作品を読む
『Diving into the Wreck』との対決
今日の昼、私は、或る美術館に行った。私が美術館に行くのは、2004年の春、国吉康雄展を見るために東京国立近代美術館に行って以来の、かなり久しぶりのことである。だから私は今日、初めて美術館に来たような感じがした。美術館で作品と対面している時間は、不思議な感覚を催させる。あの静かな環境の中に立って、作品と対面している時間は、ゆるやかに過ぎているものなのか、せわしく過ぎているものなのか、私はそれを思うのである。作品の前を、いつ、立ち去ればいいのか、分からなくて惑う感覚である。そんな長いような短いような時間の中で、私は、Adrienne Richの詩『Diving into the Wreck』について自分がどう語るのが良いのか、ずっと頭の中で小さな火を燃やし続けるように考え続けていた。その火は、私のちょっとした思い出を呼び起こした。二つの思い出であるが、いずれも私が16歳か17歳の時のこと、高校での思い出である。 一つは、こんなことである。国語の授業で、先生が私たちに、森鴎外の『舞姫』を現代語に訳せ、という課題を出した。私は、それは無理ではないかと訝ったが、やはり無理で、私の答案は、『舞姫』の全文写しとなった。反抗したと言えるけれども、それ以前に、私は『舞姫』の中に訳すべき言葉を見出し得なかった、『舞姫』は私にとってすでに現代語で書かれていたのである。 もう一つの思い出は、美術の授業でのことである。一年間の最初の授業で、先生が私たちに自己紹介をさせた。私の番が来て、私は「パウル・クレーの絵が好きです」と言った。そんなふうに芸術家の名前を挙げて自己紹介をした生徒は、私の前にも後にも、私だけであった。先生は、これを聞いてすぐに「うん、どんなところが好き?」と半ば争うかのような口調で訊いてきた。私は答えられなかった。先生は何も言えない私に向かって、「それが言えなければダメなんだぞっ」と叱るように言った。私は恥ずかしかった。他の生徒たちからは、私に同情するような雰囲気が感じられた。 これら二つの思い出がどうして呼び起こされたのか、私はすぐに悟った。 一つ目の思い出は、私が『Diving into the Wreck』の私なりの日本語訳を思い浮かべながら美術館の中を歩いていたことから来たのである。私はこれまで、この詩の日本語訳をしたことがない。誰かの日本語訳を読んだこともない。英語のまま読んでいたのである。今まではそれで良かった。この詩を読むことは、私の個人的な楽しみの範囲を超えることではなかったからである。しかし今、私は、自分ではこの詩の日本語訳をしたいという意欲を持った、そして他者からは、この詩の私による日本語訳を、それが私がこの詩をどう読んでいるかを示すものであるという理由で、為すべきことであると言われているはずである。私は、要請に応える。『Diving into the Wreck』の全文写しなどしない。 二つ目の思い出は、私が、説明責任という事に思いをやっていたことから来たのである。私はもう高校生ではない。そして、ビーレビに参加することは、もう仕事である。参加し始めたばかりの人間ではなく、詩だけを投稿する人間でもない。あの美術の先生に言われたことは正しかった。ビーレビのような場でものを言うということは、力を行使することであり、行動であり、仕事であり、それについて説明責任を負う。 さて、これから私は『『Diving into the Wreck』との対決』と題して、「文学」の分野に属する小論を書く。この小論は、ビーレビには「批評文」として投稿されることになる。そして、「批評対象作品」には、他ならぬ私自身が書いた『「文学」って何?(第3回)(るるりら氏『そらおそろしい』を読む)』を設定する。 小論の内容は、実質的に、純粋に、Adrienne Rich(1929-2012)の詩作品『Diving into the Wreck』の私の読解をあらわす。 使用する当詩作品テクストは、インターネットでPoets.orgのサイトに公開されているものに限定する。これへのアクセス方法は、検索語を「poets org diving into the wreck」としてグーグル検索をおこない、検索結果のトップに表示されるページを開くというものである。 このサイトに公開されている『Diving into the Wreck』の朗読音源も、小論展開中で、聞く場面があるかもしれない。 小論執筆の過程で用いる調べのツールは、一般的に日本国内に普及している英和辞典、国語辞典、電子辞書の類いに限定する。 小論執筆の過程で、私は、現在までにおこなわれた他者による当詩作品についての研究と翻訳を一切、参照しない。 私は、現在まで、『Diving into the Wreck』のテクストをPoets.orgのサイトでしか見たことがなく、当詩作品の日本語訳を読んだことがなく、当詩作品についての研究を読んだことがないことを、ここに誓う。 小論の書き方は、見出しを付けず、一気に最後まで書く、講演録的なものとなる。しかし、適宜、空白行をはさみ、読みやすいようにする。 では、始めよう。 1 初めて私は~し終えてあるのだ 2 ~することも 3 そして~することも というように詩は始まっている。数字は、行番号である。 原文冒頭のFirstの音が強い。この強さを和訳しなければならない。 意味は「最初に」「初めて」が考えられるが、「初めて」を取る。私が考えた末の和訳の枠組みが、上記のものである。 次に、作中話者の「私」は、何をし終えてあるのだろうか。 簡単に書くと、一つ目に、神話の巻を読み終えてあり、二つ目に、カメラにフィルムを入れ終えてあり、三つ目に、ナイフの刀身の鋭さを検査し終えてあるのである。 これらを解釈して書くと、一つ目に、あらゆる通念を承知し終えてあり、二つ目に、これから(証拠)写真を撮る準備ができてあり、三つ目に、何かを削るか切ってくる準備ができてあるのである。 先を読みに行こう。 4、5、6、7の行は簡単な英語で、「私」が潜水のために必要な装いをすることが書かれている。水に潜るダイバーの、あの恰好になるとイメージすれば良い。ただ、「私」は、「こんな恰好、大袈裟で変だ」くらいの違和感を感じているのが確かに読み取れる。 8の行のI am having to do thisはhave to doの進行形が使われている。音を良くする狙い、今という時を強調する狙い、「私だけで~するより仕方ない」くらいの諦めの意味合いを含める狙い、「私だけでも~するぞ」という強い気持ちを含める狙いが考えられる。 ではthisは何を指すのだろうか。ここは素直に、今述べたこと、つまりダイバーの装いをすることを指すと考えることにする。 9の行のCousteau(クストー)はフランスの海軍軍人・海洋探検家(1910-1997)。 11の行のschoonerは複数マストの縦帆式帆船。 すなわち、8から12の行を要約すると、「私は、いかにも華々しいクストー隊みたいにではなく、こんなふうに地道に用意するより他ないが、ただクストーと同じ帆船に、今、たった一人でいるのである」となる。 以上が第一連の読解である。 勇気を持って、第二連を読みに行こう。 13 そこに一挺の梯子がある 以下、第二連は、この一挺の梯子について書かれている。 14、15、16の行の意味は、「その一挺の梯子は、いつも変わらず、この帆船の舷(右側か左側かは不明)にぴったりくっつく恰好で、そして無垢な趣で、かかっている」となる。 17の行がWe(私たち)を主語として始まる。この語が、詩の単なる読者であった者を、強制的に詩の中の世界に巻き込もうとし、詩の中の登場人物の一人にしようとする。ショックはそれだけにとどまらない。17、18の行の意味はこうである。 17 「私たち」はこの梯子がなんのためのものなのか知っている 18 なぜなら他ならぬ「私たち」こそこの梯子を使用したことがある者なのだから 「私たち」はこの帆船の舷にかかっているこの梯子を使用したことがあるだろうか。 胸に手を当てて、考えてしまう。 この疑問を解くことは、ここでは保留しておこう。 続く19、20、21の行の意味は、「もしそうでないなら、この梯子は、単に、船に生えるけばの一片、つまり、船のあれやこれやの装備の何かに過ぎないのだ」と取る。こう述べることで、「私」は、「私たち」がこの梯子に重要な関係を持っていることを強調しているのである。だが、その関係というのが、今のところ、ぴんとこない。 一つ疑問を残したまま、第二連の読みを終えよう。 22の行は英単語たった三つで、強い音を持ち、突然のように「私は下りてゆく」と言って、第三連の幕を上げる。 23から27の行を意訳すると、「梯子一段、下りればまた一段だ。ゆけどもまだ酸素が私に完全にしみ込んできている。酸素は青い光、そして私たち人間特有の空気を成す、紛れもない原子の結合体。」となる。 28の行で再び英単語三語の「私は下りてゆく」を言う。 29と30の行で、「装着している潜水具の足ひれが邪魔だから、私は一匹の昆虫のように這う感じで梯子をゆっくり下りてゆく」と言っている。 31、32、33の行で、「そんな私にいつになったら海の広がりがあらわれようとするのかを教えてくれる者などいない」と言っている。 以上で第三連を読んだことになる。 続いて第四連、すなわち34の行から43の行を読む。この第四連で、「私」はついに海に入る。 この第四連で、Adrienne Richは、彼女の卓抜した言語表現能力を示している。迫真の記述である。この連の読みの示し方は、私の解説の言葉を交えず、一息に私による日本語訳を示すというものにする。以下のひとまとまりが、それである。では、どうか、お読みください。 初め空気は青くてそれから 次第にさらに青くなりそれから緑になりそれから 黒だ私は気を失う寸前まできているのだこのとき 私の装着しているマスクは無力というわけではなかった それは力で私の血液を動かしてくれた でも本来海でのことは話のまるで違うことなのだ 海というものは力とは何の関連性もない 私はこの深い四大の一つの中にあって 独力で獲得せねばならぬ 力によらずして自分の体の向きを変えたりする術を 以上で、第四連を読んだことにする。 次の第五連は難解だ。なぜ難解だと私が思うかを先に述べる。 まず第一に、45の行で、ここまで「私」の行為をあらわす動詞はすべて現在形であったのに、ここではcameが出てきて、comeの過去形となっているから。 第二に、46の行に登場する「そんなに多くの人たち」が何者なのか、考えさせることであるから。 第三に、48、49の行に出てくるsway、crenellated、fan、reefを日用的な意味に取るか、海事・軍事的用語として意味を取るか、考えさせることであるから。 第四に、51の行に、突然、この詩の中で初めてyouが出現するから。 では、第五連、つまり44の行から51の行までを順番に読んで行こう。 44の行の意味は「そして今、それはともすれば忘れてしまいそうな時である」となる。コロンは、次に説明を述べる場合に用いる。 45の行の意味は「私が何を求めて来たのか」と一応はなる。cameという過去形であるという問題は先送りして、とりあえず「来た」と和訳しておく。 46、47の行の意味は「ここでずっと生活しているそんなに多くの人たちに囲まれて」と一応はなる。「そんなに多くの人たち」が何者なのか、この問題も先送りする。 48、49の行の意味は、次のように取ることにする。つまり日用的な意味で各単語の意味を取って訳す。「岩礁のはざまでぎざぎざのあるうちわを振りながら」と。こう意味を取る私なりの根拠は、「私」は今、まだthe wreckの中にいるとは明確になっておらず、the deep elementの中にいるからである。だからswayは「マストを立てる」ではなく「振る」、crenellatedは「銃眼付きの」ではなく「ぎざぎざのある」、reefは「縮帆部」ではなく「岩礁」、fanもつられて「帆」ととらえそうになるが「うちわ」ととらえることにする。 50、51の行は「その上加えて、あなたはこの深い場所で、違うしかたで息をしている」と意味を取る。 こういう意味の取り方に従って、この第五連を散文的に意訳すると、次のようになる。すなわち、「そして今、それはともすれば、私が何を求めて来たのか、忘れてしまいそうな時である。なぜというに、多くの人たちがここで、岩礁のはざまで、ぎざぎざのあるうちわを振りながら、ずっと生活しており、そんな彼らの中に私は囲まれてしまうから。その上加えて、あなたはこの深い場所で、私とは違うしかたで息をしているから」と。 なんだかぼんやりしたイメージでしかとらえることができていないが、この第五連に含まれる諸問題に解答することは先送りして、このぼんやりしたイメージを足がかりにして、次の第六連に歩を進めることにする。 第六連は、52の行から60の行までである。順に見ていく。 52の行で、またcameが響く。意味は、「私はこの難破船を探査するために来た」となる。 53の行で、「言葉とは目的である」と言う。 54の行で、「言葉とは地図である」と言う。 55の行で、またcameが響く。55、56の行の意味は、「私はこの難破船が過去に受けた損傷や、今流行りの珍重品を見に来た」となる。 57の行から60の行の意味は、「私は、魚とかくだらない海草より永く存するものどもの外郭に沿ってランプの光線を当ててゆっくり線を引くようにして動かしてゆく」となる。strokeはやはり現在形だ。cameが過去形であることが、目立つ。 これで、第六連の読みを終える。 続いて第七連を読む。ザクザクと読んで行こう。 61、62、63の行の意味は、「私が求めに来たもの、それは、この難破船であって、この難破船にまつわる物語ではない。つまり、お話ではなくて、物事それ自体である。」となる。61の行でもcameが響く。 この連では、以下にこの「物事それ自体」というものの具体例を挙げていると読む。 名詞についての修飾的な語群に気を奪われずに、名詞だけをナイフで切り出そう。 すると、三つの名詞が見えてくる。 すなわち、64の行の「溺死したものの面」、66の行の「損傷の形跡」、68の行の「災難に遭った船の肋骨」である。 これら三つが、「物事それ自体」というものの具体例として挙げられていると読む。 続く第八連、71の行は、「こここそがまさにその場所であるのだ」と、ここが目的地であったかのような口吻である。 72の行で、女の人魚が、73の行で、男の人魚が、一人ずつ、突然登場する。 74、75の行に、「私」とこの二人の三人が、この難破船の周りを、音も立てずに回ると書いてある。 76の行に、三人が、船倉の中に急潜入すると書いてある。 77の行は、「私は彼女(女の人魚):ということは私は彼(男の人魚)であるとも言える」の意である。 続いて、第九連に進む。 78、79、80の行は三行すべてwhoseで始まり、「そのもののなになにはどうである」と述べるのであるが、この「そのもの」とは何かということを考えてしまう。 この問いに答えることを、私は、保留にする。 83、84の行の意味は、「私たちは半壊した器具である、それはかつて一定の針路に固執したものだった」となる。 この「半壊した器具」の具体例として、85の行の「海水でぼろぼろになった航海日誌」、86の行の「汚れた羅針儀」が挙げられている。 主語が、「私たち」となっていることに注意されたい。 第十連、すなわち、この詩の最後の連を、気を緩めずに読もう。 87の行で、「私たちである、私である、あなたである」と言う。 88の行で、「臆病さ、または大胆さによって」と言う。 89、90の行は、とりあえず、粗くなるが、「この情況に戻る自らの道を見つけた者」と取っておく。 91の行は、「一挺のナイフ、一台のカメラを携えて」と取る。 92の行は、「神話の巻一巻」と取る。 93、94の行は、「その巻の中に自らの名前は見られない」と取る。 ここまでで、Adrienne Richの詩作品『Diving into the Wreck』、これは十連、全94行から成るものであったが、私は、一通り、これに目を通したと言えるとする。 ここまでの私の読みを、これから「一度目の読み」と呼ぶことにする。この読みは、主として、英語で書かれたテクストを日本語にして、多くの日本人が読みやすいようにする、そして、この詩作品の筋と言えるものを、多くの日本人がつかめるようにするという性質のものであった。 今、私と読者の皆様は、10分間の休憩を取るような気持ちになろう。 その後、私は「二度目の読み」を開始する。 では皆様、リフレッシュできた頃だと思います。これから「二度目の読み」を開始しよう。 第一連に戻る。 ここの部分でまず気になるのが、1の行のthe book of mythsである。 私が持っている最も小さな英和辞典『ポケットプログレッシブ英和辞典 第3版.小学館,2008.』でmythの語を引くと「神話」「作り話」「たとえ話」「誤った(社会)通念」「想像上の人」「想像上のもの」という意味を得ることができる。 the book of mythsをまず「神話の巻」と訳すことは良いとするが、この辞典に書かれているすべての意味を気にかける必要がある。 神話とはそもそもどんなものであろうか。それは、根拠がないが人々の考え方や行動を支配するものである。根拠がないと言っても、実は、ただ一つのものに根拠を持つものである。それは、人々が属する社会である。このことから、私は、1の行で「私」がし終えてあることを「あらゆる通念を承知し終えてあり」と解釈したのである。 次に、クストー隊がなぜ突然あらわれるのかを考えなければならない。クストー隊は、何かのたとえであるに違いない。イメージしよう。一人の人間に率いられた人々の群れ。私たちはすぐに解するだろう。すなわち、クストー隊は、社会の、一般群衆をあらわしているのだ。 第一連は、今、「私」が潜水するための準備を周到におこない、完了し、「一般群衆」がいなくなってしまった「帆船」の上に、たった一人でいるという内容のことが書かれている連である。 ここまでで、第一連についての「二度目の読み」を終える。 続いて第二連に「二度目の読み」を施す。 この連では、17と18の行を読み解くことが、避けられない課題である。私は長い時間、この二行の文字を見つめたが、やはり次のように書かれている。 17 「私たち」はこの梯子がなんのためのものなのか知っている 18 なぜなら他ならぬ「私たち」こそこの梯子を使用したことがある者なのだから まず、「私たち」が誰なのか考える。「私」が属している社会の成員たちに限るか、それとも、この詩を読んでいる人々をも含む「みんな」なのか、ということを考えるのである。ここは、読者が、ドキッとさせられて、「私たち」はこの帆船の舷にかかっているこの梯子を使用したことがあるだろうか、と考えてしまうから、後者だととらえたくなる。だが、前者のとらえ方も捨てきれない。「あなたの場合もそうでしょう」といった感じで「私」が読者に話しかけているようにも感じるからである。ここは、どんな社会に属していようと事情は同じで、この梯子が存在し、その社会の成員はみんなその梯子を使用したことがあると述べているととらえる。 梯子の用途は、高い所と低い所との間をそれをのぼりおりすることによって移動することである。 17、18の行について、書かれている以上はその通り内容を受けとめるしかないものとして考え、意味を追究することはほどほどにしたい。 つまりここでは、「私たち」は、この梯子をのぼりおりしたことがあり、この梯子がなんのためのもの(何を求めるためのもの)であるかを知っていると、字のとおり解釈しておき、「二度目の読み」を次の段階へと進めることにしたい。文学では、読み進めるうちに、後から、前に書かれていたことが分かってくるということがよくある。この箇所も、その種の箇所かもしれないと、待つことにする。 が、仮定的に、次のように述べておく。 この梯子を「私たち」は確かにのぼりおりしたことがあるが、それは、第一連で述べたような周到な準備をしないでのぼりおりしたに過ぎない、と。こう解釈すれば、この詩作品冒頭のFirstが生きてくる。 第三連と第四連については、今は特にここだけを取り上げて「二度目の読み」を施す必要はあるまい。「一度目の読み」で十分解釈できたとする。 続く第五連に「二度目の読み」を施そう。 私は「一度目の読み」において、この連は四つの理由で難解であると書いた。それらに対応する考えを述べることで「二度目の読み」を進めることにする。 第一に、他の動詞がすべて現在形であるのにcomeだけがcameという過去形であることについて考える。が、難しいことではないと思う。事の順序をあらわしたいとき、他の動詞に現在形を用いている場合に、それより前のことをあらわしたいときには過去形を用いるしかない。他の動作よりも「来る」ということが前におこなわれたと見て、cameは「来た」と訳せば十分だと思う。 第二に、46の行に登場する「そんなに多くの人たち」が何者なのか、考える。これまで、登場して活動している人物は「私」一人であった。クストー隊はすでにいなくなっている。だから、ここでRichは新しい登場人物を出してきたことになる。46、47の行を訳すと、「ここでずっと生活しているそんなに多くの人たちに囲まれて」となる。「ここ」とは、どこであろうか。ここまでに出てきた場所的なものは直近のものだと43の行のin the deep elementである。つまり、「深い水の中でずっと生活しているそんなに多くの人たち」が新しく登場していると読める。 第三の問題であるが、「ここ」がin the deep elementである以上、48、49の行は次のように訳すのが良いと思われる。「岩礁のはざまでぎざぎざのあるうちわを振りながら」と。「一度目の読み」において、この辺の事情は詳説した。 第四の問題、この詩の中でのyouの初登場であるが、このyouは「あなた」、つまり今「私」の話を聞いている人、つまりこの詩の読者であろう。「私」は「あなた」もthe deep elementの中にいると言う。そして、「あなた」は「私」とは違うしかたで息をしていると言う。「私」がマスクによって息をしていることは第四連に出てきた。 こういうことを踏まえて、第五連を散文的に意訳すれば、再掲となるが、「そして今、それはともすれば、私が何を求めて来たのか、忘れてしまいそうな時である。なぜというに、多くの人たちがここで、岩礁のはざまで、ぎざぎざのあるうちわを振りながら、ずっと生活しており、そんな彼らの中に私は囲まれてしまうから。その上加えて、あなたはこの深い場所で、私とは違うしかたで息をしているから。」となる。 どういうことなのであろうか。 悠々とした暮らし方を思わせる「多くの人たち」、楽々として息をしているような「あなた」、そんな人たちに混じると、「私」は自分が何を求めてここthe deep elementに来たのか忘れてしまいそうになる、と述べている。 the deep elementの中に「多くの人たち」と「あなた」が、そもそもなぜいるのだろうか。 the deep elementは何かのたとえであるに違いない。それは、悠々とした暮らし方を思わせる「多くの人たち」や楽々として息をしているような「あなた」が存在するような場所、すなわち、一般の平和そうな「世界」を意味していると考えられる。その中にあって、「私」のみが、なぜか苦しい思いをしているのだと読める。 私は、「多くの人たち」と「あなた」は「私」の思い出とか幻影のようなものであると読み取る。 そして、cameとは言っても、まだダイブは途中であることを言いたいのだろうと思う。 第六連へ進もう。 52の行に、初めてthe wreck(難破船)という語が出てきて、この詩の舞台に関する情報が増える。 そして、「私」はこの難破船を探査するために来たと述べ、続けて、 53 言葉とは目的である 54 言葉とは地図である と述べられている。 難破している船とは、進むことも退くこともできなくなって、動けなくなった船である。クストー隊、つまり、社会の一般群衆は、この船から去ってしまっている。こういうことから、私は、この難破船は、行き詰まった上に、一般群衆から見放された「社会」のたとえであると読み取る。 そんな社会の中に、「私」はたった一人で潜っていくのである。 53、54の行は、第七連の61、62、63の行と一緒に論ずるのが分かりやすいと思うので、第七連に、話を進めよう。 61、62、63の行の意味は、「私が求めに来たもの、それは、この難破船であって、この難破船にまつわる物語ではない。つまり、お話ではなくて、物事それ自体である。」となる。 53の行で「私」が言いたいことは、言葉とは目的である、それは、或る過程の最後に位置するものである、ということだと私は考える。 54の行で「私」が言いたいことは、言葉とは地図である、それは、先人がその場所を訪れたためにその場所の地図が得られている、先人の成果である、ということだと私は考える。 第一連で「私」が準備したことを思い出されたい。 神話の巻、つまり言葉であらわされた(社会)通念のすべてを知り尽くし、証拠写真を撮る準備をし、そういう証拠を削るか切ってくる準備をしたことが思い出されるであろう。 言葉であらわされた神話ないし通念を読み切った以上、「私」はもう言葉など求める必要がないであろう。これから求めたいのは、「物事それ自体」であろう。 第七連の64の行以下は、「物事それ自体」の具体例を挙げている。このことは、「一度目の読み」において解説した。 続いて、第八連に「二度目の読み」を施そう。 72の行で、女の人魚が、73の行で、男の人魚が、一人ずつ、突然登場する。 77の行は、「私は彼女(女の人魚):ということは私は彼(男の人魚)であるとも言える」の意である。 順に、ほぐして行こう。 女の人魚は、女性かつ神話的なものをあらわす。 男の人魚は、男性かつ神話的なものをあらわす。 「私」は、その他の性あるいはその他の性質かつ神話的でないものをあらわす。その他の性質とは、たとえば、身分などだと考える。 77の行で、これら三者の境界が消えて、「一者」となり、これは「すべて」をあらわす。 この「一者」こそ、次の第九連のwhoseが受けているものである。 つまりwhoseは「この一者の」と訳される。 78から82の行までは、読者の皆様が、自分で英和辞典を使って意味を取ってください。 それから83から86の行についても、そうしてください。ただ、83の行はweを主語として始まっていることに注意してください。 第十連の重要な問題は、89の行のthe oneに関することであると言える。 89の行のfindはfindsになっておらず、それに加えて次がourである。 ということは、the oneが複数扱いのものであることを示している。 the oneを「そのもの」「その一つ」と訳すことは間違っていない。だが、その内容は、複数のものであることを認識しなければならない。 87の行で示された三つの主語、we、I、youが一つになったものを、このthe oneはあらわしている。 ここまでで、「二度目の読み」を終えたいと思います。 次には、「まとめ」を書いて、この小論を結ぶことにしたいと思います。 読者は、詩が、①今や、私たち、私、あなた、のすべてが、「この情況」に戻る道を見つけた者であると言って終わること、および、②今、携えている物のうち、神話の巻一巻の中に、「こういう者の名前」は見当たらない、と言って終わることを、知った。 ①の「この情況」というのはなんであろうか。「私」がその中にいる情況だけではないだろう。この詩に関係を持った人たちは、この言葉に突き当たる。そして各々が、自分がその中にいる情況を考えざるを得ない。「この情況」は、或る固定された情況を意味するのではなく、時空を超えて、意味を変化させつつ、あらゆる読者に自分の置かれた情況のことを考えさせる、永久に内容を失うことのない言葉である。 次に、②の意味はどんなものだろう。この今携えている神話の巻一巻は、詩の最初に出てきた神話の巻とは異なった新しいものだろう。この中に、通念はない。言葉であらわされた通念はない。あるのは、「物事それ自体」である。「名前」は「言葉」である。②では、それが見当たらないと言っているのである。 この詩のストーリーは、意外なものである。梯子を下りる場面は臨場感溢れる筆致で記述されていた。けれども、梯子を上ってもとの場所へ戻る場面は描かれていない。そのかわり、上記①や②のような帰結をもって終わる。難破船はまったくのたとえであったのだ。それは社会のたとえであったのだ。 ここに至って、私は、「二度目の読み」の中で第二連の17、18の行に関して仮定的に述べるにとどめたこと、および、第五連に登場する「多くの人たち」と「あなた」の存在を、確定的に理解する。つまり、あの梯子を、人々はのぼりおりしたことがあっても、それは、「私」が地道に周到に準備したような上での本気の行為ではなく、生半可なものであったということである。第五連で「私」が見た「多くの人たち」や「あなた」は、言わば「俗人」のことであったと考えられる。「私」のように社会の「物事それ自体」に関心を寄せていない人々のことであったと考えられる。 最後に、公開されているこの詩の朗読音源を聴いて、この小論を終えたいと思います。
『Diving into the Wreck』との対決 ポイントセクション
作品データ
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作成日時 2019-07-03
コメント日時 2019-07-04
南雲さんの設定された読解にあったっての前提にはちょっと首を傾げつつも、興味深く拝読させていただきました。 外国語で書かれた作品を日本語に置き換えるということは、言語の差異が持つ独特の性質上、作品の自分なりの解釈を作り上げることに他ならないと私は思っています。南雲さんがこの論考を通して悪戦苦闘しながらも、作品と対峙し、そして筆者なりの部分的読解、つまり部分的解釈を構築していく様子には非常に興奮を覚えました。 指摘すべき点があるとすれば、辞書の定義ですら、英語のある単語に対する、辞書作成者のひとつの解釈にすぎないのではないか?という点です。 >mythの語を引くと「神話」「作り話」「たとえ話」「誤った(社会)通念」「想像上の人」「想像上のもの」という意味を得ることができる。 つまり、辞書に上記のような定義がある場合、辞書編纂者はおそらく、mythという単語が使われているあらゆる文献を調査し、それがどのような文脈においてどのようなニュアンスで用いられているかを鑑みて上記のような定義を与えているのであり、逆に作中の単語に対してこれら複数の意味のどれを適用すべきであるかは作品の文脈に大きく依存するべきです。ですが、その作業が特に詩の読解においては非常に難しいことがあると感じます。 つまり辞書にある複数の定義から一つの定義を選んで、作品中の単語の意味として抽出する、という行為そのものが非常に主観的な性質を帯びるように思えるのです。ですから、調査道具を辞書に限定するというスタンス自体はなんの客観性も保証していないと感じるのです。 (そもそも客観性など念頭にはないということであれば、すみません) ここでこの論考の非常に興味深い性質が明らかになります。筆者は細部に渡り非常に客観的であろうと努めながらも、実際には非常に主観的な分析になっており、論理的であろうと努めながら、肝心なところでは非常に感覚的であるという点です。極めて論理的に展開されているようで、導きだされた結論は論理的根拠によって裏付けられてはいない。 そのせめぎ合いに、詩の読解の面白さの真髄を垣間見る気がします。 もっというと読解にあたっての制限をすべて取っ払って読めたならもっと楽しく深い読み方ができたのではないか?(そして、この論考に限って言えば、制限をのぞいたところで論考の性質はほとんど変わらないのではないか)という点を思います。 などなど、読解のための素材を限定した場合の読解の難しさを実感させられる論考でもあり、ノンネイティブが原文で文学を味わうことがどの程度まで可能なのか、という点についても興味深い示唆を与えている論考だと感じました。
0(言い方をかえるなら「神話」という日本語が非常に多義的であるのと同様、たとえばmythという単語も非常に多義的である。その他の言葉も同様。そうした言葉の多層性に対して、筆者が与えた一種主観的な断面こそがが魅力的である)
0survofさん、早速のコメントありがとうございます。 survofさんとるるりらさんからの言葉がなかったなら、私はこのような「文章」を書きあらわさなかったでしょう。依然として個人的な楽しみの範囲を超えることなく詩を読んでいたでしょう。 今回は、「前提」について少し。 私はこの「文章」の作成過程をフォーラムにおいて報告していましたが、そこで左部右人さんから意義深いコメントをいただきました。 「論文」は、先達の研究を無視することを断じて許さないものである、という意味のご指摘を受けたのです。 左部さんのご指摘は、まったく正しいものです。ですから、私が投稿したこの「文章」は、「論文」ではありません。「学術論文」ではありません。「小論」と言うのもいけないことかもしれません。左部さんは、「評論」「批評」の類いであるとおっしゃっています。 とりあえずは、こういうことを最初に読者の皆様に伝えておかなければならないでしょう。
0こんにちは さぞ お疲れになったに違いないと 簡単に想像できるほどの文章量ですね。 ただ 私には分かりにくい文章でした。 そもそも なぜ この英文詩が話題になっているかというと、南雲さんが わたしの拙詩「そらおそろしい」に対する批評に この作品を紹介をしておられたからでしたね。 南雲さんのご発言によりますと、この作品には わたしの拙詩【そらおそろしい】にはない、「永遠に癒えない傷」がある。とのことでした。「永遠に癒えない傷」とは具体的になんであるかを知るには、この英詩を読むしか方法がなかったのです。 しかし、残念ながら、南雲さんのこの文章で 「永遠に癒えない傷」とは、具体的に どのようなものなのかを、わたしが うかがい知ることはできませんでした。 推測するに、どうも 南雲さんが記号や文法の説明に終始しておられる連に、「永遠に癒えない傷」が書かれていると 考えています。つまり、沈没船にたどりついて話手がみたであろう おぞましい光景のことです。 わたし自身が そのシーンをうけて感じたことを 私の詩としてアップしていますので、自作の拙詩から引用しますね。たとえば 沈没した船を探るのであれば >船室の蓋をあけたら >まばゆい光を放ち >生きている姿で現れるのだ >蓋が開かないかぎり だれも彼らの姿を見ることがない >蓋が開くと ほんの僅かな瞬間 生前の笑みを浮かべ 亡骸と化すのだ といったような おぞましい光景もあり得ると思うのです。上記のようなことを るるりらに想像させた箇所を、なぜか 南雲さんは お書きにはならなかった。 沈没船とは 社会の比喩というふうにおっしゃっているので、「永遠に癒えない傷」とはまるで沈没船のように 破綻した「社会」というのが、南雲さんのご意見なのでしょうか。「社会」といわれてしまうと、さらに具体性に欠けてしまったなと私は感じます。 話は変わりますが。 わたしには、 南雲さんに 相当ひどいことを申し上げた自覚があります。すみません。なので、もし お答えになるのがお辛いようでしたら、「永遠に癒えない傷」とは 具体的になんであるかという問いについての 回答をお書きにならなくとも、私自身は かまわないと思っています。 すばらしい詩編を おしえくださり こころから お礼を申し上げます。 ありがとうございました。(深礼)
0あ。もうすこし 正直にいいます。 わたしの駄作詩「そらおそろしい」が、駄作であると いうことの 証明になるはずです。そんなの、わたしも つかれるし、もう おしまいにしたいです。したがって、「永遠に癒えない傷」の件は、もう やめさせて いただきたいです。
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