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道理
傘は要らぬと言い残し、岸から跳ねた殿様蛙は良く肥えた腹で川面を破った。滑らかに揺れる流れを掻けば、手足を伸ばし、脇目も振らずに深みを目指す。 粒の小さな鬱陶しい雨が川面に綾を生み出していてなお、底に並んだ丸石の面を拝めるぐらい澄んでいる、燃えているのかと思うほどに緋色に染まった川だった。血潮の大河。大河と言って良いだろう、対岸はあまりに遠く、私程度の眼では見通すことも叶わない。 蛙の背負う白一文字が揺らぐ波間に溶け込むと、命を包んだ身体を失い、靄へと変わった志が、何処か遠くへ昇っていった。 彼は何の果実に宿るのだろう。誰の腹から生まれるのだろう。どの星の子となるのだろう。あれだけ気骨の素直な者だ。どんなに凡器に入れられようとも、己の御旗を振るだろう。 私も人に誇れるような生き方をしてみたい。せめて自分に自信を持てるぐらいの人生だったと言えるぐらい。 こんな所へ来てしまってから、願うことではないのだろうが。 どうして寄り道なんかしてしまったのか。家では妻も娘も、私の帰りを待っていたのに。 しばらく、変わらぬ川面を眺めるが浮かぶものはなく、広げたままの傘を閉じて手挟んだ。 週末に、娘と一緒に公園へ遊びに行く約束を、確かにしていた。土日とも雨の予報だと聞いた時、雨に煙る公園を娘と2人で仲良く歩く姿が脳裏に浮かんだ。 それまでは晴れの景色しか思い描いていなかったが、雨の日の良さ、街の雑音を無数の水滴が抱え落ち、情報過多に動き回る視界を淡く暈かしてくれる雨の日の良さを教えるのも楽しいかもしれない。 それには、まず、一緒に外へ出ようという気にさせなければな。浮かれ気分で、仕事帰りに子供用の傘を買いに行ってしまった。傘など、いつ買いに行っても良かったのに。 視線を感じて振り返る。遠くに座っている閻魔と目が合った。大人しく、人間の列に並び直す。 前に後ろに並ぶ誰も彼も、口を開かなかった。 神か仏か、それっぽい者のお告げを待って、みんな神妙にしているのかと思ったが、そういうわけではなく、本当に会話を忘れているようだ。こんな所で話し相手が居るわけもないと考えたのか、話したい相手の居る世に言葉も表情も置いてきたように見える。 皆、顔はなかった。 船頭が歌う舟歌が、川風に運ばれ抜けていく。 触れた黒髪 温もりが 消えゆく灯火 飾り立て 零れた言葉の 行く末を 目を閉じ送った 時雨雨 川面に抱かれる 月影を 虚無の瞳に 浮かべたい 貴男の居ない 水世など 枯れてしまえと 渡し舟 舟歌にしては涙が多い。それでも、女は乾ききった声で、訥訥と歌い続けるのだった。 「繰り返し、渡すのさ。忘れるまで渡し続けるのさ」 目的地の目と鼻の先にある案内板が、欠伸をかみ殺しながら教えてくれた。 「二人でここへ来たら、片方が舟を漕ぐのが通例でね。先に渡る者は良いが、残された方は背中を押してくれる者も無く、渡る決心が付かない者も多いんだ。迷ってしまえば船は行く。あっちにもこっちにも降りられなくなり、自我を保つには舟を漕いでいるしかなくなる。 その人を忘れるまで渡し続けるのさ。記憶が流れ、その身が骨に変わったら、ようやく渡る決心が付くんだろうさ」 地獄のような余生だ。他人事とは言え、同情を禁じ得ない。 「ふぁあ、また迷っている人が居たら教えてくれ」 こんな所で、迷う人が居るのだろうか? もう行き先は決まっているようなものだろうに。 食べたら寝るのが仕事だという案内板は、欠伸を飲み込み、再び眠りについたのだった。 『道理番』 順番が回ってきて、私は閻魔の前に置かれた、たった一つの席へと座る。縦にも横にも巨大な閻魔が鼻につく粘っこい笑顔を見せて、くいと眼鏡の位置を直した。 「これは、珍しい人間ですねえ。生き生きとしていらっしゃる。あなたの名前を教えてください」 質問された。 答えを順に返していく。 「元前 一之です」 「持って来た物も、ここではなかなか見ることのない物。あなたの持ってきたお土産を教えてください」 「傘です」 「その傘は、何をするための物ですか?」 「肌を突く、骨まで凍えるような雨から、彼女を守るためです」 「うん? ここではそんな酷い雨は降りませんよ?」 「そうですか」 「あなたはここで何を成したいですか?」 「終わらぬ苦しみを課せられ続けられる人々を救いたいと思います。望まずに落ちてしまった人々を解放できればと思っています」 「おお、やはり誤解されていますね。もう、そんな時代ではなくなったのですよ。痛み、苦しみだけでは、魂が浄化されることはないのだと、私共も考えを新たにしたのです」 「そうですか」 「争いもなく、飢餓に苦しむこともない。自由な生活がどれほど幸せなのかを学ぶことで、新しい生でも同じように生活したいと望む。これが本当の浄化なのだと考え、鞭を打つことを止めたのです。向こう岸に渡った皆は、満足そうに生きていますよ」 「そうですか」 「はい。それでは聞きます。あなたはなぜ、ここに来たのですか?」 私はあらん限りの声を張った。 「妻と娘を返せ、クソ野郎」 閻魔は机の陰から大きなカップを取り出した。中に手を突っ込むと、ポップコーンを掴み上げ、鷲掴みにした菓子を私の目の前で、髭に覆われた口へと放り始める。 「帰れ」 閻魔は言った。 ポップコーンを むしゃむしゃ やりながら、言った。 「帰れ」 閻魔が私に帰れと言った。 私に向かって帰れと言った。 ただただ帰れと言ったのだ。 気が付けば、舟の上に横たわり静かな歌を聞いていた。 骨身まで痛む手足を庇い、ゆっくり体を起こしていく。 景色は酷く、酷くゆっくりと変わっていって、しばらくすると、鼻を突く煙の匂いが漂い始めた。 舟のへさきが向きを変える。 遙か向こうに我が家が見えた。 焼けて崩れた我が家が見えた。
道理 ポイントセクション
作品データ
P V 数 : 1717.4
お気に入り数: 0
投票数 : 0
ポイント数 : 9
作成日時 2019-10-04
コメント日時 2019-10-22
項目 | 全期間(2024/11/21現在) | 投稿後10日間 |
---|---|---|
叙情性 | 3 | 1 |
前衛性 | 1 | 0 |
可読性 | 2 | 0 |
エンタメ | 2 | 1 |
技巧 | 1 | 0 |
音韻 | 0 | 0 |
構成 | 0 | 0 |
総合ポイント | 9 | 2 |
平均値 | 中央値 | |
---|---|---|
叙情性 | 1 | 1 |
前衛性 | 0.3 | 0 |
可読性 | 0.7 | 0 |
エンタメ | 0.7 | 1 |
技巧 | 0.3 | 0 |
音韻 | 0 | 0 |
構成 | 0 | 0 |
総合 | 3 | 2 |
※自作品にはポイントを入れられません。
- 作品に書かれた推薦文
yamabito さんへ 繰り返しのお読み、ありがとうございます。 詩情が籠もっているのか不安でしたから嬉しいです。何せ、SS・小説形式でしたから、ここに持ってくるのに勇気が要るのです(笑) ハッピーエンドは、そうですね、大勢に読んで貰おうと思うならハッピーエンドの方が良かったのかもしれません。わたしも小説はハッピーエンドが好きなんですよ、ほんとは。今回のテーマは道理でしたから、無理を通すわけには行かなかった。そこにこだわったから、読者を絞ってしまう反作用が出ているんでしょうね。 んー、明るいのも書きたいですね。
0沙一 さんへ お読みいただきありがとうございます。 そうそう、終盤を書きたかっただけの作品と言っても過言ではないのです。お互いの本音が出てくるシーン、カタルシスは良い言葉ですね。ぴったりですよ。 もう少しちゃんと説明を入れた方が良かったなーと反省してます。主人公は、自らの意思で、家族を連れ戻すためにあの世へ下ったって話だったんですが、かなり省いてしまった為にわかりにくくなってしまいました。ラストはですね~、想像にお任せします。いずれ、なんとなく良い感じにはならなかったんだなって雰囲気があるかな。 んー、これはそのまま小説で書いた方が良かったかもしれません。小説にあらず、詩にあらずって所を目指したんですが、恐らく小説として書いた方が面白く仕上がったように思います。要研究。 仏教用語と相性が良かったとは! しかも、微妙に絡みますね。うわー、書く時に知っていたら、もっと世界観が極まったはず。あー、惜しい。船頭は、降り続く慈雨の温かみに触れて、ようやく向こう側に行く決心が付くとか、閻魔が火宅の話を用いて主人公を責め立てるとか、色々使えそうです。 あーあー、これはやっぱり小説にするべきだ。うん。 そうですね、冒頭の文がするりと生まれて、そこからにょきにょきと育った作品なのです。自分で読んでも、文章に酔っちゃってるのがわかりますね(笑)愉しかったですよ~。リズム良く描写を書き進められてる時が、本当に好きなのです。
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