ネット詩の読解の不可能性についてのディレッタント・カット - B-REVIEW
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きょこち(久遠恭子)

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きょこち(久遠恭子)

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二酸化窒素

ずっと待っていた

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批評対象
作品を読む

ネット詩の読解の不可能性についてのディレッタント・カット    

<批評対象作品>


「詩、 のようなものを書いていたときがありました」 という語り手の独白でこの作品は始まる。「詩のようなもの」しかし「詩ではないもの」 この着眼点はえぐるように鋭いと言わなければならない。 「私は、私の書いている詩のようなものが、詩ではなくて、詩のようなものでさえきっとなくて、詩とはつながっていない、本当は、詩と似ているとさえ考えてはいけない、詩とは全く違う、何か詩とは別のものでしかないことに気づかされたのでした」 という独白から始まって、この作品はいわゆる「詩人」による語り手への「セクハラ」に発展する。この作品の素晴らしさは作品が提起している問題の幅広さである。  私は特に「詩のようなもの、しかし詩ではないもの」について論考して見たいと思う。特に花緒氏はかつてのビーレビ運営者の一人である。その花緒氏が「ノーカントリー」をこのビーレビに投稿することに「ネット詩」そのものに対する鋭い自己批評精神を感じざるを得ないのである。まず「詩のようなもの」という言葉で表現されている詩を「「詩」」と呼ぶことにする。以下括弧付きで表記することとする。  「ネット詩」という言葉があるように、おそらくネット詩は「詩」とは似て非なるものだ。「詩」とは現在ハイカルチャーなのだろうか。そんなことは知らない。興味がない。少なくとも「ネット詩」はハイカルチャーでもなければ、おそらくサブカルチャーでもない。というより「カルチャー」と呼べる代物なのかも分からない。ただ「詩に似ている何か」であることは確かである。  「批評」というのは「ハイカルチャー」の作法である。権威付けである。何かを独自のもつ文脈の上に乗せることである。と仮定した場合に、「ネット詩」において「批評」というのが成立し得るのかの答えはもはや自明である。大抵において、そこに「権威」が存在しないからである。ヒエラルキーが存在しないからである。この仮定に従えば初期ビーレビにおいて多少なりとも「批評」らしきものが成立したのは、評者と投稿者が完全に分離していたためである。一種のヒエラルキーがそこにあったからである。  さて、「ネット詩」において「権威」は本当に存在しないのだろうか。「ネット詩」の歴史は意外と古いものらしい。であれば「ネット詩」の持つ文脈において、それなりの「功績」を残してきた人物が何かを投稿し、何かを発言するとき、それは「ネット詩」のおける「権威的」行為となる。さらに前提を崩そう。詩壇で一定の「評価」を受けている書き手が「ネット詩」を投稿すれば、その作品は一定の権威性を帯びる。詩誌の編集者が「ネット詩」の評価に参加すればもはやそれは「権威」である。ここで「権威者」を改めて定義しよう。つまり、「ネット詩」における古参あるいは時に運営、すでに詩壇において一定の評価をされている投稿者(議論を急ぐので一定とは何かは、この際曖昧なままとする)、そして詩壇関係者である。  この定義に従えば「ネット詩投稿掲示板」が盛り上がるのは間違いなく「権威者」が多く参加している場合であり、作品の評価が「権威者」によってなされる場合である。逆に「ネット詩投稿掲示板」が盛り上がらないのはこうした「権威者」がその場から撤退し、「権威者」による評価がなくなった時である。これを「ネット詩掲示板の権威性」と呼ぶことにしよう。いいかえれば「ネット詩掲示板」は「権威性」が高ければ盛り上がるし、「権威性」が低ければ停滞する。権威、権威ってやかましい、と思われるだろう。であれば、言い方を変えよう。その場にカリスマが何人いるか、で「ネット詩掲示板」の求心力は決まるのではないだろうか、ということだ。「アンチ「権威」」をかざす「ネット詩人」はカリスマ性を帯びたときに望むと望まざるとも「アンチ「権威」の権威」となるのだ。投稿者はカリスマに評価されたいと願い、また自らカリスマとなることを望むのだ。  この論理に従えば花緒氏の「ノーカントリー」は一種「権威的」な作品といわざるを得ない。それゆえに、作中の「権威的な」詩人をとんでもないブラックジョークで揶揄した姿勢にはいわゆる「権威」によって何か不快な思いをした人たちにとっては慰めとなる作品になり得たのかもしれないし、同時に自分自身がもってしまった「権威性」への鋭い自己批評として読むこともできる。  前置きがだいぶ長くなった。本題に戻ろう。いや、そもそも本題を初めて論じるのであるから「戻る」などというややこしい言い方は良くない。本題に入ろう。詩とは果たして読解可能なのか、という問題である。「詩のようなもの」を考える時に「詩のようなもの」を含めた広義の詩が果たして読解可能であるのか、と改めて問いたいのである。  まず「詩」とはハイカルチャーであると仮定しよう。ハイカルチャーであるからには教養人、知識人、インテリのための知的遊戯である。ここで教養人、知識人、インテリをきちんと定義しておく必要がある。教養人とは「教えられた通り養命酒を毎日飲んだ結果体調の改善が見られた者」、知識人とは「脳を電脳化して世界中の図書館の本を片っ端からスキャンしてデータとして蓄積している者」、インテリとは「ファッショナブルなオタク」のことである。  この教養人、知識人、インテリ定義から分かるようにすでにハイカルチャーはあまりに細分化されすぎてしまって、共有する前提知識としての「教養」の幅が広すぎるのが現代である。つまり包括的な教養人、知識人、インテリなど存在し得ないのだ。というよりそんな包括的な教養人、知識人、インテリなど歴史上存在したためしがあっただろうか。ダ・ヴィンチは文学を後世に残しただろうか。音楽の教養人、知識人、インテリは音楽について専門的な用語で会話し得るし、数学の教養人、知識人、インテリの専門的な用語で会話する。物理学的、数学的専門用語を独自に輸入し心理学、文化人類学、などなどなどの専門用語に積極的に用いるのも大抵それぞれの専門分野の教養人、知識人、インテリである。とくにそうした分野の批評家がそうした専門用語を用いるときに多少なりとも意味が分かりそうであるからといって、なんとなく分かったふりをしてはいけない。これが一般人たる我々の作法である。それは教養人、知識人、インテリの間の隠語であり、それ以上でもそれ以下でもないからだ。  隠語。いい言葉がでてきた。私は隠喩の可読可能性について論じようと思っていたのだ。隠喩とは果たして隠語なのか、という問題である。ハイカルチャーにおける「詩」の読解とは隠喩の意味を「隠語」として、いいかえるなら「暗号」としてそれを読み解く行為なのだろうか。  ハイカルチャーにおける美術にはその側面が強い。いわゆる古典絵画は「隠語」で満ち溢れている。人物の仕草のひとつひとつ、描かれた人物、物、景色のひとつひとつに寓意が託されている。それが意味を成し得たのは当時のいわゆる教養人、知識人、インテリ、つまりお金持ちの貴族たちが教養としてこれらの寓意を「隠語」として共有していたからであろう。コンテンポラリー・アートに至っては文脈とあの世界独自の「隠語」を理解していなければ作品の意図すら理解することができない。「隠語」を共有している者たちは自由自在である。自作自演上等である。死者の墓を暴くのはむしろルールである。なんといってもビジネスなのだ。  話を本論に戻そう。「戻す」とはこういう時に使う言葉である。仮に「詩」というものがそういう「隠語」に満ちたものだとして、そうした「隠語」に通じない人には読解不能なものであるとするならば、そうした「詩」の書き手は教養人、知識人、インテリの間で、内輪に内々にその知的遊戯に存分にふけっていればよいのだ。教養人、知識人、インテリではない人が大半の「ネット詩掲示板」に来てまで、その「隠語」の理解を強要する必要はないはずなのだ。わかる人達どうしでよろしくやれば良い話なのだ。  あるいは「現代詩」における隠喩の別の可能性について考えて見る。私は教養人でも知識人でもインテリでもない。だからこうして仮定に仮定を重ね論考するしかないのである。論考とは教養人、知識人、インテリの作法である、という反論があるかもしれない。その反論に対して、私は自分を正当化するために、ただそれだけのために、ここに「素人的論考」名付けて「ディレッタント・カット」という概念を提唱しようと思う。この論考は花緒氏の作品を起点とした「ディレッタント・カット」である。今後ともこの「ディレッタント・カット」という用語を用いていく所存であるので、よろしく頼みたい。  さてこの「ディレッタント・カット」の技法に基づいて「純粋に」論理を展開すれば、「現代詩」における隠喩について次のような推測が十分に成り立つのである。すなわち「現代詩」において、言語の「新地平の開拓」(これは「隠語」である可能性があるため読者は十分に注意すべきである)を主眼とした場合、そこにおける隠喩というのは作者の言語的実験にとどまるに過ぎないのではないか、ということである、教養人、知識人、インテリの間で共有されるような共通の「隠語」はもはやそこに存在せず、ひたすら作者の自分の言語世界の表現としての「隠喩」が展開されているのかもしれない、とするならば「「隠喩」を読解する」という概念自体がナンセンスである。そこに読解の手がかりはないからである。作品の読者に可能なのはその作品の意味を考えることではなく、作者の言語世界を楽しむという次元にとどまらざるを得ない。そもそも、これだけ何もかもが細分化した現代社会で「現代詩」が共通に持ち得る「隠語」つまり「隠喩」など存在しうるのだろうか。みたいなことはとっくに教養人、知識人、インテリたちが議論し尽くした問題なのかもしれない。ただし、この文章は「ディレッタント・カット」である。「ディレッタント・カット」には「ディレッタント・カット」の作法があるのだ。  さて、上記を前提とした上で「ネット詩」の読解の可能性について論じることとしよう。失礼、「ネット詩」の読解の可能性について「ディレッタント・カット」を試みることにしよう。まず「ネット詩」において共通の「隠語」が可能なのか、という点について考えたい。いや考える必要はない。特にこのビーレビにおいては投稿作品は必ずしも「現代詩」に限定されているわけではない。それは歌詞なのかもしれないし、ただの落書きなのかもしれないし、いわゆる「詩」なのかもしれない。つまり「隠語」を解読して作者の意図を明確にするという意味での読解は不可能なのだと言いたいのだ。お気付きのようにちょっとだけ論理の接続に失敗した。「ディレッタント・カット」とはなにせ「カット」である。多少なりとも論理の飛躍がなければそもそも「カット」などとは呼ばれないのである。  「批評」とは教養人、知識人、インテリの作法の作法である。つまり共通の文脈と「隠語」を前提とした作法である。とするならば、現在のビーレビにおいて批評は不可能なのだ。例外は「権威者」である。「権威者」の定義については冒頭のほうで触れた記憶があるが、文章が長過ぎて、忘れたという方はあとで読み返していただきたい気もするが、大したことはいっていないので無視するのが賢い選択であろう。  「権威者」がある作品の文脈のなかでの立ち位置を明確にし、評価を下す時、対象となった作品は「権威者」によって「作品」と認められ、つまりその瞬間に作者は「ネット詩人」となるのである。そこには「隠語」の読解など必要はない。「こうこうこういう読み方もあって、こう読めばこの作品は非常に面白い」といえば、大抵の場合は十分である。「文脈における立ち位置」はどうしたのか、読者がその点反論を試みようしているのは十分承知である。なので、こう論じることにしよう。いや、すみませんでした。以下のような「ディレッタント・カット」を試みる。「権威者」を「すでに文脈において立ち位置を得ている存在」であると再定義するならば、「「文脈において立ち位置を得ている存在」が、ある作品を評価する」行為自体が、その作品に「文脈における立ち位置」を与えるのだ。  花緒氏はかつてその当時者であった。つまり「権威」の大小を除外して論じれば、花緒氏は立派な「権威者」であったのだ。ここにおいて「ノーカントリー」のもつ「権威性」とその鋭い自己批評性が再び強く強調されることになるのである。こうした自己批評性ゆえに花緒氏の作品は非常に魅力的であるのだ。「詩のようなもの」だけれども「詩ではない」何かなのかもしれない。だとしたら「「詩ではない」何か」というジャンル、いい言葉見つからないのでここでそれらの作品群を「ビーレビ投稿作品」と名付けるとすると、間違いなく花緒氏は「ビーレビ投稿作品」のひとりの「権威者」である。ここから先、論理はひたすら循環する。目が回ってきた。梅雨のせいだろうか、目眩がしてきた。  さて私のこの論考、いや失礼「ディレッタント・カット」がかなり散らかってきた。何せ「ディレッタント・カット」である。「カット」つまり「散髪」の結果、床が髪の毛だらけになって箒や掃除機の類が必須になることは皆さんご存知の通りである。「ディレッタント・カット」を試みた張本人として私は箒を用意して、掃除をして責任を取らなければいけない。だから私は今ここに結論の「放棄」でもって箒に変えさせていただこうと思う。などとくだらない駄洒落をいっている場合ではない。実はビーレビはどうしたら盛り上がるかを私はこの文章を通して試しに「ディレッタント・カット」してみたかったのだ。  面白い人が沢山いれば盛り上がるし、そういう人が減れば低迷する。おそらくそういうことだ。ただ、それだけのことだ。そして、私にとって花緒氏は間違いなく面白い人物であり、その作品もしかりである。



ネット詩の読解の不可能性についてのディレッタント・カット ポイントセクション

作品データ

コメント数 : 8
P V 数 : 2257.3
お気に入り数: 0
投票数   : 0


作成日時 2019-06-15
コメント日時 2019-06-17

ネット詩の読解の不可能性についてのディレッタント・カット コメントセクション

コメント数(8)
哀愁亭
(2019-06-15)

うわあ、めっちゃ面白かったです。最後の結論というかオチがあまりにくだらなく(もちろん、これは最大級の褒め言葉です)、そのこと自体が正にディレッタント・カットを象徴している。感服しました。

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survof
(2019-06-15)

哀愁亭さん 無駄に長いのに最後まで読んでくださってありがとうございます!「くだらない(笑)」って言ってもらえるのが一番嬉しいです!!

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こうだたけみ
(2019-06-15)

たぶん、三箇所くらいで声に出して笑いました。箒が好きです。

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survof
(2019-06-15)

こうだたけみさん やった!!嬉しい限りです。

0
survof
(2019-06-17)

花緒さん 恥の多い、ネット詩人生活を送ってきました。私には、人間の詩というものが、見当つかないのです。 そして私は、私の書いている詩のようなものが、詩ではなくて、詩のようなものでさえきっとなくて、詩とはつながっていない、本当は、詩と似ているとさえ考えてはいけない、詩とは全く違う、何か詩とは別のものでしかないことに最近気づかされることが多く、批評ではなく、批評のようなものでさえきっとなくて、批評とはつながっていない、本当は、批評と似ているとさえ考えてはいけない、批評とは全く違う、何か批評とはべつものものでしかない何かを書くことで、花緒さんの作品に対する何かしらの私なりの返答としたかったのです。前置きが大変長くなりました。何よりコメントいただけて本当に嬉しいです、ありがとうございます! >現在、フォーラムにおいて、酷評問題が取りざたされていますが、この場において必要なことはライトレスでも無く、ラフな酷評でも無く、元の作品を喰う勢いで書かれる批評文なのか、批評文のようなものなのか、批評文のように見えてそういうわけでもない、なんなのか分からない散文による通交のようなものなのではないかということに思いが及びますね。 ずっと前から一度やってみたかったんです。作品に対して作品で返すっていうのを今回初めてなんとか形にできた気がします。ブラックジョークに対してジョークで返すというちょっとリスキーな行為ではあるので正直いうと半分ヒヤヒヤしましたが、権威者として好意的に評価してくださり光栄です。これで私も晴れてネット詩人になることができたので胸をはっていきたい所存です。 花緒さんのコメントのなかにある「詩とは」に関するお話も興味深いですね。この辺りを掘り下げた花緒さんの「どこか詩のような作品」をまたいつか読んでみたいです。ネット詩なんてものは、恥ずかしいことだ、不潔なことだ、などと思いながら結局私も時々こうして書いてしまって困ってしまっているわけですが、やはり私の場合は、とにかくその場で思いっきり遊びたいっていうのが本心なのかもしれません。久しぶりに戻ってきて、なんだか楽しくないな、と思っていたのですが、また思いっきり遊ぶことができて楽しかったです。お付き合いいただきありがとうございました!

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survof
(2019-06-17)

沙一さん コメントありがとうございます!面白いといっていただけると、やっぱり書いてよかったな、と心から思うのです。詩とは何か、などは実はどうでもいいのかもしれません。とにかく、読む人に笑ってほしい、って思って筆をとりつつ、やっぱり詩とは何か、実はどうでもよくなんかないのかもしれなくて、私の脳みそは渦になるのでありますが、やはり面白いといっていただけると、私は有頂天になって私の脳みそはさらに渦になるのでございます。 >先日、書店で、ボルヘスの「詩という仕事について」という本をみかけました。詩については答えを出すのではなく、謎を提示することしかできないという、著者の謙虚な姿勢に惹かれたのですが、survofさんの本批評もどこか通じるようです。 なるほど。なんか深いですね。「詩とは何か」について何かそれらしいことを書けば書くほど、空々しく何か嘘っぽくなってしまうような気も致します。しかも、もはや今となっては詩誌のもと某選者が「詩集をだせばもっと詩人らしくなる」とかなんとか訳のわからないことをのたまわっているような嘆かわしいともおめでたいともいえる現状ですので、もうその問い自体が普遍性などとっくに失った、「君たちはどう生きるか」とおなじくらいぞっとするような、深いような白々しいような、お金の匂いしかしないような、それでいてどこか切実で、人間臭く、鋭い根源的な問いかけなのかもしれません。 >語り得ないことについては、やはり語ることができず、示すことしかできないのかもしれません。 なので、結局は私もこの沙一さんと同じ結論に到るんです。つまり謎をひとつ提示することでしか語り得ないのではないか、という、これもまたなんという空々しさ、と自分でも思うのですが、やはり作品に詰め込むしかないですね。また気が向いたらこのテーマで何か書いてみたいと思います!

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まりも
(2019-06-17)

論理の明快さとグルグル具合が絶妙で、面白かったです。 紙媒体・・・は、実際のところ、発信してもほとんど反応はない、のれんに腕押し、というあやふやな「かんじ」しかなくて、合評等で作品を前にガチでやりあったりしたときの充実感の方が、いかにも「たしか」な時間を過ごしたなぁ、という実感として残るのですね。 詩集、それ自体に憧れを持つ場合はともかくとして、「詩人」として「詩」を書いているからには、「詩集」を出さなきゃあかんよ、みたいな話になっていくことが多いのが、俗にいう「詩壇」なるもの、なのかもしれませんが、出してあげるよ、なんて話は滅多に降ってくるものではなくて、そうなると自費で出すなら賞をとって元を取ってやろう、なんて話になるのもムベナルカナ、とも思うのですが。 賞狙いとは別に、自分の心覚というのか、ある種の記念に私家版の小冊子を作ったりした際に・・・ごく少数の信頼できる友人から、忘れた頃に届く手紙による感想に、痺れるような体験をするというような「よろこび体験」があると、やっぱり作って(読んでもらえて)良かったな・・・というように、どっぷりはまっていったり、するのですね。 これは返信なのか、触発されて自分勝手に書いているお手紙なのか、既によくわからなくなってはおりますが。 詩・・・なんなんでしょうね。語り得ない、でも、たしかに思ったり感じたりしたことを、ありとあらゆる手段と工夫を通じて書き表そうとして、結局、その途中経過報告や、問いを読者に投げるところで中断しているもの(特にそれを文字媒体で行う行為)とでも、言う他なさそうです。

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survof
(2019-06-17)

まりもさん お久しぶりです、コメントありがとうございます! >論理の明快さとグルグル具合が絶妙で、面白かったです。 ありがとうございます!書いているときも本当に論理がグルグルとしていて自分でも何考えてるんだか、、、という感じで、まったくの迷子状態で、一つ一つの論理は明快なはずなのに、論理構築はどんどん暴走しつづけ、結果、論理的に破綻しつつも結局何かしら大きな論理的帰結が次々と導かれては論点は次々とスライドしていって、次々と論理は構築されては崩壊し、結局は大量の燃えかすが風に吹かれてパラパラとあちらこちらに散らばっているだけの寂しい夕暮れ時なのでした。 詩壇と詩集のお話は、まりもさんだからこそのお話でとても興味深くお読み致しました。 >紙媒体・・・は、実際のところ、発信してもほとんど反応はない、のれんに腕押し、というあやふやな「かんじ」しかなくて、合評等で作品を前にガチでやりあったりしたときの充実感の方が、いかにも「たしか」な時間を過ごしたなぁ、という実感として残るのですね。 なるほどです。確かにそうしたところにネット詩掲示板の意義というものが存在するのかもしれませんね。 ネットの隆盛により音楽の消費は、作品の消費がモノから体験の消費に移行した、CDを買って聞くことよりもライブ体験のような、よりフィジカルな側面が消費されるようになった、などとよく言われますが、詩に関しても同様のことがいえるのかもしれないな、と思いました。つまり、多くの人にとってもはや詩の作品そのものは目的ではなくなってきているのではないか、むしろ、作品を公にすることで発生する反応、そこから発展する人間関係、そうしたことに詩を書く人たちは意味や楽しみを見出し始めているのかもしれないと感じるのです。そう考えた時に「詩」の定義も自然と変化していくべきなのかもしれません。 >詩・・・なんなんでしょうね。語り得ない、でも、たしかに思ったり感じたりしたことを、ありとあらゆる手段と工夫を通じて書き表そうとして、結局、その途中経過報告や、問いを読者に投げるところで中断しているもの(特にそれを文字媒体で行う行為)とでも、言う他なさそうです。 これは綺麗事ではない「詩」の定義のひとつとして、私個人としてはとても好きですね。水とは何か?それはH2Oのことである、といったような元も子もないような即物的なこの定義、皮肉ではなく、とても気に入りました。特にこの定義で好きなのは「ありとあらゆる手段と工夫を通じて書き表そうとして」という部分です。「ありとあらゆる手段と工夫を」したくなるような衝動、それは感情なのかもしれないし、思考なのかもしれないし思想なのかもしれない、あるいは、おもいっきり言葉で遊びたいということなのかもしれないし、誰かと繋がりたいということなのかもしれない。それを「詩情」と呼ぶのかもしれません。

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