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まどろみにうなだれて
遮断機が降りるほどの速さで瞼は閉じて夢を誘った。甘やかでみじかい抵抗はどこまでもきみの手を取り引きずっていく。置いていかれたわたしはひとり缶ビールを手に取って、きみのいま観ているものがちょっとだけ覗けたらいいのに、とまどろむ様子を眺めていた。息を潜めて、この先ふたりがどうなってもずっと今を覚えていられるように。いつでも簡単に思い出せるようにと飲み込んだひとくちは、いま体のどこを通っているのかわかるくらいに冷たくて苦かった。
まどろみにうなだれて ポイントセクション
作品データ
P V 数 : 1152.0
お気に入り数: 0
投票数 : 0
ポイント数 : 2
作成日時 2019-10-08
コメント日時 2019-10-08
項目 | 全期間(2024/11/23現在) | 投稿後10日間 |
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叙情性 | 1 | 1 |
前衛性 | 0 | 0 |
可読性 | 1 | 1 |
エンタメ | 0 | 0 |
技巧 | 0 | 0 |
音韻 | 0 | 0 |
構成 | 0 | 0 |
総合ポイント | 2 | 2 |
平均値 | 中央値 | |
---|---|---|
叙情性 | 1 | 1 |
前衛性 | 0 | 0 |
可読性 | 1 | 1 |
エンタメ | 0 | 0 |
技巧 | 0 | 0 |
音韻 | 0 | 0 |
構成 | 0 | 0 |
総合 | 2 | 2 |
※自作品にはポイントを入れられません。
- 作品に書かれた推薦文
「まどろみにうなだれて」があまりすっと入ってこないのはもしかしたら、言葉の組み合わせの個人的な好みなのかもしれないが、たとえば「まどろみがうなだれて」ならばしっくり来るような気がする。なぜなのかちょっと気になったので自分なりに分析してみると、「まどろむ」のも「うなだれる」のも「自分」であると読めるからで「自分」が「まどろむ」という動作の主体としての「自分」と「うなだれる」という動作の主体としての「自分」というふうに主語がまず二つにまず分裂し、「まどろんだ自分」に「うなだれる自分」という風に動作の対象としての「自分」との関係が複雑になってしまうがゆえに入ってこないのではないか、という気がしたが、一方「まどろみがうなだれて」とすれば「まどろんだ自分」が「まどろみ」という言葉が喚起する様々なイメージと共に「まどろみ」という隠喩に置き換えられ、その述語関係がすっきりするからではないかと、ここまで分析してみると、案外「まどろみにうなだれて」も「まどろみがうなだれて」も大して変わらないし、「まどろみにうなだれて」でもなんだかすっと入って来るような気がしてきたので、やっぱり何か引っかかりを覚えたときはちょっと舌の上で転がして味わってみるのがいいのかもしれない。正直私自身も何を言っているのか分からなくなってきたので、これを読んで訳がわからないと感じた方は多分正しいのだと思う。 全体の雰囲気は好きだし、文体のスタイルや比喩の使い方自体はすごく好きな部類のものなのであるが、この作品ではそれぞれの比喩が内容を邪魔してしまっている印象がある。 >遮断機が降りるほどの速さで瞼は閉じて夢を誘った。 たとえば、この比喩では「遮断機」というのがいまいちイメージしにくくて、それが踏切の遮断機なのかあるいはもっと一般的な遮断するものなのか少々イメージしにくい。というのはまず場面設定として踏切であることを暗示する表現がないことと、踏切の遮断機の降りるスピードは決して速くない、という私の印象から生じるイメージの齟齬が原因だと思われる。 これが例えば「カメラのシャッター」であれば「瞼を閉じる」スピードがかなり速いのだとこの比喩を具体的にイメージできるし、逆に「踏切の遮断機の曖昧な速度で」(思いつきで書いているのであまりうまくない比喩ですが)などとなっていれば「瞼を閉じる」スピードが緩めのものであることがイメージできて、今度はそれがタイトルの「まどろみ」と結びついてイメージの連鎖が発生してずっと読みやすくなるのではないか。 一つ一つの文同士の関係や繋がりにもっと注意が払われたなら、魅力が非常に増すし読める読者も増えるのではないかと思う。 >いつでも簡単に思い出せるようにと飲み込んだひとくちは、いま体のどこを通っているのかわかるくらいに冷たくて苦かった。 こういう表現は大好きだ。
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