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愛
1997年の7月。彼の方はロンドンにいた。 耳を、胸を、心の臓を震わせる音楽に耳を傾けて 一歩一歩リスキーでありながらも着実に仕事を重ねていた。 1997年の8月だったか、それより後か先か、記憶は茫洋としているが、僕の方は「愛って何よ?」と歌う、違和感があり、異質であり、胸に後味の悪いひっかかりを残す女の子の集団を、まだアナログだったテレビを通して見ていた。 20年の年を経て、彼の方は、雨の降るロンドンで聴いた音楽を、自分の解釈で、言葉で、情感で以て形に残すことが出来た。 彼のそのカバーは賛否を多く呼び寄せ、彼は時に称賛の、時に罵声と皮肉の対象となった。ただ一つ変わらないのは、彼がリスキーな存在であることを貫き通したことだけだった。 僕の方と言えば「言葉」で思いを伝えることに執着したが、この20年で収穫となるものはほとんどなかった。誇れることがあるとするならば、僕が自分自身の感性に素直であったことだけだろうか。今も頭をよぎるのは、20年前、タクシーに乗り込みながら「愛って何よ?」歌っていた女の子たちの、やはり違和感、そしてあの少女たちへの微妙な反感くらいだ。 雨があがり、水浸しになった路上に、「愛」とタイトルされた歌の広告看板が倒され、踏みつけられる意図が、理由が、そして誰の手によってか、僕は悲しいことに今は理解出来る。
愛 ポイントセクション
作品データ
P V 数 : 872.5
お気に入り数: 0
投票数 : 0
ポイント数 : 0
作成日時 2017-07-11
コメント日時 2017-07-23
項目 | 全期間(2024/11/21現在) | 投稿後10日間 |
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叙情性 | 0 | 0 |
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※自作品にはポイントを入れられません。
- 作品に書かれた推薦文
やっと元ネタがわかったっ!ロンドンの彼って、エルトンジョンですねっ! オリジナルは偶然、テレビでしかも途中から聴いたことが一度だけあります。 魂のこもった演奏だった…世の中にこんなすごい歌を創る人が居るのか、と全身が総毛立つような思いだったのを記憶してます。 映画館のどこそこの席に座っていた青年からの、ノーマ・ジーンへのラブメッセージでした。 故ダイアナ妃に送ったセルフカバーの時、あー勿体ないことするなぁと思いました。 それからはカバーは何百回も流れてきたけど、オリジナルはついぞ聴かなくなりました。 翻訳調の文体はバタくさくって面白かったです。 「元ネタが分かんないと入り込めないなぁ」と思ってたけど、分かってもやっぱ入り込めないですw んー。きわめてパーソナルなもんだよね、ひとつの芸術に触れた経験てのは。そのパーソナルに受けた影響のデカさを感じました。 あと「リスキー」てのはエルトンジョンにとって重要なキーワードなんかな。俺はよく知りませんが。
0角田さん、コメントありがとうございます! 元ネタは、実はザイエローモンキーの吉井和哉さんなんです。吉井和哉さんがイギリスのとても有名な楽曲をカバーしたことから、この詩は始まっています。吉井さんなら「リスキー」がかなり大切なキーワードになることがお分かりいただけると思います。 エルトン・ジョンさんでそのような歌があるのですね。調べて早速聴いてみます!
0彼、は、歌(音楽)の道を選び、自分なりに自分の感性で自分の違和感を表出することに成功した(賛否両論があるとしても) 他方、僕は言葉(文字テクスト)の道を選び、〈この20年で収穫となるものはほとんどなかった〉発表するに足るもの、俗な言い方をすれば、世に問うべきもの、は、未だ成していない、ということでしょうか。 〈雨があがり、水浸しになった路上に、「愛」とタイトルされた歌の広告看板が倒され、踏みつけられる意図が、理由が、そして誰の手によってか、僕は悲しいことに今は理解出来る。〉 それは、〈僕〉が自分の感性に素直であり続けたから、なのでしょう。 ごく私的な違和感や、うまく説明できないけれど腑に落ちた、というような事柄を、「表現」として作品化していく。そのこと自体が、リスキーということでもあるのか・・・とか、言葉だけではなく、音楽に補われて(あるいは音楽が主となって)思いや想いを伝えるという行為と、言葉に専住して思いや想いを伝えるという行為の差とは何なのか・・・とか、「愛」とは何か、そう一般化して問う事じたいへの違和感であるとか・・・色々なことを考えさせられる作品でした。 〈彼の方〉〈僕の方〉と、~の方を付けるのはなぜでしょう。彼は、僕は、ではなくて・・・。最近、~の方、という言い方が増えてきていることも影響しているのでしょうか。
0まりもさん、コメントありがとうございます。 「『僕』が自分の感性に素直であり続けたから、なのでしょう」。その通りです。加えてこの詩に出てくる「僕」は、多分に自分自身が投影されているものの、僕そのものではないのです。だからこそ「彼の方」、「僕の方」と双方距離を置く表現を使ったのです。「僕」でありながら「僕自身」ではない。「彼」も「彼のモデル」そのものではない。この詩では、そういう少し倒錯した表現方法が使われています。ノンフィクションに近い空想詩ともいえるかもしれません。まりもさんのコメントで気づくところ多々ありました。ありがとうございます。
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