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愛くるしさの檻のなかで 闇を剥ぐケダモノに なれ よ
* Sex Pistols ♬「Never Mind the Bollocks」 愛くるしさの檻のなかで 闇を剥ぐケダモノに なれ よ ピアノの缶づめ 開けるよう です レコード屋さんの クラシックコーナー 心療内科の待合室 精神病棟の檻のなか 新鮮なニクタイをもつ 現代人 の聴くオンガクは どれもこれも カン切り が必要なのです キリキリと 蓋 をあけるように 音 と出逢います たとえそれが インスタントミュージック であったとしても 受け手のキモチ次第でオンガクの歴史はかわってしまいます ロックンロールは死んだ とききました 誰に殺されたのですか きみにですか わたしに ですか あなた に ですか パンク歌手らしいあまりにも無責任な発言です 耳が退化しないかぎり なくなる音など ありません 手がもぎとれないかぎり きえない拍手も ございません 言葉がダメにならないかぎり ロックンロールは生きつづけます たとえ 生き埋めになった としてもその土壌を糧にして また あらたな オンガク という花が咲きます 声をうしなうときにだけ 花びら が散ってしまうのです 春 がくることをお待ちになって ロックンロールよ はやく 冬眠から 目覚めて くだ さい かれは子どもの頃 トイピアノ でよく遊んだといいます 弾く ではなくて えがく の方で むかし描いた ピアノ の絵を 或る日 おれに ソッと みせてくれました どれもこれも 鍵盤 だけが画面におさまりきらずに 表現されていて エレクトーン が進化したような どうあがいても誰も弾きこなせない 鍵盤 ばかりが描かれ おれは 正直 かれの 画才 に 度肝 をぬかれました 小学時代 かれは担任に目をつけられていて よく廊下に立たされていた ものです 空もなんだから バケツに 水 を張りましょう という先生の律儀な提案に 反対意見 を だすほど新入生のおれたちは ツヨクナカッタ のです あるガキは 調子にのって まぁた 紺くん だね せんせぇ 紺くん がやりました 紺くんが 席につきません 紺くん 宿題うつして まぁす などと いいだして 担任の 機嫌 をとっていました ノーといえない生徒は 影で せんせいに ノート と呼ばれていたらしいです ノート の真っ白な部分は すぐに穢されます カラーペンで 蛍光色の目薬を点眼され シャープペンシルで ヨコシマな らくがき を彫られ きえないこころの傷は ページを破るように 明日へとむりやり繋げられました 小学校を卒業してもかれの ユウウツ はつづきます 当時 紺くん が学校へゆけなくなるのも 時間の問題でありました 生徒たちは オモシロガルように日々痩せてゆく かれのキモチを体育シューズで転がして遊びました 細さはイビツに 光り を放ちます 床に倒れこんだかれをみても おれたちにとっては ただの日常 でした なぜかそんな かれをみるたびに胸の奥から ざぁ とした 波がやってきて全身が むずむず したことを思いだします 誰も紺くんのことをスキではありません けれどもかれは 異様な ウツクシサ をもっていたのです 「 山がもうすぐピアノを 乗せて やってくるよ 」 なぞの言葉を残して 紺くん は学校へこなくなりました 真夜中の本屋は本の中身を ソッと昼間のモノと変えるとききます おれはそんな都市伝説を信じるほうではないのですが 街の書店で 紺くん をひさしぶりにみかけたとき 胸の奥からオシヨセル波のせいで 本棚の本という本が すべて アライナガサレル ような 心地よさ を覚えました ( げん き? ) そんな 言葉 しか でてきません だから もう一度 ( 元気? ) と かれに尋ねました 「 ピアノは山をのせて出ていったよ 」 ( ) 「 なんて ね はじめからピアノなんて弾けないし ぼくも山から出てきたところ ひとり暮らし はじめたんだ 」 かれは ヒトを求めていました だから そこにいるのは おれでなくてもべつに構わなかったのです 枕元の灯りは ふたりの孤独 を照らします ピアノの鍵盤が 描かれたいくつもの かれの作品を一枚一枚 ていねいに鑑賞してゆきます 紺くんから 画を手渡されるたびに 波のしたで いくつもの血管が 海の底から 表面へと向けて はり巡らされて ゆく よう でした おれはいつだって 逃げ虫の傍観者 です かれをなめまわすようにみつめていた 他の生徒となにも 変わりません やはり かれのことを守ることが どうしても できない のです ( だきたい ) 口からでたおれの言葉に自分でも ぞく としました 缶づめは腐らせるためにあってはなりません けれども 体内にいれるものはいつだって 賞味期限があります かれに もう一度 ( 抱きたい ) と いいました やはり おれは かれを 守れないのです 守れたためしがないのです インスタントミュージックは ただの 缶づめ なのですか 缶づめの中身も 腐りますか 腐ったものは生き返りますかゾンビ となってそれが ヒトを襲いますか 襲われたものは 悲鳴をあげますか 悲鳴は スクリーンから響きますか ゾンビ映画を 楽しむ ようになぜオンガクを 楽しめないの ですか ロックンロールは死んでしまったのですか いいえ 違います おれたちの世代が守りきれなかった ただ それだけ です
愛くるしさの檻のなかで 闇を剥ぐケダモノに なれ よ ポイントセクション
作品データ
P V 数 : 1053.9
お気に入り数: 0
投票数 : 0
ポイント数 : 0
作成日時 2017-05-19
コメント日時 2017-05-20
項目 | 全期間(2024/11/21現在) | 投稿後10日間 |
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叙情性 | 0 | 0 |
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※自作品にはポイントを入れられません。
- 作品に書かれた推薦文
私はこれまで完全な酷評は避けてきました。 ですが、この詩に関してははっきりと言います。「気味が悪い」と。 それは、何も題材の気持ち悪さではありません。 「たち」正確には「おれたちの世代」と言う言葉の無責任な乱用(実は、他にもありますが・・・。)です。 「新入生のおれたちは ツヨクナカッタ のです」 この表現の偽善性に、私はぞっとしました。何故、「新入生のおれは/強くなかった」とはっきりと書けないのか。 あるいは、彼を虐めることは愉楽であった。と言う意味合いの事を、「生徒たちは~」の連で「細さはイビツに 光り を放ちます」とはっきりと書きながら、 しかもそれを、「けれどもかれは異様な ウツクシサ/をもっていたのです」と、ウツクシサと言うカタカナ表記で彼自身の責任、として誤魔化した後、 「かれに もう一度/( 抱きたい )/と いいました やはり おれは かれを/守れないのです 守れたためしがないのです」 ここも、「おれ」の醜悪さを中途半端に書いています。 一体おれ、はこの後何をしたのか。紺君を犯したのか(アナルセックスしたのか、)紺君はそれに従ったのか。 おれはそのことに関して罪悪感を抱いているのか否か、償いはしたのかどうか。 また最初の、「ピアノの缶づめ/開けるよう/です(中略)精神病棟の檻の中」 ここもかなりに腹が立ちました、私は。精神病棟の檻の中をあなたは現実に見たことがあるのか? その上で、「ピアノの缶づめを開ける」と言うような、安直な比喩が使えるのか? 全体に、特に結語部分に感じることですが、 このいじめと言う問題を、筆者は世代論にすりかえて、自らの責任逃れをしているだけでなく、 しかも、いもしない他者に救いを求めるようなポージングをしつつ、 この大きな問題性を「だって美しいじゃない、いじめは」と、のほほんと唄っているように感じました。 抽象語と半端な教養で、テーマを巧みにあやかした、お化け屋敷を出たような読後感が私には残りました。
0朝顔さん わたし、閉鎖病棟出身です。 酷評される意味がわからず、困惑しています。 あなたの、性格のよさ(と、ゆわれるもの)が、 わたしの詩への酷評に繋がっている、と、かんじ、 あなたこそ、偽善的な意見で、 わたしのこれからの詩作、および、詩、という、 神聖なおこないとしての、書きもの、つまり、 祈りですね、それを、穢していらっしゃる、 そう、かんじ、とても、傷つきました。 わたしは、あなたのような方には、 詩で祈りをえがく才能がないように、おもえます。 それが、タイヘン、残念でなりません。 どうか、殺したいほど、わたしの詩がお嫌いのようなので、 こころのなかで、いたぶり殺してください。 そうすれば、より、わたしの姿が、 醜悪なものとなり、あなたのなかの偽善が、 満たされる、と、おもいます。 この、サイトの運営をして、いらっしゃる方、 どうか、わたしの、アカウントもけしてください。 さようなら。きえますね。ごめんなさい。 泪がとまりません。ころして。ころして、ください。 お願いします、わたしは、こんな、 感想をいただくために、書いたのでは、けっして、ナイ。 だって、詩は、祈りだ。 祈りの種類を、多様性を、穢された。 しぬ。シヌ。死ぬ。 死、だって、祈りのひとつだ。 なぜなら、あなたは、わたしの消滅を祈っている。 それならば、死で、祈りをささげます。 朝顔さん、ありがとうございました。 では。
0勝手にしなさい。 ちなみに、私も閉鎖病棟の出身です。
0今、ガイドライン再読しました。 確かに、過激な表現が多いのみならず、筆者子猫沢るびさんへのリスペクトが欠けていたと思います。 今後は、場にまた作者に資するような配慮を持って発言したいです。 誠に相済みませんでした。
0朝顔さん 病気なんて、誰だってもっている、 もっとも、個性のない主張です。 わたし、精神病で、競いたくない。 わからないことは、恐ろしいことですか。 あなたのこころの闇にそそぐものは、それほど、 明確な善意が表現されたもの、だけ、なのでしょうか。 ときどき、おもいますのは、誰もしなない日など、ナイ、というのに、 わたしが、生きなくてはならない理由について。 こうして、表現のしようのない、 かなしみに、むねがいっぱいな、ときにも、 確実に、誰かが、死んでゆく。 おそろしいこと、です。 わたしは、もともと鈍感なのでしょう。 あなたの、怒りの、理由さえ、未だに、理解できぬのですから。 いぢめ、というもの、もっと、自分のこころに問いかけてみて、ください。 わたし、いぢめたことがない、という、主張をする方の意見こそ、 信じられません。つまり、わたしが上記に書いたことのように、 無意識のうちで、誰かを、イキモノを、何もかもを、 傷つけている、瞬間、誰にでも、あるのです。 かなしみの、連鎖です。 朝顔さん、 そのことから、目を逸らしちゃいけません。 でも、わたしは、詩で、あなたを傷つけてしまった。 この、負のサイクルこそが、命あるものの、最大の罪なのです。 罪、からは、誰ものがれることは、できない。 だから、死が、みんなに、平等でありつづけるのです。 でも、詩は、自由でなければなりません。 表現が、おやさしいもの、ばかりでは、生きることのかなしみを、 ひとに、深く、伝えることさえ、できずに、 ひとは、ひとのためだけのヨノナカへと、 いまよりも、尚、傲慢に、仕上げてゆくことでしょう。 わたしは、博愛主義では、ありませんが、 できうる限り、イキモノでありたい。 ひと、ではなく、イキモノ、それも、 詩人ではなく、詩、になりたい。 詩は、祈り、なんだ。 それは、かえようのない、真実です。 祈りには、真剣味が必要です。 伝えることが、なまぬるくては、風化されてしまう。 それが、娯楽と、詩との、ちがいです。 娯楽など、詩にもとめるものか。 わたしは、真実をかく。 生きることを、ごまかさない。 だから、あなたを傷つけたことは、謝ります。 ただ、わたしは、生きる。いまのままの罪を背負って、生きる。 そして、ありのままの、罰を、いつか、受ける。 そのときまで、死なないよ、 安心して、ください。 でも、わたしの信じているものを、 ひとに穢されるのだけは、我慢ならない。 祈り、それこそ、詩、である。 祈りの、多様性を認めることは、大切。 詩とは、わたしの、一代かぎりの、宗教なのである。 つまり、死、だ。 だから、せめて、生きている間だけでも、 祈り、祈り、届け、よ。 すべてのきみを、愛しているから。 朝顔さんのことだって、わたし、すき、なんです。 詩で、セカイをかえられる、と、わたしは、信じているんだ。 すくなくとも、自分のセカイは、かえられるもの、さ。 朝顔さん、ありがとうございます。 さいごに、わたし、壊れてなど、いない、から。
0圧巻ですね。一本の映画の脚本としてなりたつくらい、多様な展開が、しっかりとされている。うまいなあ、と思うのは、 >かれは子どもの頃 トイピアノ でよく遊んだといいます この意表を突くような、どこかから聞こえてくる声のような、異質感。 >おれは 正直 かれの 画才 に 度肝 をぬかれました こういう言い方も好きです。 題名で、詩の主題が適切に表してありますね。「愛くるしさの檻」。 ロックンロールとのかかわり方が、若い感じを受けます。なぜなのかというと、ブルース的でないところの音楽を、 ロックに聞いているという想像が成り立ったからです。もちろん、どちらがいい、ということではありません。 パンクはあまり聞きませんが、町田康は、圧倒的な才能が有ると思います。
0黒髪さん あなたの言葉の端々に、穏やかで、つるり、とした、やさしさがみえます。 上品な艶けしの、ご感想が、いま、わたしのむねに、届くこと、それが、 なによりも、うれしいです。 町田康さんのソロも、いいですよね、 町蔵さん時代のINU、というバンドのアルバムも、聴きました。 ピストルズと、パブリックイメージリミテッドに、影響を受けているかのような、 なんだか、素直なオマージュと、オリジナルの表現、そして、なによりも、 日本のロックとしての自覚、そういうものを、お持ちになられていらっしゃって、 それが、微笑ましくも、あり、尊敬できますような、親しみやすさまでもつ、 まことに、稀有な日本の、パンクですよね。 おしころした震えのかんじられる、町田さんの、 ボーカリストとしての、才能。そして、土着的なものへの愛を隠さずに、 表現へと、かえてしまう、ありのままの、無垢さ。どうも、かれは、詩人ですね、 自己主張せずとも、目立ってしまうような、特異体質のある方のような、 気もします。町田康さんの、詩集も、とても、イイ。 黒髪さん、これからも、穏やかに、 表現できますことを、お祈りしていますね、 わたし、海より、みずうみが、すき。こころのなかにあるもの、それが、 ひろがりよりも、哀しいほどの、深みをかんじられる、方が、すき。 表現には、みずうみのなかの、暗がりだって、みつめる、 ツヨサが必要でしょう。 いつまでも、明かりのある部屋にいられる訳もなく、 わたしたちは、閉所からうまれ、閉所へと帰る、帰る、闇のトンネルを、 ぬける、勇気を、生きている間に、培わなくては、ならないのですね、 だから、わたしは、目を、逸らさない。 黒髪さんも、きっと、そう。 瞳のなかの惑星が、いつも泣いているから、 地球は、水の惑星、だなんて、表現されてしまうのです。 美しいものを、みつめつづけるのは、とても、恐ろしいこと。 かわらないもの、など、どこにも、ないのだから。 泪をながしながら、いつまでも、水の惑星で、泳ぐことのような、 くるしみだって、たいせつにしてゆきたい。 それこそ、いつか、こころのみずうみが、 海へと繋がる、なによりもの、 証拠となるのですから。 おおきな存在ですね、ひとは、ひとりひとり。 わたし、ほんとうに、もう、誰も傷つけたくないのです。 あと、この詩の登場人物たちの、若気の至り、についてまで、 ロックとブルースの違いとして、言及していただき、ありがとうございます。
0あのー。 どうレスすべきか考えあぐねていたのですが。 リアルロケンロール世代(1964生。西原理恵子と同い年)に属する私から時代状況だけ説明しときます。 あくまでも私個人の記憶、体験から申し上げますと、70年代にはまだこういう「いじめ」っつうもんは無かったの。 いや、いじめっ子はいましたし、中には学年中からからかわれてる子もいましたけれども、 必ず止めに入る奴がいたんですよ。 私が、高校入学した1980年には確かに、いじめの萌芽はありました。 かくいう私も、都内の女子高で精神的にいじめられて不登校寸前→鬱になったわけでして。 (ただし、非常に鈍かったので自分がいじめられていること自体に気づいていませんでした。当時。) 私、最初この詩の題材が気持ち悪いわけじゃない、とコメントしましたが、 現実によく考えますと、このいじめの情景自体が気持ち悪かったというのはあると思います。 話を戻しますと、確かに私もこの時代に生まれていたら、止める側には入れなかったと思うので、そこんとこは謝罪します。 ロケンロール世代の鈍感さでした。
0訂正。ロケンロール世代に属する私の鈍感さ、です。
0〈新鮮なニクタイをもつ 現代人 の聴くオンガクは〉ひらがなとカタカナの用い方によって、文章の流れに違和を作る。そのことによって、語り手の感じている「からだ」や「にくたい」が、自分から離れた(異質な)物質であるかのような、そんな殺伐とした環境に置かれている、そんな印象を受けました。そうした肉体ならざるニクタイを持っている「現代人」が音楽を聞こうとするとき・・・それは「オンガク」としか表明し得ないもの、であるのかもしれませんが・・・〈キリキリと 蓋 をあけるように/音 と出逢います〉こんな切実な出会い方でしか、「音」と出会えない。そのあたりから既に、リアリティーが迫って来るように感じました。 〈なぜかそんな かれをみるたびに胸の奥から ざぁ とした 波がやってきて全身が むずむず したことを思いだします 誰も紺くんのことをスキではありません けれどもかれは 異様な ウツクシサ をもっていたのです〉 教師が率先して行う、いじめのような体罰。集団リンチ的に加虐感情を満たす、群衆としての「おれたち」。 一人の生徒の物語、として書いているけれども・・・鍵盤という「音」を奏でる部分を、弾きこなせないほどの大きさと美しさと理想を持って描き出してしまう画才を持った「紺くん」は、詩人そのものであるようにも感じました。言葉という鍵盤を用いて、人の心、世界の美しさ、そうした「音」を生み出したいと願う(でも、それができずにあがき続ける、宿命を負った)人物。彼は世間にもなじめず、同級生たちの中にも溶け込めず、助けてくれるはずの先生ですら、持て余して辛く当たる、そんな「世間から石を投げられる」存在なのです。 〈ピアノの鍵盤が 描かれたいくつもの かれの作品を一枚一枚 ていねいに鑑賞してゆきます 紺くんから 画を手渡されるたびに 波のしたで いくつもの血管が 海の底から 表面へと向けて はり巡らされて ゆく よう でした〉 詩形の美しさや、詩の語りのリズムや呼吸をなぞるような一文字あけの工夫が、まず素晴らしい。 それから、もしかしたら子供の時には描き得なかった「鍵盤」を、描くことができるようになっている彼の技量・・・彼の描き出す詩の奏でる音楽に興奮し血が騒ぎ、心が燃え立つような感覚を、実によく表している部分だと思いました。この作品の中でも、一番好きな部分かもしれません。 〈おれはいつだって 逃げ虫の傍観者 です かれをなめまわすようにみつめていた 他の生徒となにも 変わりません〉 この部分を読みながら、鍵盤を描こうと必死になっていた「紺くん」と、語り手は、実は同一人物なのではないか、という気がしてきました。詩人であることを選んだ私と、社会人としてごく普通の日常生活を選び、詩的感興とか詩情を抑圧して生きているわたし。 引き裂かれたわたしが、交合する。分裂した自己が統一される。実社会で生き辛さを抱えている、日常生活に悪戦苦闘している「私」と、詩的感興に突き動かされるまま心の音を奏でる生を選んだ「私」が、死の陶酔の中でひとつに溶け合う。ロックンロールの激しいリズムは、その高揚感を表す心音であり動機であるのかもしれません。 ・・・いじめを思わせる、かなり具体的な描写が、時には・・・同じような体験をしたことのある人に、フラッシュバック的なショックを与える、ことは、あるのかもしれませんが・・・私個人の感想としては、閲覧注意、と表記をしなければならないほどの、グロテスクな描写や残酷な描写があるようには思えませんでした。 引き裂かれた自己の融合を願う祈りの物語、であり、詩人は心の音を奏でる鍵盤(詩行)を弾きこなす人物である、という詩論が秘められている、私にはそう感じられます。 全体の流れも、丁寧な言葉の運びも美しいと思いました。
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