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青空
(一) 気球みたいに膨らんで いったいどこまで拡がっていくんだい どこまで 飛んでいくんだい 草原を折り紙にして 川を曲線にして ひとを 点よりも小さな点にして 風はどうだい? それにしても それにしても おお (二) 白球を放りあげると投げ返してくれる ため息をもらすと吸いあげて 退屈な午後には口笛を吹いて 鳥を呼んでみせる いつからかはしらないけれど いつも 友だちだった きみは (三) まったくもってのからっぽで カラッポ、カラッポ 音がするのだ やあ、蹄だ 青い風のなかをのんきに 馬が走っているのだ 空っぽだから ひびくひびく (四) 目を瞑り息を吸いこむと 鼻孔をくぐって体の深みでひろがる なんという 音無しの宙の水 この青さよ ふかふかの大気が軽々と重い精神を持ち上げて いま わたしは沖合いに揺れる浮標 光が波にはぜているのは 海の誕生日だからだ (五) 私は知っている。 野に谺した銃声と散った羽根。 犬や猫の死体は来る日も街々の路上に蹲り、 港では荷揚げ人夫が酒壜を逆さまにしていた。 ヘルメットの焦げた穴から蟻が這いだし、 子どもたちが井戸水を、 じゃれあいながら分けあっていた。 赤茶けた水とぼうふらと。 知っているか。 靴磨きの少年の歯軋りや、 雑木林に浮かんだ白い脚を。 屋根の上の猫の居眠りと夢の皿に盛られた魚、 墓に跪く泪や、日傘に隠れた口づけを。 湖畔では片翼の櫂に、 蝶の肢が触れることだってあった。 (六) ささやかな幸せと それらと等価の不幸せ いずれにも触れる手を私はもたない あらゆるものを目にしながら 世界は 限りなく遠くある 見上げては美しいと呼ばれる もうひとつの空をいつの日か 仰いでみたい (七) 価値のない生はひとつとしてない 悲しみのわけはそこにある そうとなればわたしは そうだ、生きるとしよう すこしでも優しい波をたてられるように 青空の孤独を傍らに そうして言葉ではなく 日々の 不格好の形でもって投げ放ち 告げよう きみは美しいと
青空 ポイントセクション
作品データ
P V 数 : 1624.3
お気に入り数: 0
投票数 : 0
ポイント数 : 10
作成日時 2019-12-06
コメント日時 2019-12-31
項目 | 全期間(2024/11/21現在) | 投稿後10日間 |
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叙情性 | 5 | 0 |
前衛性 | 0 | 0 |
可読性 | 0 | 0 |
エンタメ | 0 | 0 |
技巧 | 2 | 0 |
音韻 | 0 | 0 |
構成 | 3 | 0 |
総合ポイント | 10 | 0 |
平均値 | 中央値 | |
---|---|---|
叙情性 | 5 | 5 |
前衛性 | 0 | 0 |
可読性 | 0 | 0 |
エンタメ | 0 | 0 |
技巧 | 2 | 2 |
音韻 | 0 | 0 |
構成 | 3 | 3 |
総合 | 10 | 10 |
※自作品にはポイントを入れられません。
- 作品に書かれた推薦文
悲しみの終わりが悟りです。
0言葉を調べながら、とても興味深く拝見しました。今日の空は曇りでしたが、その上は青いのだと思いながら。 (四)の >音無しの宙の水 この青さよ このような表現、とても思い付かないけど、心に響きました。水なんだよな、と。そして、青い。最近、なぜ空は青いのかということを考えながら歩くのですが、娘に、「赤も、黄色も、紫もある」と言われてしまいましたが。 (五)では、現実。 先日、アフガニスタンで長年、人道支援と復興に携わってきた医師の中村哲さんが銃撃された記事を思い出しました。同じ青空の元での出来事。 >屋根の上の猫の居眠りと夢の皿に盛られた魚 この部分が個人的に好きです。 (七) >生きるとしよう がとても清々しく感じました。 私は悲しいニュースを見るたびに、あたふたしてしまうし、困難にぶつかると今でも生きることが難しく感じますが、そういうときは空を見上げることにしようと思いました。ありがとうございました。
0taishi ohira さま なるほど、そうでしたか。私はてっきり無明の闇に朝を告げる鳥の名とばかり思っていました。ありがとうございます。
0つつみ 様 読んでくださってありがとうございます。10年ほど前に他のSNSにあげたものを手直ししたものです。引いてくださった連の箇所は、 息を吸いこむと 鼻孔をくぐって 体の深みに空がひろがる 厚い大気が軽々と 重い精神を持ち上げて いま私は沖合いに揺れる浮標 秋の下で夏の海が光っている でした。タイトルが「青空」なのですが、当時のものを読み返してみるに、「空」という語を多用していてクドいと感じたのと、像が曖昧で(つまり「空」という語がもつイメージに委ね過ぎていると思ったので)、「空」を省いて、主体が感覚している実感に合わせてみました。その際、形容詞ばかりでこれまたぼんやりとしていて表面的になってしまったので改め、その過程で(他の行との関連も考えて)「水」という語がでてきました。当時はこれでよしとできたものが時間が経過すると書ききれていない気持ちになるというのは、私の考え方が変化したからかもしれませんし、書くにも読むにもその時々の限界があるからだろうと思います。よくも悪くも過去のものは漠然としているように思え、また今回のものはここまでです。 同時性のなかで、知らないところで知らないことが様々に起こっていて、知らないことの方が圧倒的に多く、知っているとしても自分をしか生きることができないということは昔も今も変わらないようです。それはわかっていても、現実はやはり厳しいですね。中村医師の事件も中村氏が行ってきたことと生きてきた時間を思うと言葉がでてきません。コメント、感謝します。
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