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いろは峠と恋札めくり(後編) ~詩飾り小説の欠片~
第三章 “炙り出し” 彼女は聞き上手でした。 遊女というだけでなく、天から授かった才能なのでしょう、言葉扱いが巧みで抵抗無く心の内を引き出されてしまうのです。 貴方は、生まれ故郷から、この山を登り始めたところまで、色んな話を溢しました。その度に、喜怒哀楽を浮かばせて、もっともっと、と誘うのです。 「どうしてこの峠へ?」 「この山を越えたいんだ。越えなければ、未来はない」 そう答えると、彼女は、まあ、と驚いて目を見開きました。 「どうしてそのような事を仰るので? 日が沈み、月を迎えてしばらく経てば、未来など、必ず向こうからやってきますのに」 「いや、望むのなら、自らの手で取りに行かねばならないのだ。でなくば、私に将来はないだろう。いつまで経っても、誰かの後ろを這いつくばるのみ。そのような無様な姿を晒して生きるわけにも行かない」 貴方は熱い言葉を吐き出しますが、彼女はそっと目を伏せ、もの悲しそうに囁くのです。 「そのような事。将来の善し悪しなど、誰がお決めになるのでしょう。他人は他人、ご自身が幸せであれば、それでよろしいではありませんか。幸せは、ここにもそこにもございます。お身体を酷使してまで他人と競い合うことはございませんよ」 ここにずっといらして下さいな。 甘い囁きと甘い価値観が、止まない霧雨となり、心を覆っていきました。 本能を司る脊髄の警鐘。とは言え、寝月姫さんと二人きりでいれば、混濁する心地良さに浸る危うさへ危惧など、取るに足らない世迷い言だと言い切る自信が湧いてくるのです。止まった刻の中で、意識だけが流されていきます。 快楽の何がいけないのでしょう。獣の時分から備わっている術(すべ)だというのに。自問自答は答えを求めない一人遊戯。 そろそろ横になりますか? 尋ねられた貴方は、うつらうつらしながら、視線を脇へ移していました。さきほどから気になっていたのは、和紙で作られた灯籠。 「あら、そちらですか? それは走馬燈にございますよ。ご覧になりますか?」 少々お待ち下さい、と、彼女は走馬燈を飾りのない壁の前に置きました。外側の六角形の和紙の枠を外して、中の蝋燭に燭台から火を移します。 ぼおっと点いた灯火はゆらゆらと揺らめいて、次第に直立する火へと変わっていきました。でも、障子窓に夕日の入り込んでいるこの部屋では、走馬燈を走らせるのに、いささか明るすぎる気がします。 寝月姫さんが着物の裾を摺らせながら、障子へと近づいていきました。障子に手を掛けると僅かに隙間をつくり、タンと音を立てて閉めました。 乾いた音が響くと、部屋が すうっ と暗くなっていきます。二度、三度。繰り返す度に、見えるものが少なくなるほどの暗さに。 とうとう蝋燭の明かりがなければ何も見えなくなるほどの闇が部屋を満たしました。そして走馬燈の脇に、そっと腰を落ち着けた彼女。暗い部屋に蝋燭の灯りを受け浮かび上がる姿は、現実離れの美しさを持ち、柔らかく崩した白い足が、着物の合わせ目から覗いています。 おいで、撫でて、と誘うよう。 誘蛾灯に引き寄せられる夜の虫のように。 ふらふら、ふらふら。 貴方の頭が良いところへ落ち着くと、寝月姫さんが走馬燈の蝋燭に、和紙で拵えられた外枠を慎重に被せます。 すると、襖に白灯の馬が現れました。 走馬燈は、彼女の指に従い、音もなく回り始めます。六角形の枠に、少しずつ動きをずらした馬の絵を切り抜いていて、中の蝋燭が周囲の壁に絵を投影する光の玩具。静かに回せば、光の絵がまるで動いているかのように見える幻想的な遊戯箱です。 ゆっくりと走り出す白灯の馬に導かれ、貴方の意識は朦朧としてきました。 過去は塗り固められた嘘で、未来は捉えることのできない偽り。 今はどこぞの幻か。 ここは誰ぞの夢の中。 襖の景色は一面、緑の広がる草原へと変わっていきました。草いきれを吸い込んだ馬は、初めて呼吸をしたかのように、生き生きと走り出します。 遠くに見える山並みは、雪を残した岩山で、裾野の木々と美しい色の違いを見せています。 やがて筆で書き込まれたように風がながれ、空に水色の色水が流し込まれると、いよいよ馬の足が速くなっていきました。 疾駆する栗毛の馬の後ろから、さらなる足音が聞こえてきました。 後ろから追ってきたのは黒光りする優雅な馬。 二頭が並ぶと、競うわけでもなく、だからといって足並みを揃えるわけでもなく。つかず離れずの距離を保ちながら走り続けるのです。 それは、貴方が理想とする距離。 誰も理解してくれなかった距離。 触れあえずとも、言葉を交わさなくとも、お互いを意識し続け合える関係。そんな二頭が草原を走り、やがて丘を蹴って、空へと駆け上がっていきました。 全く重さを感じさせない透明な空に、どうして浮いているのかさえ説明できないほど巨大な雲が浮かぶ、不可思議な晴れの空。 そんな場所に、二頭は揃って消えていったのです。 「おめでとう! 就職が決まったんだね!」 「これでみんな社会人か~。離れてもみんなのこと忘れないからね。それぞれの道で頑張ろう!」 「えー、入社一年目の君たちは、我が社にとっては金の卵であり――」 貴方は確かに幸せでした。 この変わりゆく星で、幸せを手に入れたのです。 でも、長くは続きませんでしたね。 「おい! いつまで学生の気分でいるんだ?」 「こんな事も出来ないのに、この会社に入ってきたのか。今年の新人は不作だって話は本当みたいだな」 「女だからって、優遇されると思うなよ? これだから――」 「お前も馬鹿の仲間入りになりたいのか? 世の中の連中はみんな馬鹿だ。その馬鹿どもに馬鹿どもが喜びそうな商品を売りつけるのが俺らの仕事だろ。仕事をしたくないなら帰れ、馬鹿と同じ空気を吸ってろ」 幸せな時間はやがて終わりを迎えます。 何が悪かったのかさえ理解する暇のないまま、貴方にはどんどん悪評のレッテルが貼り付けられていきました。 剥がそうとしては、上から貼られ、みっともないと笑われる。 誰かが貴方に言いました。 『そっくりそのまま他人に移せばいいんだよ。そしたらあんたは救われる』 ほどなく、何も知らない後輩が入ってきました。 そして貴方は、貴方は何重にも重なったレッテルを手にしたまま……考えたのです。 (これで、いいのだろうか) 考えてしまった時、貴方の未来は潰えました。 それは禁忌。 間違いなく 狭い世界の 悪行 窒息を求む 檻の中では 砕くための革命を、望んだ。 《貴方は頑張りました》 《もう、お疲れでしょう?》 《そろそろ、ゆるりとお休みになってはいかがですか?》 《ここには求めてやまなかった安らぎがありますよ。》 《幸せもあります》 《今まで味わったことのない、甘い蜜も用意されています》 《何も心配はいりません。ここでお眠り下さい》 《いずれ、長い時を経た後に、幸せな人生だったと思い返せることでしょう――》 あら、こんなところにまで潜り込むとは、相当な妖力を持った者。どうやら、深く気に入られたようですね。ここで、全てを投げ出してみますか? きっと、肩の荷も下りて、いつまでも、いつまでも、止まらない安らぎの中で眠れるでしょう。 瞬きする間に日は落ちて。 明けない夜が世界へ満ちる。 なんて、ね。 そのような安息の終焉を、世界が許してくれるはずはないでしょう? 貴方は英雄を示す星の下に生まれたのです。逃げる道も戻る道も、用意されてなどいないのですよ。 その代わり、類い希なる人徳に、決して折れない精神を兼ね備えているのです。その証拠に、こうして、遙かな次元の彼方よりわたしが貴方を見ているでしょう? それにもう一人。 後輩からもらった干支の置物を、今なお大事に持っていますね? その白い巳を象った陶器の置物も、今頃、大慌てで後輩に思念を飛ばしていることでしょう。 さあ、時間です。 すぅ たしっ 襖の微かに開いて閉まる音が、貴方の意識を呼び起こします。 すう たしっ 再び。 意識が浮上してきました。貴方は酷く怠さの残るまぶたをこじ開けます。 頭の下に置かれていた柔らかいものは、寝月姫さんの膝。 見上げると彼女の横顔がありましたが、その顔は輝くような金色の毛並みに覆われ、口は端正な曲線を描き、獣のように前に突き出ています。ピンと張ったひげがピクピクと辺りの気配を探っていました。 人型の時は潤んでいた可愛らしい目の色は、陽の光を受けて、今は淡い茶色へと変わっています。艶めいた肢体とは逆さまに、獣らしく純粋に鋭い瞳。 何を思ってか、口の端をぺろりと舐めた舌は、扇情的な桃色でした。 貴方が目を覚ましたことに気が付いたようです。 「あや、惜しや。起きてしまわれた」 そう言って貴方の顔に視線を落としたときには、もう女性の顔に戻っていました。 「随分とあの子に好かれとうな。水を差されてしもうた」 彼女が優しい手つきで髪を梳いてくれます。その感触に浸りながら、手を伸ばして、そっと彼女の頬に手を当てました。 指は細い毛並みではなく、妙齢の女性らしい吸い付くような感触を伝えてきます。 「狐、だったのだな。このままだと私は食べられていたのかい?」 そう問うと、闇の中に花のかんばせが開きました。 「食べてしまうにはもったいのう御心よ。お身体も十分に逞しそうゆえ、あちきが飼い慣らしていたことでしょうな」 「狐が人間を飼うのか?」 「昨今はもう、昔の様ではのうて。力の強いモノが上に立つ。正当な有様ではないのかえ」 「……そうか」 悲しそうな声を出した貴方の額に手を当てられます。そうして、触れた指が……指が額にずぶりずぶりとめり込んでいきました。 驚いた貴方でしたが、頭の中に指を入れられたことなどなく、動いていいものかどうかさえ見当が付かず、ひたすら目を見開いたまま固まってしまいます。 「抵抗なさらずに体の力を抜いて下されば。そのように硬くなられては、快楽へと落とすのが難しゅうございますよ」 目の間を抜けて頭部へ。 脳を、指で、撫でられている感触が、耳にも鼻にも、手足でさえ電気信号として伝えられます。原初の本能が持つ恐怖と、絶対的な強制快楽と、当たり前を崩壊させる至高。 「現世《うつしよ》で味わえる、全ての快楽を餌に与えて進ぜよう」 前頭葉の裏側を、指の腹でくすぐられました。 全身を巡る悦楽因子が、体を細かく痙攣させ、たぎる熱を強引に引きずりだされます。 目を覗き込まれた途端、視界から景色が消えて、思わず、しゃぶってしまったもう片方の指先は、とろりと溶けた後に喉の奥、身体の奥に忍び込み―― すぅ たしっ すぅ たしっ 一つ鳴ったら縁が切れ。 二つ鳴ったら息が切れ。 不思議な気配が消えましたね。 身じろぎをする貴方に、彼女が合わせました。 「これはこれは、難儀よのう。もう起きられますか?」 頭を支えられて身体を起こされると、座っているにもかかわらず頭の重さにふらついてしまいます。 目が回り、自身の揺れを抑えられない貴方は寝月姫さんの胸に抱かれるようにして、息を整えました。妖術に酔ってしまったみたいですね。 彼女が部屋の外へと声を掛けます。 「蛇緒、入りなさい」 襖がそろりと滑り、貴方をここに連れてきた少女が姿を見せました。音を立てて貴方の意識を呼んでいたのはこの子なのでしょう。 名前は『じゃお』というみたいです。 蛇緒は廊下で三つ指を突いてから、部屋の中に入ってきました。 そして、そのまま貴方の背中に隠れてしまいます。 「おやおや、随分と。わらわの邪魔立てをするなど今まで無かったこと。懐かれてしもうたようで」 声音とは裏腹に、彼女の目はなかなか鋭く、袖口で隠した口元には獲物を逃した悔しさが少なからず浮かんでいます。 「悪い気はしないさ。じゃおと言うのだな。可愛らしい女の子ではないか」 貴方が本心を口にしたところ、後ろの蛇緒がぴくりと跳ね上がりました。 目の前の、少し不満気だった寝月姫さんの顔が綻び、クスクスと笑う声が響き始めます。 「なんだ、蛇緒。言うておらなかったのかえ? さあ、こちへ。誤解は解いて差し上げねば」 蛇緒が、今度は大人しく寝月姫の下へと寄りました。寝月姫さんが蛇緒をくるりと反転させて、貴方と向かい合わせに立たせます。 そして、彼の腰帯に手を掛けると、するりと紐解き、肩から着物を滑り落としました。肩から滑る着物が、腰の辺りで抱え込まれて止まります。 蛇緒はその間、なすがまま。恥ずかしそうに俯く以外は、特に抵抗も見せません。 そうして現れた上半身は、やや骨張っていて引き締まり、筋肉が所どころに付いていました。もちろん胸の膨らみなどありませんね。 「この子は男の子でございますよ?」 勘違いをしていたようです。 可愛らしい容姿をしていますから、見間違うのも仕方がありませんが、確かにこう見せつけられては、信じる他ありません。 「主様はこういう子がお好みで? 蛇緒はわたくしが手ずから仕込みましたゆえ、きっと満足のいくご奉仕を致しますでしょう」 寝月姫さんが腰の下に回した手をもぞもぞさせるたびに、蛇緒の身体がぴくぴく反応を示します。 二人の仲睦まじい様子を見て、貴方は首を横に振りました。 「私はそこまでに器用では無いさ」 恥ずかしさからか、顔を赤らめる蛇緒を見ながら、籠絡の手をうまく躱してみせた貴方は、よっとという声と共に立ち上がりました。 向かったのは障子窓。外の様子が気になる様子。 「陽は、沈んでしまっただろうか?」 「それほど慌てられずとも。ごゆっくりなさればよろしゅうに。もう、搦め手で攻めるような真似は致しませぬ」 蛇緒の着物の前を合わせ、帯を手早く締め直す寝月姫さん。衣擦れの音さえも淀みなく流れていきます。さすがに手慣れています。 外の様子は、幸い、ここへ来たときと全く変わりがありません。時間の経過も見られません。 「主様が望まない限り、陽が沈むことはございませんよ? よくご存じでしょう」 「それはそうなのだろうが、如何せん私は自分を信じていないのだ。疑り深くもなる」 「左様にございますか」 気のない返事に、寝月姫の方を向くと、彼女は外の景色に目を奪われていました。 一瞬浮かぶ狐の面《おもて》が、狭い部屋を幽玄の狭間へと変えるのです。 「実に綺麗な景色ではありませんか。夕日が全てを燃やし上げ、端から順に灰へと散らしていく季節。影に追いつかれてしまえばきっと、夕暮れの空と同化して、影も形も失ってしまうことでしょう」 「なかなか優雅な言葉を操るのだな」 あら、と嬉しそうに笑った彼女は、深い胸元から一枚の札を取り出して見せました。 「主様には敵いませんよ」 そう言って、こちらに向けたのはさっき貴方が綴った恋札。愛おしそうにじっと見つめては、再び懐へと戻しました。 そんなやりとりをしている内に、蛇緒のお飾りが終わったようです。とてとてと寄ってきて、貴方の袖を取りました。 そろそろ出なければ、本当に陽が堕ちてしまいます。 「……そうだな、もうお暇するよ」 そうかえ、残念よの。 心底、名残惜しそうに呟いては、振り分け荷物を差し出して、合羽を手渡してくれました。 「また、お越しになってくださいな。いつまでもお待ちもうしております」 「ありがとう。寝月姫の名前を告げれば通してもらえるのかな?」 そう問うと、彼女は面白そうに笑い声を溢しました。 「いえ、それは叶いません。恋札をめくり、またわたくしを見つけて下さいませ。旦那様ならきっと見つけられましょう」 丁寧な挨拶をもらい、彼女の部屋を後にしました。 寝月姫さんが膝を付いてお辞儀をしている間に、蛇緒が貴方の先歩き出てきます。どこまで続いているのかわからないほど長い廊下は、彼女の手を借りなければ一階へ下りることさえ叶いませんね。 蛇緒の小さな手に、手を握られながら、いくつかの部屋の前を素通りしていきました。 立ち止まったのは並んでいる部屋と特に変わることのない襖の前。描かれているのは空です。どこから見たのでしょう、貴方達の生きている青い星が遠くに見えます。 蛇緒が音もなく、襖を引きます。 奥は部屋ではなく、下がり階段になっていました。階段を下りながら、貴方は蛇緒に尋ねてみました。 「君のじゃおという名前には、漢字があるのかい?」 すると、前を先導していた蛇緒は立ち止まって、掴んでいた貴方の手のひらを表に返しました。そこに指で、字をつらつらと流していきます。 『蛇緒』 指文字で判別するには難しい漢字でしたが、不思議と迷うことはありません。 蛇の緒。長寿を願掛けされたお名前です。 貴方は彼女の手を取りながら、願を掛け直しました。 「蛇緒。どこまでも幸せが続きますように」 蛇緒は、目を見開いた後に嬉しそうに顔を赤らめました。 手を握って目を瞑り、言葉の想いに浸った後、貴方の後ろへと回り込みました。 トントンと貴方の立つ段より二段上がると、目の高さが一緒になります。蛇緒の口が開きました。彼が口を開けるところを初めて見ましたね。 「~、~」 声にならない息が漏れ出てきます。今度は喉に手を当てて、はあぁーと息を吐き出しました。 何かを伝えたがっているのでしょう。しかし、声がうまく出てこない様子。 「いい、無理はしなくても。伝えたい気持ちがあれば、伝わるものだ」 今のお二人のように手を握り合って見つめあえたなら、声にならない思いさえ真心として伝わりそう。 蛇緒が綺麗な瞳に力を込めて、体から力を抜くと自然に声を発しました。 「ジャ」 「じゃ?」 「ジャ~」 二つに割れた薄紅色の舌先。滑らかなそれとは裏腹に、聞こえてきたのはちょっとざらつきのある鳴き声。 初めて聞いた声に、貴方は嬉しくなりました。もっと聞きたくて、催促を始めます。 「じゃ~」 「ジャッ、ジャ」 「じゃっ、じゃ」 「ジャ~、ジャ~」 「じゃ~、じゃ~」 音は通じなくても、深いなにかが通じている様子。実に楽しそうなじゃれ合いです。二段分、二歩の距離が心地よくて、貴方はしばらくの間、彼の声を楽しんでいたのでした。 しばらく。蛇緒が懐から、獣皮《じゅうひ》に包まれた薄いものを取り出して、手渡してきました。開こうとすると、蛇緒の手に止められます。 「開いてはいけないのかい?」 「ジャッ」 「そうか。お守りかなにかかな?」 頷いた蛇緒にありがとう、と返して二人は階下へ下りていきました。 玄関では楼閣の主人が、小さな椅子に窮屈そうに座りながら書き物をしていました。 貴方に気が付いて、驚いた顔で近づいてきます。 「おや、お早いお帰りで」 「元々、仮眠を取るためだけに寄ったのだから、むしろ時間を過ごしすぎたぐらいだ」 「げっこうげっこう。それはようございました」 どうやら、なにか粗相でもあったのだろうかと心配していたもよう。杞憂に終わったと知ると、太鼓腹を叩いて喜びました。 「ごゆっくりできましたかな」 「ああ、ゆっくりさせてもらったよ」 袖口を引かれました。そちらを向くと、蛇緒がなにやら言いたげな目で見返します。 気持ちを読み取って言葉を添えます。 「この子にも良くしてもらったからね」 そう言って頭を撫でると、蛇緒は嬉しそうに微笑むのでした。不思議な縁ができましたね。 「おや? 蛇緒がお世話を? そうですか、そうですか」 こちらも嬉しそう。 身支度を整え、蛇緒に全身を見てもらいます。ねじれていた振り分け荷物の肩紐を直してもらいました。 「もう発たれるので?」 主人の声に、貴方は頷きました。 「ええ、陽が堕ちる前にこの山を越えてしまいたい」 すると、主人の大きな目が更に見開かれました。 「日が暮れる前に、でございますか?」 「ああ、日が暮れてしまえばこの山は越えられないのだろう?」 貴方は視線で問いかけます。 山は様々なモノが住まう場所。日暮れの後は、あやかしの時間。人間が動き回れる時間ではないのでしょう、と。 「まあ……そうでしょうな」 いくらあやかしでも、陽の光の下では意識のある者を捕らえることはできないのでしょうけど、陽が堕ちてしまえばそれも容易にできてしまいます。 貴方は今までの旅で、それを学んでいました。 「しかし、この山の陰には何があるというのだ? 未来があると信じて登ってきたものの、この陰にある景色を未だに思い描けない。それでも、登らなければいけないことだけは、震える魂が伝えてくるのだが」 そうですね。諦めてはいけませんよ? あなたの背には、色々な人の思いが乗っているのです。投げ捨てるには、貴方の星は強すぎます。 「げっこう、げっこう。この山は、名も無い『奥の山』。向こうへ渡り帰ってきた人間はおりませんよ? それでも向かうと仰るのですか?」 確認に、貴方は大きく頷きます。 やれやれと首を振った男が言いました。 「この先にあるのは空白。それだけでございますよ?」 「空白? 白い大地と言うことかい?」 「いいえ、いいえ。空白は空白。何も――」 「ィジャッッ!!!」 男の声を遮ったのは、貴方の隣に居た蛇緒。 声は鋭く、まるで投げナイフを放ったかのような風切り音で、主人に突き刺さりました。蛇緒の身を覆う気配が濃密な意思を持ち始め、陽炎のように幽らりと立ち上がります。目には見えない不可視の力、触れば恐らく火傷をしてしまうほどの熱量を纏った視線。 びたりと、台詞も動きも止めた主人は、太い腹をぶるぶると振るわせて、顔から脂汗を流し始めます。やがて震えが大きくなり、奥歯がカチカチと鳴り始めました。 蛇緒の変質に驚いた貴方は、彼の顔を覗き込みます。視線を感じた蛇緒は顔を上げると、甘えるような表情を見せてくれました。 「ジャ~」 心地よい声。蛇緒が甘い声を出したときには、恐ろしい気配が消え、再び元の空気に転じました。 「げっこう…………げっこう…………」 主人が力なく鳴きました。 そしてこちらも元に戻りました。 最初に、戻ったのです。 「ようこそ、夢回楼へ。おや、旦那。ここへは初めてですかな?」 ここへ入ったときと同じ台詞。違和感をみせることもなく、本当に初めましての対応。 「いや、ここへは道を尋ねに来たのだ。部屋は取らないでおく」 「左様ですか? 揚げ代の心配なら無用の長物。当楼は始めて見えられるお客様から――」 どうやら、主人は繰りモノのようです。 本当の主人は誰なのでしょう。 第四章 “歩兵” 表に出ると、やはり夕暮れ。 主人と蛇緒に見送られて、楼を後にします。後ろ髪を引かれる思いとはこのことですね。 互い違いで色鮮やかに染まる木々は、来たときと変わらない景色を見せてくれています。 世界から疎ましがられた者は、世界の理から外れてしまいます。貴方の時間を制するものはもういないのです。 下がれば暮れる、進めば暮れない。気分次第で世界が進んでしまうのは恐ろしいものでしょう? まして、やり直しが利かないものですから、なお、さらに。 吹き下ろしの風が、敷き詰められた木の葉をめくり、気まぐれに貴方の視界を奪いに来ます。 それでなくても、草履と指との間に落ち葉を引っかけて歩きにくく、慣れない足では、なかなか速くは進めません。さらに足下、表面こそ乾いた葉が敷かれていますけど、そのすぐ下には足を取りに来る濡れた葉が厚く積っているのです。 晩秋の山風は寒いもの。合羽の前を手で押さえつけ、一歩一歩滑らないように足を出していきます。 渦を巻いて襲ってくる落ち葉。 ゴウと、今までで一番の風が吹きました。 身体を後ろに戻されて、思わず倒れそうになります。目を瞑る一瞬に見えたのは、木の葉の色、色、色。 恐ろしい色。 生まれてから今まで見てきた、全ての色が襲ってきます。そのどれもが、貴方を置き去りにして後ろに流れていきました。 流されてしまえば、転げ落ちてしまえば楽でしょうに。貴方は今までと同じように、踏ん張って流れに逆らい続けるのです。 世界には流れがあって、逆らうものを許してはおきません。逆らってしまえば、嫌われるのは道理でしょう? 身を切るような木の葉の群れが通りすぎれば、またひっそりとした森に落ち着きます。 上げた足が地に着いたときに沸き上がる違和感。 視線を落としました。履いているのは革の登山靴と丈夫なジーンズ。重ね着した上着は風を通さずに、温もりを抱え込んでいます。 ようやく、あやかしの領域を抜けて本来の世界に戻りましたね。 ふと、呼ばれた気がして振り返りました。 あれほど大きかった楼閣が跡形もなく消えていました。 その場所に立っていたのは、これまた大きな老木。アカガシでしょうか? 老いたとは言え、ねじれもなく天へと向かって伸ばした背筋は、ぶれることのない静謐な気配を漂わせています。 周りの樹木より一回りも二回りも広く茂った葉の冠は、濃く伸びる影を作り出し、根元に集うモノ達に加護を与えているかのよう。これほど見事な大樹なら、寄ってみたくもなりますね。 アカガシの根元に、平たい玄武岩が鎮座していました。その上に でん と乗っかっているのは、一匹の蟇《ひきがえる》。 身を屈め、両手を突いて。 顔を向けた先は虚空。その目は何も見てはいない様子。 誰かに向けるわけでもなく。 意味を知るわけでもなく。 繰り返し、鳴き声を上げていました。 「月光、月光」 月を呼ぶ蛙。 アカガシの幹に、縞模様のある細い銀色の尾が見え、するりと後ろに隠れてしまいました。 全ては幻。 そんな言葉が胸中に、浮かんでは消えていきます。 戻りますか? 望めばまた、幽玄の楼閣が姿を現すことでしょう。 歌を詠み合い、温もりを抱いて、今度は蕩けるように酔えるはずです。 そして、瞬きする間に陽が堕ちる―― 寂しくなってしまった貴方は、ポケットに手を入れて、蛇緒から貰ったお守りを取り出しました。 慎重に獣皮を開くと、中から現れたのは丁寧に折りたたまれた蛇の抜け殻。透明に近い白色の模様が入る、見たことの無い不思議な文様が浮いています。まるで切り子細工を施したかのような美しさ。 陽に透かして見たくなりましたが、夕日に焼かれてしまいそうで、そっと獣皮に包み直しました。 守りたいという想いの形。 幻の中にも真はあるものです。 貴方は前を向きました。 踏み出した足は、もう迷いません。 世界の果てを見に行くために。 世界を作り替えるために。 どこかで誰かの鳴く声に、貴方も声を合わせます。 「じゃあ」 生き抜くために、望む世界を見るために。 貴方は山を越えるのです。 今日中に越えて下さいね。 それまで見届けていますよ。 *** 匂い立つほど艶やかに 開いた華さえいつかは散り逝く 幸せをうそぶいた わたしも貴方も常は無し 在るべくして永久にそびえし 奥の深山や陽が暮れる 前に越えて行きましょう 夢に堕ちることさえ出来ず 酔うことさえも叶いはしない それでも歩む貴方を追って 綴る言の葉 風に舞え (いろは歌 独自解釈) *** 終章 “妖怪『狐憑き』” ココアの香りで目が覚めるのは、幸せだと思う。たとえ悪夢を見ていようとも。 あえて音を立てて、机にマグカップを置いたのは一応、優しさからだった。 もぞもぞと頭を上げた彼女は、虚ろな目をして、左右を見渡す。といっても、見えるのは何も代わり映えのしない、殺風景な社長室だが。 目が合うと、不思議そうな顔をしてみせた。 「あれ、寝ちゃってた?」 「はい。昼休みでしたし、起こさないでおきました。疲れていませんか?」 「そんなことはないわ。いつも通りのはずなんだけど。今は……」 「45分です。もう15分で1時を迎えますよ」 「そう……。変な夢を見てたの」 「夢、ですか?」 「江戸時代ぐらい? 登山をしてたのよ。どうしても山を越えたくて、私は男になってた」 「社長が男にですか? 確かに変な夢ですね」 「うん。山の中に綺麗な女性が居て、男の子が居て、男の子が女性に着物を脱がされて裸にされてて」 「……は、はぁ?」 「あ! 違うの! 変な意味じゃないのよ? えっと、何もしてないんだからね?」 「まあ、夢ですから」 「もう、君が変な声を出すから全部忘れちゃったじゃない」 「夢は忘れるものですよ? その方が健全です」 「それはそうでしょうけど。はあ、何か大切なものを見てた気がするんだけど。ま、いっか。お化粧直してくるから。ファーファ化粧品との詰め協議は30分からだったわね」 「ええ。事前の打ち合わせが予定通り進みましたから、特に煮詰める議題もありません。それより、まだ時間はあります。何か召し上がりませんか? お体に触りますよ?」 「そうね、何か。何か。ああ、何だか頭の芯がぼうっとするわ。サンドイッチはあるかしら?」 「はい、いつものを買ってあります。大丈夫ですか? 僕が代役を務められたらいいんですが」 「だめよ、君は口下手だもの。ありがとう。ふらつくだけで、仕事が出来なくなるほどじゃないわ」 「そうですか。一応、カフェインも用意しておきましょう。……あっ」 「うん?」 「背中に毛糸が……黄色の……あれ、これは」 「何? 何か付いてる?」 「……いえ、ゴミでした。はい、綺麗になりましたよ。では、昼食を用意してお待ちしています」 社長が奥に消えたのを確認してから、手の中の物に視線を落とす。糸ではなく、黄色の獣毛。 じっと視線を浴びせると、やがてチリチリとかすかな煙を上げながら焦げていき、白い残滓と変わった。 灰を窓の外へ、ふっと吹き飛ばす。 「どこから嗅ぎ付けたのかは知りませんが、彼女は僕の獲物ですよ? 手出し無用に願います、寝月姫様」 遠くに見える山並みは、今なお緑が生い茂り、太古の息吹を抱えている。 この世界の在り方を、人はまだ知るよしもない。 それでこそ人間なのだと、今更ながら僕は思う。
いろは峠と恋札めくり(後編) ~詩飾り小説の欠片~ ポイントセクション
作品データ
P V 数 : 1610.1
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ポイント数 : 15
作成日時 2020-01-03
コメント日時 2020-01-06
項目 | 全期間(2024/11/21現在) | 投稿後10日間 |
---|---|---|
叙情性 | 3 | 3 |
前衛性 | 1 | 1 |
可読性 | 1 | 1 |
エンタメ | 2 | 2 |
技巧 | 4 | 4 |
音韻 | 2 | 2 |
構成 | 2 | 2 |
総合ポイント | 15 | 15 |
平均値 | 中央値 | |
---|---|---|
叙情性 | 1 | 1 |
前衛性 | 0.3 | 0 |
可読性 | 0.3 | 0 |
エンタメ | 0.7 | 1 |
技巧 | 1.3 | 1 |
音韻 | 0.7 | 0 |
構成 | 0.7 | 1 |
総合 | 5 | 4 |
※自作品にはポイントを入れられません。
- 作品に書かれた推薦文
いや、まあ。目測を誤ってしまって、二万文字を超えてしまいました。前後編になってしまって申し訳ないです。 詩のサイトに投稿するのはどうなんだって作品ですね。ただ、小説としては致命的に読みにくいので、小説の枠に入れるのも憚られる、いわゆる問題作です。 果たして、最後まで読める方はいらっしゃるのだろうか(笑)
0いささか長いと思いましたが一通り読みました。滑らかな感じの散文で読み易いとは思いました。寝月姫や蛇尾(じゃお?)、月光など比較的よく出て来たワードを書き出して見ると、蛇姫様見たいなワードも空想みたいに私の頭の中に出て来ました。
0沙一 さんへ 最後までお読みいただきありがとうございます。2万3千文字にまで膨らんでしまって申し訳ないです。 言葉遊びに関しては、色々考えるのが好きなんですけど、伝わらなければそれでもいいと思ってます。仕掛けが伝わらなくても、面白く感じてもらえるようなものを書かなければな~と。 映像の変化を褒めていただき、ありがとうございます。意外な変化をできるだけ自然に書けるよう心掛けています。上手くできるときと失敗するときの差が酷いですけどね。ただ、最後まで浸っていたい人からすれば評価は分かれるのかも? 語り手の正体は内緒です(笑) てか、あまり詳しく考えていなかったんですよ。最初は『二人称を書きたい』というところから生まれた語り手で、最後のシーンも後付けだったりします。そんなわけで、多分語り手の正体は、誰でも成り得る存在になったような気がしています。もしかしたら読者かもしれませんし。その辺は、作者は関与しないことにしましょう。 ちなみに、『二人称』なのか『三人称神視点(人格を持った三人称)』なのかはわたしもよくわかっていないんですよね。そもそも、二人称で書かれた小説作品が少ないので。 そうそう、いろは歌から生まれた作品なんですよ。いろは歌の解釈って調べると、様々な意見が出てくるんですけど、個人的にはしっくりくるのがなくて(奥山とか)、どういう意味なんだろうと考えているうちに出来上がったものです。どこから何が生まれるかわかんないところも、文学の面白さですね。 長い作品でしたが、最後までのお付き合いありがとうございました。気に入っていただけたようで良かったですよ。 ちゃんとした詩作品も書いていきたいものです。
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