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むこうやま
鯉も泳ぐ一本の細い静かな川に沿って柳が並び、 大勢の人々が、足音なくゆっくりと歩いている。外国人の姿も多い。 鏡のような水面にこれらの影と、穏やかな青空とが映っている。 聞こえる話し声は空気が流れる音のようだ。 多くの古い家屋敷や白壁の蔵、 それらの間を丁寧に、少し冷ややかに直線的に、 路地が通っている。 名高い美術館、その園庭。 赤煉瓦の背の低い歴史あるホテル、 その広い中庭には白いテーブルと椅子が点々と韻律的に置かれている。 ほど近い、樹木豊かな丘の上に、由緒ある神社とお寺があり、 みやげ物屋が軒を並べるこの市の古い家並を見下ろしている。 俺はこの観光名所を一人で歩いている。 美しい。 俺はここが好きだ。 俺はこの市で育った。 そのことを誇りに思っている。 俺はこの地元の観光名所を一人歩きながら考えている、 こんな美しい市に育ちながら、なぜ俺は人生に失敗したのか、と。 分かっている、ここから空のちょっと遠くに目をやれば見える小高いあの山、 あそこが実際俺の生まれ育った場所なのである。 行き交う観光客の誰も分かっていない暗い場所、 地元の市民が向山と呼ぶ山。 美しいこの市にも、暗い場所がある。 向山という名称の通り、そこは昔から今に至るまで向こう側の世界である。 俺の出自は向山、仕方ない、 仕方ないじゃないか、向山生まれなんだから。 学校では勉強は良くできた。そしてスポーツもそんなに悪くはなかった。 美を解する力もあった。 でも本当には、周囲との間に見えない、でも隠れもない落差があった、 俺がどうしても這い上ることのできない落差が。 「お前の家、向山なんだろ?」 感性豊かな両親は沈黙していた。 友人は同じ向山に住む人間に限られた。 俺はその友人たちと一緒に向山の自然に親しんで少年時代を生きた。 くわがた虫を余所の人に売ったこともある。 長じて俺は東京の大学に入ることができた。 新しい友人はできたにはできたが、俺の意識は孤独であった。 同じ県から出てきた人間とも知り合ったが、 俺は出身の市の名前を言うにとどめ、向山育ちであることは秘めておいた。 大学時代、学業もサークルもアルバイトも順調ではなく、留年もしてしまった。 彼女ができて、俺の孤独は和らいだが、それが真正なものかをいつも疑っていた。 就職の面接では、俺の出身の市のことについて、良い所だと言われた。 俺は仕事が楽しくて熱中した。仕事の中に没入した。 だが仕事そのものの中に没入したあまり、周囲の同僚との良い関係が壊れていった。 俺はいつも仕事そのものを見つめ、そこにおいて成果を上げたが、 協調性を認められなかったのだ。 俺は同僚との間に、過去に感じていたのと同じような違いを感じた。 俺はいつも小さな正論を述べ、実行した。 仕事というものは、そのものに限っては小さな、単純な、機械的なものである。 だが情実というものを無視してはいけないものだ。 俺にとってはそれが受け容れられない、余計なものに思えた。 俺には中庸というものが欠けていた。 だから小さな会社から、俺は追放された。 そして再就職するにはあまりにも俺らしい孤高の流儀が染み着いていた。 俺は故地に、あの向山に、帰らざるを得なくなった。 俺は今、そう、広く見れば有名な観光名所を有する市に戻って来ている。 だが依然として俺の実家は向山にある。 大勢の観光客で賑わう美しい川沿いを歩き、冷ややかな路地を通り、 美術館に入って古今東西の美術に向き合ったり、 また赤煉瓦のホテルの中庭の白い椅子に腰掛けて時の流れに耳を澄ましたり、 そこを去って神社とお寺のある丘に登り、 この市の護られるべき古い家並を展望したりしている。 こうやって歩いている間には、俺は普通の人間なのだと思える。 でも人生に失敗したことは事実だ。 俺は何を誤ったのか。 仕方ないじゃないか、俺は向山の生まれで、向山の育ちなんだ。 俺から見れば、世間は向こう側にあり、 世間から見れば、俺は向こう側の人間だ。 この観光名所の向こうに灰色がかって、しかもはっきりと見える山、 あれが俺の故郷なんだ。
むこうやま ポイントセクション
作品データ
P V 数 : 1503.0
お気に入り数: 0
投票数 : 0
ポイント数 : 8
作成日時 2020-01-19
コメント日時 2020-01-23
項目 | 全期間(2024/11/21現在) | 投稿後10日間 |
---|---|---|
叙情性 | 4 | 4 |
前衛性 | 0 | 0 |
可読性 | 1 | 1 |
エンタメ | 1 | 1 |
技巧 | 1 | 1 |
音韻 | 0 | 0 |
構成 | 1 | 1 |
総合ポイント | 8 | 8 |
平均値 | 中央値 | |
---|---|---|
叙情性 | 2 | 2 |
前衛性 | 0 | 0 |
可読性 | 0.5 | 0.5 |
エンタメ | 0.5 | 0.5 |
技巧 | 0.5 | 0.5 |
音韻 | 0 | 0 |
構成 | 0.5 | 0.5 |
総合 | 4 | 4 |
※自作品にはポイントを入れられません。
- 作品に書かれた推薦文
長文であるわりには、抑揚に欠けている印象を受けます。「向山」の使い方がとても魅力的ではあり、またフレーズのいくつかは面白く感じる要素が多分に含まれているのですが、そこに深入りして読むぶんには他要素に目が散ってしまいがちと思えます。悪く申し上げるなら「日記」であり、再考の余地ある文章ではないかと。 >くわがた虫を余所の人に売ったこともある。 ここはめっちゃ好きです。
ふじりゅうさん、お読み下さりありがとうございます。 この作も私らしく長々しいものになってしまいました。たくさんのことを盛り込み過ぎたようでもあります。それに加えてご指摘のとおり抑揚を欠いているものであるように自分でも感じます。私の問題意識は特に新しいものではないと思うのですが最近次のようなことです。特に詩において、詩文がリアルなことをあらわすために詩文そのものがリアルなことをそのままに書かれるのが良いのか、それともリアルなことがうまく伝達されるために何らかの効果的工夫があるのが良いのか。もちろんここでは詩がリアルなことを書く場合においてという条件が最前面にあるのですが。しかしながら本当には詩などの文芸作品がリアルなことから隔絶しているということがあり得るのか疑わしいことでもあります。私は最近、詩的な表現というものに何か物足りなさを感じます。詩的な表現ではカバーできないことが感じ取られるのです。詩的な表現により私はどこか甘く、くすぐったい感じにとらえられ、それを払いのけたいという反射的な願望を持つことがしばしばあります。ですがまた、何もかもカバーできている詩的表現というものを狙いたいという願望も持っています。そういうわけで、いまだ道半ばということになるのでしょう。 沙一さん、お読み下さりありがとうございます。 この作を書くに当たっては、最初から、長いものになるだろうと予測していました。そして、詩的なものとなすことよりは内容的な面で破綻のないようにと、より気を配っていました。淡々とした、そして寂寥感の滲む文章になったこと、「俺」の鬱屈感があらわれた文章になったことは結果的なことですが、そのように読まれたことは私にとってうれしいことです。しかしちょっと意外なことでもあります。文章の感じよりも内容的な面を問題視されると思っていたので。
0京都という土地柄でよく聞く話しではありますが、僕自身も少なからず似たようなことをあの土地では体験したので、共感する部分もありました。他方で全体的に散文としてはリズムに欠けて冗長に感じたりもします。所々、引っかかりも覚えて、例えば両親の前に感性豊かな、とありますがこれって必要なのだろうか?と。感性が豊か故に何も言えず沈黙したのだろうけどもただ沈黙してることを書くだけで充分にも思いました。詩というよりは随筆なのかなぁ、と拝読しました。 後、作品とは別に純粋な疑問として南雲さんの言われる詩的表現てどんなものを指しているのかなぁ、と思いました。差し支えなければ教えていただけたら嬉しいです。
0帆場 蔵人さん、コメントありがとうございます。 この作については、ふじりゅうさんは日記であるとおっしゃっており、沙一さんは文章とおっしゃっており、帆場さんは散文、随筆であろうかとおっしゃっています。私自身もこの作をそのようなものであると考えており、それゆえに、文学極道にではなく、現代詩に限らず散文作品、広くはクリエイティブライティングの投稿も可能なビーレビに投稿した次第です。 さて、この作についての帆場さんの感触は、内容的には部分的に共感する、散文としてはリズムに欠けて冗長に感じるとのことでした。ふじりゅうさんは抑揚に欠けている印象を受けるとおっしゃっていました。 私としてはこのような評価を残念に思うのですが、受けとめるよりほかありません。私はこの作を書くに当たり、効果のことはほとんど考えず、内容的に充実させたかった。もちろんいったん書き上げた後、何度も読み返しては直すということをしました。それは主として読む人が読みやすいようにという考えからしたことでした。そして効果というものは、後から自然についてくるだろうと、言ってみれば楽観していたのです。 抑揚やリズムを欠いていること、冗長であるということについては、私は他の方々の作品を読む場合でも、かなり寛大です。自分の作に対しても、そういう性質を許す傾向があります。 私がふじりゅうさんへの返信コメントで用いた詩的表現という語について書きます。 私が本当に文学に傾倒し始めたのは中学三年の時からでした。あの頃、私は現実的世界を生きるのがとてもつらく、現実逃避として本を読み始めたのでした。本の中に逃げたのです。そこに私は、夢見させてくれるもの、この世ならぬものを見ました。はじめ私は童話作家になりたいと思い、童話や児童文学を読んでいました。それらから出発してさまざまな本を読むようになりました。詩も読むようになり、たとえばポオの『鴉』には衝撃を受けました。 ところが高校二年の頃、私は突然のように現実的世界を受け容れることができるようになりました。それに伴い、私の読書態度も変わりました。もう現実逃避という性格はなくなりました。ただ、読書するということは続けたのでした。 このような青春から時間がとてつもなく経っている現在ですが、青春の経験はまったく消えず、現在も生々しく体感できます。 そこで、私が言う詩的表現という語についてですが、それは端的に言えば、すでに上述した、夢見させてくれるもの、この世ならぬもののことなのです。 文学の中に甘い夢を見た時期と、文学の中に現実を見ている時期を、両方経験した私から出た用語法です。
0南雲さん質問への丁寧なご返答ありがとうございます。なるほど、南雲さんの経験から生じた用語法でしたか。効果というものは後から自然についてくる、確かに読み手が予想外の読み方や効果を発見するかもしれないですね。 少し僕の書き方が悪く誤解を与えてしまったように思います。リズムのことに言及しましたが、全体的にというよりはあげた部分や細部の躓きだけです。前半というか、みやげ物屋辺りまでの筆運びは気持ちよくよみました。また随筆であることはビーレビにおいては特に問題ないのであくまで僕の感想です。 それから、 感性などの言葉が必要か、というのはこの作品では生まれた場所故に隔たりが生まれているわけでそこに成績だとか、スポーツがという個人や家族がどういうものであるかは関係がないと思ったからです。もちろん、この作品ではそのように書いている、作品の主体はそれを解った上で複雑な心境を語っているのでしょう。 ただ、主体は人生に失敗したという能動的な言い方をしながら生まれた場所が向こう側であるから仕方ないと言います。そこの諦めきれない複雑な心境が掘り尽くされていないように感じます。結果として開始から終了までで何か思索のなかで発展もないようで読んでいて、そうでしたか、で終わってしまいました。 あと孤高の流儀という表現や感性が豊か、という言葉が主体が語る仕方なさ、を何処か一方的なものにしていると思えるのはそのせいかもしれません。そこに血の巡りが滞っているようなリズムの違和感を覚えたように思います。 仕方ないじゃないか、から始まる最終連(この最終連自体は好きなんですが)で主体は結局仕方ない、と受け止めてないんだろうなと言う感想を抱いてしまうのです。 誠に主観的な読み方で、しらねぇよ、と言われるかもしれないですがそのように僕は読んでしまいました。
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