面白いと思ったということもあり、名前を伏せる前提で題名と一番最後を考えたので、ここを変えるとなると、頭とシッポを切り落とさなくちゃいけないんですよ。まあ、内容は刺身だけでも伝わるんですけども。 やってみてわかることもありますね。 やる前に気がつければいいんですが。
0お読みいただきありがとうございます。 紹介してもらった『詩の原理』を青空文庫さんで読んでみました。面白かったですよー。最初は、少々くどい文章だったので最後まで読めるのか不安だったんですけども、どんどん興味深くなっていきました。 まだ飲み込めていない章もありますが、おまかには理解できたと思います。もちろん、これだけが正解ではないのでしょうけど、とても勉強になりました。 >生活のための芸術 芸術のための芸術 この表現がしっくりきましたし、詩とは何か、詩人とはどんな人間なのかを、ぼんやりながら掴めたような気がします。 色々なことを考えさせられました。やはり、詩は主観の情を含む(作中では情象でしたか、ここのみなさんは詩情と仰っていましたね)作品のことなんだなーとか、描写とは客観的なものであり純粋な意味での描写は小説に用いる物というなら詩における描写とは何を目的としているのだろうかとか、所有していない世界への憧れが詩の素になるのなら二次元に憧れる人たちは総じて詩を書けるんじゃないかとか、現代詩は変態だ、とか。 詩の対極が美という考え方は本当に面白かったです。 詩は大衆向けの文学ではないのが理解できました。詩人という生き方を突き詰めようとするものなのかな。わたしは詩人になりたいわけではないので、詩を極めるために高みへと登り続ける気は無いのです。ある程度で満足しそう。せっかくペンネームに森を入れたのですから、この裾野からみなさんを眺めることにします。とはいえ、眺める景色の何が素晴らしいのかは語れるようになりたいですね。 登り続けなければいけない詩において、裾を広げようとするわたしは、詩人にとっての敵になるのかも(以前どこかで書いた気がする)。 やっぱり、詩は種類も形も色々ありますね。こうなってくると、批評とはどうあるべきか、とか考えちゃいます。ここから見ている限り、みなさん高みへ登ろうとする姿勢は一緒なのですが、登っている山は別々のように見えるんですよね。1人1人の目指す場所が違うような。好みの問題なのかもしれません。同じ詩、現代詩でも好みが違う。自分の山を登ってこないからと批判するのはどうなんだと思いますし、相手の登る山を知らなければ発破をかけるのも難しい。かといって、単調な言葉では、読んでいて面白みが無いですから。うーん。 あ、これとは関係ないですけど、長歌は単調だから廃れたという話が書かれていましたね。なるほど、と思いました。 そうそう、こんな思想のわたしでも、このサイトのみなさんにはよくしてもらっていて、感謝しているのです。思いのほか、感想もいただいていますし、ありがたいですよ。 『つつけば、パーン』は本当に勢いだけで作っちゃいました(笑) 前後が大人しめなので、刺激が欲しかったんですよね。
0はい、御作ホリデイに勝手ながら稚拙ではありますが添えさせてもらいました。 あの句はですね~、わたしではなくて沙一さんの事だったんですよ。ホリデイを拝見したとき、自画像だと思ったのです。人間を脱いでゆっくりすごしている沙一さん。なるほど、正体は猫だったのかーと(笑) こちらこそ勝手にです。ありがとうございました。
1>詩は大衆向けの文学ではない そうなんですよ。でも、それと同時に大衆のためのものである。ここに業の深さを感じますね。 >みなさん高みへ登ろうとする姿勢は一緒なのですが、登っている山は別々 これに関しては、僕は同じ山を登っていると思っています。ただ、登山ルートが別なだけで。山梨側から登るのと、静岡側から登るのでは、見える景色が違うようなものだと思います。そして、登れば登っただけ、同じ景色を共有できるのだと信じています。高みで会おう、というやつですよ。 >所有していない世界への憧れが詩の素になるのなら二次元に憧れる人たちは総じて詩を書けるんじゃないか ここを読んで思ったのが、詩の素は二次元に対する憧れじゃなくて、むしろ四次元に対する憧れなのかなということです。ああ、いわゆる二次元の作品が程度が低いという意味ではないです。それをいったら、文学は一次元のものになるのかな。出力先の話ではなく、入力先の話といったらいいんでしょうか。 裾野を広げるということもとても大事なことだと思います。僕はビジネスセンスみたいなものがまったくなくて、どうお金に結びつけたらいいのかわからないですけど。パトロンもいなくなった世界で、詩を書くにはしっかりした実生活が必要なのかもしれません。詩を書くことそれ自体はお金がかからないのがいいところですね。 初めにもどると、裾野を広げるためには、詩を書く側も、「詩は大衆向けじゃない」を強調するだけではなくて、「詩は大衆のためにある」ことも考えなくてはいけないとも思いますね。
0ふむふむ。トビラさんにとって、詩は大衆のためのものでもあるんですね。読む人も書く人も、みんな大衆の中の1人ですから、当たり前と言えば当たり前なのかな。 詩の頂上がわたしには見えないんですよ。雲の上にあるみたいなので。うーん、でもやっぱりわたしには皆さんが違う山を登っているように見えるんですよね。現代詩なんかの枠組みで囲ってみれば、同じ山なのかもしれませんけど。もしかしたら、あまりにも山が広大すぎて、登るルートが多岐にわたっているから、違う山に見えるのかもしれません。雲の上がどうなっているのか、どんな景色が見えるのか、もし登り詰められたら発表してみてください。不二山よりも高いのかな? 四次元、となると、増やした次元は時間でしょうか。過去、未来への憧れ。それとも、未知の次元軸を探ろうとする行為。どちらも、一緒なのかもしれません。 次元で言えば、詩はゼロ次元から、多次元を認識しようとする行為なのかも。あくまで自分自身を基準としていますから。なんて、こじつけは無数に生まれそうですし、答えが無いのかもしれませんけど、こうして考える行為が創作の素なんでしょうね。楽しい。 わたしも色々書きましたけど、本当はビジネスのセンスなんて無いんですよ。あったら、もっとお金持ちになれてたはず(笑) そうですね、生活に余裕が無いと柔らかな言葉は生まれない気がします。心に隙間を持てない人は、どこか窮屈で狭い言葉達を並べてる印象。逆にスカスカな人は、甘い言葉に満ちている気がします。どちらも生きているだけで頑張っている証拠なのでしょうし、極めればジャンルを確立できますけど、どうせなら、どちらも書ける物書きになれるよう、実生活を充実させていきたいものですよー。 わたしは詩人になる気は無いですけども、小説家が小説でご飯を食べていくように、詩人が詩を書くことで生活していける未来になるといいなって思います。 (ああ、ああ。そうか、小説家は家か。詩人は人か。人の生き方ですからね。そうなると……) 大衆に向けて書くと詩の質が落ちる。本にはそんなニュアンスの文章が書かれていましたね。真実なのかもしれませんけど、そこで諦めてしまったら、おっしゃるとおり、裾野は広がらないのですよー。 詩を極める人、大衆向けではない詩を書く方も居なくてはいけないんです。でも、大衆向けの詩を書く方がもっと増えてくれたらいいなと、いやいや、大勢いらっしゃいますけど、もっと表に出られる機会が増えてくれたら良いなって思います。
0面白く拝読しました。 敢えて筆者名を隠しひとつの記事のように記述する手法は、プログラムを打っていた時には全く想像していなかった活用法で、純粋に驚いております。 かなり挑戦的な作品だなという印象ではありますが、「長い」「独り言だ」などという批判へ反論出来る材料が揃っているようには見受けられませんでした。 ひとつ可能性として、独り言のような文章そのものを、文才をお持ちの筆者自身が敢えて実戦することで批判する作品のように感じました。「一万字を読み込んで」「森」などから、その可能性が濃厚のように思います。 真面目に作品へ申し上げるなら、流石に読み切れるほど魅力あるテーマでは書かれていないので、絞るか一気に読ませる工夫が必要だと思えますが、前述した可能性がある以上無意味な論述であると言えます。 * やや気になったのは、折角筆者を非表示にされていて、尚且つ作中で筆者を記述されているので、様々な名前で、雑誌名も本文中に付けて、ひとつの作中本として構成された方がなお面白い事ができそうかな、などと。勝手なアイデアを述べたところで締めさせて頂きます。
0お読みいただきありがとうございます。もう流れると思ってました。 筆者名を隠すのは、この時点ではまだ誰も思いついてないだろうと踏んで、一番乗りさせてもらいました。いずれ、この手法を上手に活用してくる人が現れると思います。 てか、驚いたのは、わたし・わたし達の方ですよー。プログラミング技術、凄いですね。サイトの変貌ぶりにびっくりしました。元の印象をしっかりと残しつつ、大胆に、それでいてかゆいところに手が届く仕様に変わり、すごく利用しやすくなりました。ふじりゅうさんの作品は読者の意表を攻める印象があったんですけど、サイトデザインは真面目で、独自の、悪く言えば自己満足的なシステムも見られず、この点もちょっと驚きました。これだけ弄れる人なら、茶目っ気で何か入れたくなる物なんじゃないかなって気がしますし。立派な仕事人だな~と感じました。まあ、コメントから正々堂々とした方なんだなって印象は持っていましたから、驚くのも失礼なのですけどね。 そうですね、どこから書きましょうか。 批判。なぜ、「長い」「ただの独り言」という批判が起こるのかを、わたしの見方で分析していきましょう。 長くなった理由=度胸が足りなかった。本作品を書いたのは、『詩』が置かれている環境が悪すぎるのでは? と思ったことがきっかけになっています。詩は一般受けしづらい、稼ぎにくい、知名度が低い。これでいいのだろうか? 詩を書いている人たちは現状に満足しているのだろうか? との疑問を投げてみたかったんですよね。詩はもっと評価されても良いんじゃないかと。 ただ、詩人が集まっている場所に、これをそのまま放り込んだら袋叩きに遭うのでは、と思って、尖りが出ないようオブラートに包んでいたら、めちゃくちゃ厚みが出てしまい、蛇足が8本も生えたような冗長作品になってしまったんですよ。削るのも難しくて、結局そのまま出してしまいました。 もう一点、わたしは『どんなに表現しにくいものでも言葉を上手に繋げていけば必ず伝わる』みたいな信条を持っていまして、長い文章表現をいかに読ませるかという技術を磨こうとしてきました。この考え方で得をしたこともあるのですが、損も多かったんですよー。損の一つに、根本的に文章量が多くなることが挙げられます。趣味で書いている分にはそれでもいいのですけど、公募なんかに出そうとすると、文字数制限に引っかかるんです。文章量を改善したくて、詩のサイトに技術を盗みに来たという背景もあります。「一万字を~」などは、自分への皮肉ですね。本当に文才があれば、もう少し面白い物が書けるはず(T-T) 独り言で終わっていると捉えられる理由=改善策を提示できていない。 問題をだらだらと挙げただけなら、ただのぼやきですからね。駄目だ駄目だーって台詞なら、子供の方が上手に叫べますし。この手の作品は、改善策や解決策を小出しにしながら読ませるのが面白いんでしょうけど、自慢げに話せる解決策が見つかりませんでした。 んー、この作品の……試作品の本当の目的は、詩を挿絵のように挟み込めないだろうか? というのを実験したかったんですよ。 本編を補足する為の挿絵では無くて(補足なら絵とか図形の方が適材ですね)、本編から少し離れたテーマで書いた、雰囲気作りの為だけの挿絵。アイキャッチ、もしくは、まとめサイトなんかでよく見かける本文の合間に差し込まれるフリー画像の代わりとして詩を用いる。作中でも触れましたけど、メインの引き立て役として詩を利用する形ですね。 プロトタイプだったので、詩に限らず、俳句や短歌の形式、小説なんかも置いてみました。小説を差し込むのはやっぱり難しいですね。小説そのものが世界を持っているので、ぶつかる。この点、詩は馴染みやすい。 本作品最大の誤算は、引き立てるべきメインが弱すぎた事です。てか、詩の現状が云々なら、詩を書かれている方々が、一番考えているでしょうからね。わたしがわざわざ出さなくても。 あと、こうして見ると、差し込む作品の量が多すぎますね。どっちがメインだかわからない。投稿してから見えてくる物もあるのです。 ただ、引き立て役として詩を用いる。この考え方は一理あると思っています。なにが利点かというと、詩に興味の無い人にも、強制的に詩に触れさせる・目に入れさせることが出来る点ですね。食わず嫌いだった人たちも多いでしょうし。 他人の詩を使うともちろん著作権に引っかかりますけど、自作の詩なら問題ないので、いくら挟み込んでもいいわけです。エコなのです。 この『詩を差す』考え方が色んなところに広まれば、もっと詩は身近な物になっていくと思っているのです。 ……長い。やっぱり長くなる。 雑誌! 雑誌を思いつかなかった! 雑誌に似せたわけじゃ無かったんですよ。でも、確かに、雑誌風にしたら、かなり良くなりますね。うん、間違いなく良くなります。おっしゃるとおり、構成がすっきりと収まりますね。あーーーー、もったいない。いずれ、そんな一冊の作品を書いてみたいですね。
0沙一さんの、たのしかったで賞を頂いちゃいました! ありがとうございます。そうそう、今月の選考委員でしたね。詩の選考って大変そうだ。作風も感性も人それぞれ違いますもん。 短いのは難しいですね。インパクト不足になるんですよ。強い言葉が入っていないとか、そういうのではなくて、イメージさせるものが弱いと言いますか。わたしが書くと『前後に散文を足して情景を説明しながら書いた方がしっくりくる詩』になるんですよ。質が落ちるのなら短詩として発表する理由が無い。 もしくは、直線的な作品ですね。一つ二つの感情しか想起させられない文章になって、雰囲気・趣が広がらないのです。感情以外の言葉遊び的な面白さなんかは書けたりしますけど、詩芸と言うよりは楽芸と称したいものになってしまいます。(どちらも造語) それでも、何かしらの面白さが含まれているのなら、それを活かしたいなと思うのですよ。 この作品の形式は試行錯誤していきたいなと思っています。新たな面白さを生み出せると思うんですよ。作品化。そうですね~、いずれは千才森と言ったらこういうの、みたいなのを完成させたいですね。 『ウサギと機械の少年』気に入ってもらえて嬉しいです。クライマックスのシーンなので、もちろん前部にシナリオがあるのですが、クオリティがいまいちなため持ってきづらいんですよ。 提喩、調べてみました。なるほど。書いた身からすれば読者に想像してもらえるように書けているわけで、提喩として機能しているのなら嬉しいですね。 一方で、先に断章を発表してしまうと、後から本編を上げにくくなるなーと。読者好みの想像を超えるシナリオを書くのは難しいんですよ。書き手からすればリスクの一つですね。このリスクを逆手にとって、断章だけを書いていく手法もありそう。途中は勝手に想像して? と読者に投げる方法ですね。読書中級者以上向けに発表するなら有り。読書初心者向けなら、しっかり書き込んだ方がいいのでしょうけど。ふむふむ。 最後は、賛否あるでしょうね~。書いていて感じたのは、体験を入れるなら読者から体験コーナーに進ませる様な誘導をしなければならないってことでした。読者の善意に頼ったコーナーでは滑るだろうなーと。 今回は読者を引っ張るのに『煽り』を使ってみました。 んん、沙一さん、今面白いことをおっしゃいましたね。 >果実のなかに、種が含まれているように。 この言葉、かなり強いですよ。そう、種が含まれているんです。当たり前のことなんですけども。この場合、果実を作品として、種を作品に挟み込んだ詩とするなら、果実も種も腐ってはいないし、眠ってもいない。 みずみずしく生きている果実から、無数の芽が生まれ出てきて、喜びの芳香をあげるモノ。これをおぞましいと思わせない容姿に育てられれば、果実から伸びた茎の先にたくさんの花が咲くことでしょう。豊沃な果実からいくつもの草木が生えて華麗な花を掲げる様子を、一体なんと呼ぶのでしょう。 頑張りたいですね。
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