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Always Fantasy
――僕はかつて自分の詩を料理のようなものだと表現した。僕は音楽もそうであるとなんとなく思っている。しかし料理とはなんであるかについては十分料理されていないと感じた。それゆえここには料理について書くことにする。 《調理》 あるいはまた、存在の領域を超越するかもしれず、ケージの中の
Always Fantasy ポイントセクション
作品データ
P V 数 : 853.5
お気に入り数: 0
投票数 : 0
ポイント数 : 0
作成日時 2017-06-01
コメント日時 2017-06-05
項目 | 全期間(2024/11/21現在) | 投稿後10日間 |
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叙情性 | 0 | 0 |
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※自作品にはポイントを入れられません。
- 作品に書かれた推薦文
花緒さん、お読みくださりありがとうございます。顔文字ではなく、絵文字のことでしょうか? この詩は一言でいうと「ジョン・ケージとマックのポテトの音とゆずの『夏色』のアバター的世界観を基調としたリミックス」なのですね。もっと豊富な読みをしてくれる方はいらっしゃるかどうか、期待しています。
0花緒さま 今先ほど改めてALWAYS RETURNINGを読み直してみて思ったのですが、自己言及性を皆さん積極的に着眼して批評されていて、それで思ったのですがALWAYS RETURNINGは、登場人物が五人ぐらい出てくるのですが、こちらはそういう風に登場人物が複数出てこないのですよね。なので、全然違う系列の詩と見てもらった方がいいと思います。しかし何故初読で吉岡実を思い出さなかったんだろう。自分でもよくわからない。なんとも言えない独特の花緒さんオーラに惑わされていたのかもしれないですね(笑)。 kaz拝
0鈴木海飛さん、ありがとう。平野レミの言葉ですが、料理は1+1=2じゃないの。1+1が3にも4にもなるの、と言っていたんですよね。それが詩にも言えると思っていて。
0〈マッシュルームと呼んだ。霧の中で、私が一番呼びたかったものは、〉散文的な部分で、呼ぶ、をこんな風に重ねていくと、うるさい気がします。部屋を呼んだ、という最初の使い方と、私が呼びたかったもの、使い方のずれも気になります。 マッシュルームと名付ける。霧の中で私が一番呼びたかったものは・・・ 名づける、という意志的な行為を、入れるかどうか。呼ぶ、という行為は、呼び寄せる、は、既に在るはずのもの(自分はその名を知らなくとも、名は有しているかもしれないもの)を召喚する行為だけれど、名付ける、は、自分が名付けた以降に(自分の中で)「存在」し始めるものに対する行為、だから・・・言葉を、この場に存在させるか、呼び寄せるか、というような、詩論的な部分に関わるところで・・・うまく説明できていないけれど、伝わっている、でしょうか・・・。 〈喰らう、暗い連中が〉音の響きが生む連想が、「日の名残り」の伏線にもなっているように見えるところ、ですが・・・必然性が、イマイチよくわからない。私が読めてないだけかもしれないけれど、マッシュポテト、の後にマックフライポテト、の絵文字をつなげるのは、音のつながりの方を拾って、イメージのズレを意識させるため、なのか、させないため、なのか・・・ 〈垂れ流しの表現による表現の感染〉批評性も含んでいて、面白いところだけれど、ここと〈しかし料理とはなんであるかについては十分料理されていないと感じた。〉という命題は、どう結び付いているのか。 より硬質な感じで(そうするとより面白くなる)大仰に(哲学書のように)命題を提示して、中身はあえてハチャメチャに崩していく、とか・・・全体に理論武装で(AはBでありBはCであるから・・・みたいな感じで)あえてかっちり、しかし内容的には意図的に空疎なナンセンスに持って行く、とか・・・全体に散漫な感じで、もっと締めていく方向性が欲しいな、と思います。期待しているがゆえに。
0まりもさん 丁寧なご批評ありがとうございます。ただ、いくつか指摘しておきたい点がありますので、それについてはお話ししておきます。まず、最初のマッシュルームがどうこうという箇所ですが、これはマッシュルームと呼んだその部屋に「ここが勝負」という一言を呼びたかったのだと、いうことですので、この箇所は「マッシュルームと読んだ」などと変えるわけにはいかないわけです。そして後半戦で「ネオダダイズムのネオン」などというリフレインが出てくることからもお察しのように、この詩は繰り返しがミソになっている側面も多分にあると思っています。もっと言うと、例えばT.S.エリオットのシェイクスピアのラグタイムを引用した箇所で、O O O Oが入る余地がその実際の曲にはないというように(詳しくは『モダニズムの惑星』のT.S.エリオットの項目を参照してください)、自分で作曲してしまう、とか、自分で演奏してしまう、とか、自分で自分なりの調理法を開発してしまう、というのに近いと思います。 また私がそのように言いたがるのを逆手に取っての「哲学」「命題」というお言葉なのかもしれませんが、この前新宿眼科画廊に行ったときに鑑賞した『特攻服 ウィトゲンシュタイン』というのがありまして、またこの前『ビリー・ザ・キッド』を見たのですが、ジャケットを着たり脱いだり落としたりというのを延々と繰り返すトレーニングがありまして、これら一連の体験に関連して申し上げるならば、現代において哲学はファッションでありますゆえ、観念の着こなしのようなものもあると考えております。固定観念を避けるというのが私のスタンスなのですが、観念を避けるためにまた別の観念を探し続けている、というような状態でございます。このやり方でいつまで続くかはわかりませんが、当分はこんな具合だと思います。
0鈴木海飛さん 詩?なのかわかりませんがありがとうございます。ありがとうオリゴ糖、ありがとう御座候。ときには自分の言っていることが有意味な命題ではない=思考ではない、かもしれないと感じることが私にはあるのですが、妄想と峻別できていればよいと思って、ある程度は気楽に構えています。 私は食べ物を粗末にする人間ではないと少なくとも自分では思っています。ただ料理の味と見た目にはこだわりがあります。料理が哲学であり、哲学が料理であるような感じです。と同時に、まあ料理も季節によって着こなすことが大事なのかな、と。
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