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あなたは「おばちゃん」になれるか
ariel氏による作品『おばちゃん』について書いてみる。 誰も表だっては言わないようだが、次のように思っている人は私だけではないと容易に考えられる。つまりまず、現在の時点における、かつariel氏の表現した「おばちゃん」とは、昭和の或る時期に生まれ、まっとうに生きてきた女性に限定される、ということである。 女性にはいろいろな生き方がある。その生き方を表現する言葉は、妻、母、主婦、独身女性、働く女性、ママさんなんとか、キャリア女性、自立した女性、パートのおばさん、等々であろう。これらがまっとうと見なされる女性の生き方をあらわす言葉であろう。 一方でしかし、罠にはまる女性もいる。たとえば男性経営者の愛人になったり、本業のかたわらで水商売や風俗業に身を投じたりする女性がそれである。人間の悪の面で、男性が望むことと女性が望むこととが一致したとき、このような女性があらわれる。 では男性はどうかと言えば、とてもいろいろな生き方があるとは言えない。その生き方を表現する言葉は少なく、夫、父、独身男性、無職男性、等々であろうが、これらのうち世間的にまっとうと見なされる生き方をあらわすのは、夫と父ぐらいであろう。独身男性、無職男性に対する蔑視的な態度を払拭することは大事な課題であると私は思う。 世の中は男女平等に向かってかなり進んでいるように感じられるが、それでも留保を付けたいところがないではない。たとえば「男性は女性を幸福にする」、「男性は女性を守る」といった決めつけたような言葉がよく聞かれる。こういった言葉を文字通りに信じ、このような男女観を持つ女性に向かって、「一人で幸せになれ」と言ったなら、反発されるか、喧嘩になるであろう。ここでは、「一人で」という箇所がちょっときつい響きを持つ。 人間が、さまざまな多様性を越えて平等であろうとする力は確かに働いている。それは正しいことである。しかし、さまざまな多様性を越えた平等な世界が実現していくとしても、なんらかのヒエラルキーや「小さなプライドのせめぎ合い」は依然として存在し続けるにちがいない。がまた、お互いの欠けている部分を相互に補完しようとすることを人間は忘れないに違いないと思いたい。 ariel氏が用いた「おばちゃん」の語は、この小文のはじめに書いた通り、まずは限定的なものである。と同時に、人間の平等を目指すものの象徴でもある。ビーレビの読者は賢明であるから、後者の方の意味をより大きく感知したことであろう。であるから、この作品は広く読まれたのであろう。
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作品データ
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作成日時 2020-02-27
コメント日時 2020-03-02
僭越ながら、反論をさせていただきます。 異論は二点です。 まず、一点めは「昭和の或る時期に生まれた人が おばちゃん」か? arielさんは、令和二年の現在において「おばちゃん」とは、昭和の或る時期に生まれ、まっとうに生きてきた女性に限定されるなどとは、詩文の中で書いておられないです。 >予定より20年早く >今日から私はおばちゃんになる と、書いておられますので ご自分のイメージの中に漠然とある おばちゃんと よぱれる年齢には20年は早いけれど、おばちゃんとなることにした。と、あります。 それは、つまり arielさんは ご自分の親世代より年を重ねておられるくらいの世代の方々のことを 「おばちゃん」となんとはなしに感じ取っておられるのだと、私の場合はとらえました。 実際に、「おば」と発音し「叔母、とか伯母」と表記する親戚は、当事者にとって親世代の方々くらいのことが多いですし、 >予定より20年早く >今日から私はおばちゃんになる のは、日本語として自然です。親子ほどの年齢差をイメージされているんだと思いました。 ですが、南雲さんは、 arielさんは昭和の或る時期に生まれ、まっとうに生きてきた女性に限定されるのが「おばちゃん」であると言っておられます。 それは、努力でなれるものではありません。昭和のある時期に生まれない限りは、無理です。そのようなことをarielさんは 一言も書いておられません。なぜなら、昭和に生まれることは、努力でなれるものではないからだと 思われます。 二点めは、「まとも」「まっとう」とは なにか?です。 南雲さんによれば、【まっとう】とは、男女でこのようなケースがあるそうです。 ●母、主婦、独身女性、働く女性、ママさんなんとか、キャリア女性、自立した女性、パートのおばさん、等々であろう。これらが【まっとう】と見なされる女性の生き方をあらわす言葉。 ●世間的に【まっとう】と見なされる生き方をあらわすのは、夫と父ぐらいであろう。 ↑ これらは、偏見です。世間ではなく、南雲さんが これらの人々を まっとうとみなしているだけです。 いうまでもにいことですが、世間は 多種多様な不特定多数の人々によって構成させています。妻、母、主婦、独身女性、夫、父、独身男性。これらはすべて立場を示す言葉ですが、世間の人々というものは、それぞれの立場に対して、【まっとう】であるとか【まともでない】かを言うものです。 例をあげると、 まともな妻、まともでない妻。まともな父、まともでない父。というように、様々に勝手な評価をくだすのが世間です。 ですから、 【妻】であるだけで まっとうとは 世間の人々はあまり言わないです。南雲さんがそのような感じておられるに過ぎないと、私の場合は感じました。 さいごに、本作品の引用をさせていただきます。 >相手の目 >この目線の高さを保つことを >皆でゴールとしよう わたしも、本作品のように 目の高さを水平に保つことを 目指したいものです。
2arielさんの作品『おばちゃん』は、反実仮想の構造を持ったおもしろい作品です。 読者はこの作品を読んで、「実」は何で「仮想」は何かを考えます。 つまり、「事実はこうであるけれども、もし仮にああであるならば、あるいはああであって欲しい」という構造の中の「こう」「ああ」の部分を突きとめようとします。 このような読者の行為は自由で自然だと思うので、これに対する真清水さんの反論は、反論というよりは私の読みへの批判的付加であると感じるのです。 私の『おばちゃん』への賛嘆は、作品への直接コメントで伝わっていると思いますので、ここでは推薦文として若干批評的ではありますが記述をおこなったわけです。 テクストから「おばちゃん」の原初的意味を引き出し、そしてそれが何のメタファーとして作用しているのか、考えた跡です。 テクストに書かれていないからといって、そこで想像することをやめてしまっては、読みにはならないと思います。 また、私は人の生き方をあらわす言葉をなるべく多く例示し、人の生き方を広範にカバーしようとしました。 それらのうち、何がまっとうで何がまっとうでないか、それは確かに人によって判別はさまざまでしょう。 私はここでは自分の実体験の蓄積から判別をおこない、書きました。私という個人の判別ですので偏りがあるかもしれませんが、現実に世間から受けた侮蔑を基礎にしています。まるで偏見というわけでもないのです。 「まっとうでない」という形容は、どんな名詞にも付き得るものです。夫とか父という語にも付き得ます。このような場合は、「まっとうでない」ものの集合の内に含めるのが適当です。
0拝読いたしました。
0南雲さん、こんにちは。《まっとうと見なされる女性の生き方》とか《たとえば男性経営者の愛人になったり、本業のかたわらで水商売や風俗業に身を投じたりする女性》といった偏見に溢れた文章ですが、ariel氏の作品に登場する《「私」の理想とする「おばちゃん」》に魅力があるとすれば、上に引いた偏見なども一切合切豪快に跳ね飛ばして大股で歩いていきそうなところですね。そこを付け加えてほしかったなあ。
1私も自分が狭量ではないかと疑い続けてはいるのですが、私の分類が何の基準もない偏見に基づいているわけでもないのです。私が一箇所で依拠したのは、現在普通に機能しているコーポレートガバナンスなんです。なのでどうなんでしょうね、「おばちゃん」はどんなふうに対処していくだろうかと、私もしばらくもの思うことから解放されそうにありません。
1南雲安靖 様 私の拙作に批評文まで書いて下さり、大変光栄です。作者が批評家に対してどういう立ち位置でコメントすればよいのか私の中で整理できておらず、返信するか迷っておりました。(詩を書き始めてまもなくて...)しかし、深く読んで下さったことにひとまず感謝を述べたいと思います。誠にありがとうございます! 私の詩は「タヒにちなんで」でも書いた通り、純粋な独り言なのだと思います(デフォルトで社会との関わりがありますが)。そしてそれを作品として一旦出してしまえば、解釈は読者に委ねられるのでしょう。作者の意図はもちろんありますが、作品として独立している限りは、作者の意図でさえも一つの解釈にすぎないのかもしれないと、皆さんから様々なコメントを頂く中で思います。私が気付かなかった効果や意味を読者の皆さんが作品に見出し、深めて下さるので。人によって批評家と作者の距離の捉え方は違うと思いますが、少なくとも私の作品に関しては、作者も一読者であると思っておりますので、皆様からの批評は大変ありがたいのです! 南雲様のご指摘は、この作品が扱う題材を語ることの難しさを露呈させますね。藤井一紀様が感じておられるように、おばちゃんは差別、区別、男女、上下関係、縦社会、階級意識、マウンティングなどを超えていく理想の存在として描かれていますが、それを論じるとなると「差別や上下関係その他」に触れざるを得ません。もちろんこれらはセンシティブな話題であり、昨今のポリティカル・コレクトネスへの過剰配慮もある中語ろうとすると、何を言ったとしても叩かれる覚悟が必要なのかもしれません。フェミニズムを語る難しさと一緒ですね。 しかし、それでもやはり語られるべきことは語っていかなければならないと、改めて思います。現状を良い方向に変えていくために、語るべきこと、語られるべきことは何かという判断。加えて、自分は何のために、誰のために、何を語るのかという意識を研ぎ澄ませておくことが、批評においても、詩作においても大切な気がします。 おかげさまで、私も色々考えが広がりました。評価して下さり、本当にありがとうございました!
0作者さんからの直接のコメントをありがたく思います。 私にとって「おばちゃん」像は結んではほどける不思議なものでした。定まったかと思うと、すぐに曖昧なものになってしまうものだったのです。「人間」でもなく「おじちゃん」でもなく「おばちゃん」となっていることが一因だったでしょう。この時点で性の違いがあります。人間は分化をやめないと同時につながり合おうとすることもやめません。作品が、「おばちゃん」が女性でありながら、多様性を越えてつながり合おうとする趣旨を持っていたことが、私が批評的推薦文を書いた理由の一つであったでしょう。作品『おばちゃん』は、少なくとも私にとっては混乱に抗いながらもこれについて考えるべき、あるいは論じるべき傑作であり問題作だったのです。隘路にあるときにも、人は事態を打開するために何かを言わなければなりません。言うということは論争を引き起こすと同時に、つながり合う機縁となる大切なことだと思います。私の小文に対しては二方より考え深いコメントをいただき、さらに作者であるarielさんからも何にも偏しないステイトメントをいただきました。このことは、作品『おばちゃん』が多方面から検証されるべきだということを示しているのだと思います。そうであったことは、当該作品に重い価値があることの証左であると思います。
1女性蔑視、男尊女卑、そうしたものを意図的に行っているきらいがこの国にはあると、そのようにも感じます。しかし昭和から平成、令和と。少しづつマシにはなってきたのかなとは思いますが。
1どんな物事も、時間をかけて良い方向へ向かうものだと信じています。人間の歴史一般を見ても、残虐であることから自らを解き放つことに人間は途方もない時間をかけています。現在は、昔よりも良い、でも気を抜いてはいけませんね。女性にかんする問題は、男性にかんする問題であるとも言えます。みんな、個別に自存しているのではないから、何事も多方面から見るということをしないといけませんね。
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