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オホーツクの岬
朝方のよい風がそよぎ 若い草原の広がった岬の その先端には立方体が浮いている 海と空が限りなく触れ合う水平線を背にして 一辺80センチほどの金属光沢を持つ物体 しかしその材質は鉄や鉛などではなく まだ人類の誰もが見たことないであろう 時が静止したようなこの岬にだけ自然発生した 全く異質なるものだとなぜだがわかる 草の間でハマナスの赤い小さな実がゆれて 雲はほどよい大きさにちぎれながら流れている 音を出すものは何もないこの岬で 地上1メートル上を浮く立方体 垂直からは少し傾き 対角線を軸にしてゆっくりと回転している たった一本まっすぐに伸びる水平線と 立方体の各一辺一辺が絶え間なく交差し続けながら 縞模様の灯台 先を垂れる草 天を突きそうな山脈 それらそれぞれをどれもすべてまとめて 立方体の暗い一面一面にて反射している 立方体の前に立ち 水平線の前に立ち 眼下には切り立つ崖を望みながら 私は立方体へそっと触れる 触れた右腕が弾け飛ぶ 後方の草原に落下して隠れる 肩の断面からは鮮血が溢れ噴き出して ハマナスよりも紅く地を彩る 痛覚が肉の中でもがきのたうちまわる 立方体は凛と浮遊したまま変わらない 私は左手でも触れる 左腕も激しく弾け飛ぶ 両腕を失い棒きれのようになった私の 足元には大きな血だまりが生まれている なおも私は地を蹴り飛びついて 宙に浮く立方体に 脚や腰や胸や首で 怯むことなく触れ続けて そのたびに体は爆ぜて爆ぜて爆ぜて ハマナスの実は一面の豊穣となって 虫は跳ねて動物は駆けて草葉は茂って水は湧いて 岬の風景は輝く光景となり 身のすべてが飛散しつくした私は 跡形もなく消え去った
オホーツクの岬 ポイントセクション
作品データ
P V 数 : 1069.7
お気に入り数: 0
投票数 : 0
ポイント数 : 0
作成日時 2017-05-17
コメント日時 2017-06-03
項目 | 全期間(2024/11/23現在) | 投稿後10日間 |
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※自作品にはポイントを入れられません。
- 作品に書かれた推薦文
モデルとなった地 能取岬 http://imgur.com/a/gac2j http://imgur.com/a/ZyJ2S http://imgur.com/a/0lAqZ http://imgur.com/a/dSzBy キムアネップ岬 http://imgur.com/a/4FULg http://imgur.com/a/jalUX http://imgur.com/a/wNMYA
0これは傑作です。 祝儀敷さんが、単なる思い付きやその場の即興で、風変わりな詩を書いていらっしゃるのではないことが、 はっきりとこれを読んで伝わって来ました。 デッサン力もあり、造形力もあり、尚且つ骨太なテーマがここにある。 地方の年配詩人の審査員にも、十二分に伝わる理解される詩です、これは。 この詩は、福島を襲った震災を直接にはテーマにしていませんけれども、 にも拘わらず、核とか戦争とか、あるいはもっと大きな人間性を揺るがす全てのものに対する、作者の姿勢。 人生への決意と態度を大きく表明している。 画像は敢えて拝見しませんでしたが、写真が添付されていなくとも、この詩本体だけで十二分に伝わってくるものがあります。 正統派の秀作です。真っ向勝負にでられたなと感じました。
0朝顔さん 評価ありがとうございます。 この作品に対して色々と自己解説をつけたい気持ちはあるのですが、後に読む人のためにまだちょっと黙っていようかなと思います。なので感謝の意だけまず示しておきます。 この詩と関係あるかはわかりませんが、私が熱を出すと幼少のころから決まって、「おおきなもの」が現れる夢を見るんですよ。そのおおきなものの存在が自分と不和を起こして気持ち悪くなっている。そんな夢、なのかな、おおきなものを感じるというか、そうなるんですよ。それを通過すると熱が引く。 あと詩とは別にしても、写真の岬はほんとうに良い景色なのでよければ見てみてください。北海道はいいね。毎年行く人がいるのもわかる。
0映画『2001年宇宙の旅』の始まりに出てきます立方体の物体。あれを思い出しました。そうすると、「私」が人類の祖先といわれる猿に思えてきて、不思議な気持ちになってしまったんですが、本作『オホーツクの岬』に流れる思想は、キューブリックが『2001年宇宙の旅』で表現した思想とは関係ないのかもしれない。それは、立方体の物体に触れることにより、「私」は消失する。映画の猿は、知恵を、その立方体から授かっている。
0三浦果実さん 「私」が人類の祖先、かどうかは私にも計り知れませんが、この詩を書こうとした動機にオホーツク海にひろがる岬らがとても美しく巨大で、そしてそれに私が対峙したからなんですよね。自然はとてつもなく大きくて、人間が日常生活でバクテリアのことなど考えずにいるよう、人間はじめ諸生物なんぞ自然の意識外にしかないのでしょう。そんなことを思っています。
0これだけ非現実的な光景に、これだけ肉薄するという描写の確かさが素晴らしいと思いました。〈よい風〉〈若い草原〉さりげない表現だけれども、新鮮な組み合わせのフレーズ。三行目から、マグリットの絵のような鮮やかさ、ラピュタで空中浮遊している不可思議な物体のようなリアルさで奇妙な立方体が現れて来る。 単なる立方体ではなく、世界を映しだす鏡のような存在であり、そこに触れようとするものを弾き飛ばす、崩壊させる威力を持ったもの、でもあり・・・自らの肉体の血しぶきのイメージと、ハマナスの赤い実が散らばっているイメージとの連動が面白いと思いました。オトギリソウの葉の斑点が血しぶきである、というような伝承を思い出したり・・・。 〈宙に浮く立方体に 脚や腰や胸や首で 怯むことなく触れ続けて そのたびに体は爆ぜて爆ぜて爆ぜて ハマナスの実は一面の豊穣となって 虫は跳ねて動物は駆けて草葉は茂って水は湧いて 岬の風景は輝く光景となり 身のすべてが飛散しつくした私は 跡形もなく消え去った〉 全身で世界に触れていく、という意欲と・・・代償として得る痛み、喪失の暗示、その犠牲と引き換えに得る豊かな自然(再生した自然)のイメージ。朝顔さんも福島の人災の事に触れておられますが・・・人類が滅びた後の自然の豊穣を連想したり、世界を照らし出す行為に激しく惹かれていく詩人を重ねたりしながら読ませていただきました。
0おはようございます。 とても静謐な境涯が この一遍の詩には存在していると思います。 一辺80センチほどの金属光沢を持つ物体、このサイズ感は人間が全体を把握するちょうど良いサイズ感。このサイズであるなら全体像を掌握できるサイズ。だからこそ、得体がしれない。 未来的な素材でできている空中に浮いている方丈庵をイメージしました。魂の浄化装置だと感じたからです。しかし、命を奪うやもしれない強烈な威力のある箱状の物体。 ハマナスは北の大地に生きる方々にとって その実の利用などの関係からか、特別な感情を噴出させる植物なのだなあと おもったことが私にはあるのですが、わたしの住む中国地域でも咲いています。鮮血のイメージとの相性がとても良い植物だと この詩を読んで思いました。 その理由としては、ハマナスははとても細かな多くの棘のある植物であり、鮮やかな色を持った花であるからです。また浜辺という塩害が予想されるような地域でも咲く なにかの堺に置くには最適な植物だなあと この詩を鑑賞しました。 また後半からの早まる心臓の鼓動のような痛覚の描写に、いきとしいけるものが拍動しているかのようなリズムを感じました。この詩に触れたひとりの読者として なにか ジョギングのようなことでも初めたくなりました。
0読者として楽しもうと思うと、ツッコミを入れながら読んでいるんですよね。 >全く異質なるものだとなぜだがわかる なんでわかんねん、とか >私は左手でも触れる 痛い、痛い、駄目、左手でも触っちゃ駄目だー とか。 僕はシュルレアリスムって概念は把握しているつもりなんですけど 詩作品としてしっかり拝見したことが今までになくって 勉強不足かも知れないですけど これがシュルレリスムっちゅうものかなぁ、と 流石だなーと思いました。
0小心者なので、追記の必要を感じて ふたたび 書かせていただきます。 ジョギングでもしたくなったなんて なんと のんきなというお叱りを受けそうです。 血吹雪のような惨事があらわれることを表現されているけれど 人間以外の動物は あたまをつかわずとも 死と接していることを感じているのに 人だけは意識で 死を理解しているような気がしています。 死と接したと感じたら 自然と動くのが 動物。だから私も動こう!と、いう意味なのです。 再レスを失礼しました。
0祝儀敷さん、こんにちは。御作にコメントさせて頂きます。声に出して読んでみました。リズムのよさ、残酷な強烈な場面もひとつの風景のような、無機質なもののように 感じられる不思議。描写と世界観に惹きこまれ、力強さに圧倒されました。立方体が何を象徴しているのか。触れるだけで破壊されてしまうほどの脅威でありながら、 恐怖を感じなかった、どこかで納得できるものがある不思議。単なる自然賛歌に終わらない鋭さに掴まれました。
02017年は実生活に余裕が無くてこれへの返信も怠っていたのですが、月初めなので今はまだ色々と余裕があるのでここで思い切ってバッと返信していこうと思います。 まりもさん 自分としてもこの詩は自作でも稀に見る正統派ストレートなものができたなと思います。 この詩を書けたのは間違いなく北海道の自然のおかげです。偉大な大自然にはただただ平伏す思いが湧くばかりでした。それはもはや神の域であり、岬に居たときに私はその神に対峙する個人でした。果てしなく巨大な存在に向かう、意識の最小単位である個人とは何なのか。そういったことを考えていたように思います。オホーツク海には今度は流氷が漂っている季節にも行ってみたい。てかまた夏だとしても北海道は行きたい。バイクで走りに行ったのですが、北海道が聖地であるのも頷ける。とても良い。猿払や稚内や宗谷のほうなんてまさに地の果てだ。 ただコメント見て思うのは、どうしても原発と結び付けられてしまうんだなぁということでした。まりもさんが既知だったかどうかはわかりませんが、私は震災前から現在まで変わらず福島市民でして。はっきりと申せば、私が直接的に震災や原発を絡めて詩を書くことは今までもありませんでしたし、これからも無いでしょう。 震災詩人なんて飽和しているし私が書く必要もない、そもそも既に震災詩人の詩はだいたいどれもこれも似たり寄ったりだ。てのは結局特定思想前提の詩って帰結がその思想の表現か肯定か啓蒙ですから、そういうのは表現の巧拙の差はあれど帰結する先はいっしょだと思うのですよね。原発ですとやはりどうしても政治的なもんが絡んできますので、そういう政治主張が絡んできてしまう。また、帰結する先が似たり寄ったりという点では原発が関係してこない震災詩でも、つまりは命の大切さとか道徳的に規範的なメッセージが帰結先じゃないですか。そうでない震災詩というのを私は残念ながら読んだことが無い。 だから劇薬だと思うんですよ、震災や原発という要素って。正直言っちゃえば詩壇ってリベラルが強いってのもあって、クズな出来なのに震災をテーマにした詩だってだけで評価されちゃっている詩もあるじゃないですか。こぉんなぼくのかんがえたへいわのしを読まされて何を思えばいいんだ。書き手と読み手の間に共通する思想があってそれが共鳴しているだけじゃないのか。それじゃあ共鳴しないできない人から見たらその詩はんもうベーだ。そういう事態に陥る危険性が高いと思うんですよ。和合氏だってこれ言うの忍びないですが、震災前の作品のほうが良かったし、震災後に書いた震災絡まない詩は明らかに劣化している。「現実がシュルレアリスムを超えてしまったので以前のように作品としてシュルレアリスムを書く意味を見出せなくなった」と彼は言ってますが、そう言われたって読み手が作者のそんなパーソナルな事情を顧みて読まなきゃいけない義理もないし。 あとやっぱ実際の被災民として、震災関連の活動をしている人の中には震災を、自分らを飯の種にしているなって人がいるなと感じていたんですよね。他地域の人がこんなこと言ったら叩かれますが、でも私は当事者だし言う権利はあるでしょと思って言いますが、福島駅前で太鼓ドンドン叩いているお前ら絶対楽しんでそれやってるでしょ。反権力のヒーロー気取れて気持ちいいよね。そこで太鼓叩いて通行人の邪魔なるより目の前のブックオフで一冊でも買って地元に金落としてくれた方がなんぼも復興につながるよ。 福島大学には以前まで全学連がしきりに活動しに入り込んできました。(もう去年あたりから来ないが。飽きたのかな?)彼らと話していると学生課が来て辞めさせるよう干渉してくるんですよね。それでもたびたび全学連のメンバーと話していましたが。その会話の中で「権力に反抗するというポージングを取りたいために反原発やってるでしょ。思想がうんぬんよりも巨大な悪に立ち向かう正義の徒って感じになりたいからやっている節あるでしょ」といったことを(あくまでフレンドリーに良好な関係の間で)聞いたことがあり、あちらも「確かにそういった面を否定はできない」と返してきた。 ヒーローになりたいって気持ちはわかるけど、やはりそれのネタとして勝手に自分らを使われるのは気持ちよくない。ガチで福島を助けたいのなら、そういう話題が好きな人しか集まらない反原発ソングのコンサートひらくより果物なりなんなり福島のものを買って消費してくれた方が何倍も効果的だ。結局きもちよりカネだ。だからTOKIOは私は非常に感謝している。彼らは福島をカワイソウな被害者(そういった捉え方をしている時点で風評被害だ)としてでなく、旨いもんいっぱいの魅力ある地として応援してくれている。(福島は感謝のしるしとして彼らに農地を無料譲渡すべきだ。)人々がポジティブな印象を持って福島に触れたときはじめて風評被害は無くなった状態となる。なのである意味では私は震災は風化すべきだと考えている。福島の冠詞から「震災」の字が無くなった時こそが復興の時だ。他県民が広島風お好み焼きを食べている時、またはカープを応援している時、広島を原爆の地として見ているだろうか。 話戻れば、己の肥やしとするために活動している奴らと同じことをしてたまるかと、反反権力ですね。被災者の全員が反原発だとオモウナヨ! それ前提で絡んでくんな祭の中でいきなり呼び止めて機関紙売りつけてくるな! 買わねぇよそんなセンス無い名前の新聞なんて。思想となんだとか以前にお前らのアートデザインがキモイ。 長々々々と書きました。別に作者がどう思って書いていたとして読み方は自由ですから別に震災が影響している詩だと読み取っても全く問題はなんですよ。まりもさんはとても良いコメントをくださっていますし感謝しかありませんし、震災というキーワードを見出したまりもさんや朝顔さんら個人を揶揄する気持ちは全くありません。ただ、あくまで作者として公には震災は関係ないと表明しておきたいだけです。震災詩人なるつもりは1ミリもないってだけです。(ある意味それが私の「戦略」でもありますので。) 震災云々はとりあえずとして。マグリットは最近特に注目している画家です。彼の作品ですと私は「ゴルコンダ」が特に好きですね。あとシュルレアリストつながりではダリやキリコも良いですね。特にキリコのあの空気が固化したかのような音の聞こえてこない広場は非常に意識すべきものだと思っています。
0るるりらさん このサイズ感は人間が全体を把握するちょうど良いサイズ感 80センチは実際に定規で測って決めたものです。小さすぎず、大きすぎず。人間工学には明るくないので科学的な根拠は無く感覚で80センチにしましたが、他者にも印象を与える大きさだったようで安心しました。 ハマナスはオホーツクに行ってはじめて注目した花でした。きれいですよね。そして美しいながらも棘がある。しかし棘も花も薔薇よりは控えめで、それ故に秘めたものがあるように思えてくる。
0田中恭平さん いきなりなんですが、私って関西コテコテの漫才って好まないんですよ。ボケとツッコミが明確なの。分かれていないほうがいい。銀シャリよりモンティ・パイソンのほうが好き。哲学者サッカーなんか至高。(https://www.youtube.com/watch?v=N7MlY56Gj3Y) ってのは、その中に世界がある笑いが好きなんですよ。舞台上には観客側の常識の世界とは違った倫理観で動いている異世界があり、現実の我々が日常生活を別にふざけることなく営むよう、舞台上の異世界にいる彼らも彼らの常識に則った行動をする。それを異世界から見たら異世界にあたる我々の世界から見て、舞台上を異質なものだととらえて笑う。でも舞台上の世界の人たちは真面目なんですよ。対してボケツッコミの笑いは、ボケが我々の世界の常識から外れたことをするとツッコミが叩いたりなんなりしますが、それは我々の世界の常識に則った判断で行ってるんですよね。前者の例がたとえツッコミ的なものがあってもそれは舞台上の世界の倫理常識で行われているのに対し、関西的な笑いはあくまで我々の世界現実の世界を軸にして展開される。だからそこに(こちらから見れば)異質な条理というのは現れにくい。 この東西の違いは「ボケとツッコミ考 ~笑いの東西問題」というHP(http://www.eonet.ne.jp/~greenboat/boat/BokeAndTsukkomi.html)が詳しいので一読してほしい。 んでだが、私のお笑いでの嗜好がこうなので、詩に関しても当然ながらこうなのです。詩中世界は必ずしも読み手が存在する現実世界の常識に則った条理で動かなくてもよいのではと思います。それを成すには、その独自の条理が存在することを納得させるだけの筆力が必要でしょうし私が今後磨いていくべきものの一つがまさにそれでしょう。
0夏生さん 恐怖を感じなかった、のならなによりです。というのは田中恭平さんのほうにも書きましたが、詩中世界特有の条理がそこにちゃんと働いていることになりますからね。私としても詩中の触れていく彼は恐怖感を感じていなかったと思います。身が爆ぜても触れていくことがあの世界の条理でしょうから。
0力の溢れ出すようなコメントを拝読しながら、こっちの方がむしろ「詩」なんじゃないのか・・・少なくとも、爆発するようなエネルギーの突出する瞬間瞬間が、詩のひらめいている瞬間なんじゃないか、という気がして・・・考え込んでいます。 震災とか事故とか天災とか人災とか・・・とにかくあまりにも強大なものにローラーで押し潰されるような感覚を潜り抜けた、という「事」を語られてしまうと、ナンだか聖域に触れるみたいな感じになって、詩だと言われればそのまま、はい、と受け止めざるを得ないような感じになってしまう、のは何だろう、遠慮なのか?人でなし、みたいに思われるのが、怖いのか? 自問自答しても、答えは出ません。 今、書いたことは、祝儀さんの作品について、ではなく、いわゆる震災詩に関してなのですが・・・ 原発を感じたのは、四角い、という形態のゆえか、触れる人を引きちぎってボロボロにしてしまう、近づいたとたんに弾け飛んでしまうような凄まじさのゆえか・・・出身地が福嶋だということは、コメントを読んで思い出しました。作品を読んでいるときには、ぜんぜんそんなこと、考えなかった。 復興しようぜ、と祭で盛り上げること、皆を元気に❗と理性で思って、自分が元気になりたい、と気持ちで思う、ということがあるかもしれない。 そんな「大変なこと」に見舞われた人達が、安奈に力強く生きている、私も頑張らなくちゃ、みたいな「元気をもらう」他見の人もいるかもしれない。 元気をもらいました、と語って帰ってくるボランティア体験者の話を聞くたびに、むねの中がワサワサするんですよ。きっと本当だろうな、と思い、違うだろ、と思い、私もそう感じたいのか?と思い、そんなの浅はか過ぎるでしょ、と思い・・・ 整然と整っているように、作り込まれた作品の中に、沸騰する毒みたいな強さがあって、それが、惹き付ける。 んなアホなことあるわけないだろ、というデフォルメの中に、鼓動する心臓をザクザク切っていくみたいな、切り込んでくる言葉の強さがある。 暗喩とか言いたくないけど、そういう生な感情の溢れだしを、イメージの中に詰め込んでるから、あるわけないだろ、的な光景なのに、おもしろ~❗と笑えない。ぐいっと引き込まれる。そういう意味では、痛いんだ、この詩は。 でも、ナンで痛いのか、理性というか頭ではぜんぜんわかんなくて、返信をみて、少し分かった。少し、だけど。 そういうレスの往還がある、ということが、投稿掲示板の、あってよかった、というところなのかな・・・ 支離滅裂になってるかもしれない、誤字脱字だらけかもしれないけど、そのまま投稿します。 返信してくれて、ありがとね。
0天才詩人さん 当該作品読んでみました。「空無通信」(http://bungoku.jp/pbbs/bbs.cgi?pick=4)「蛍」(http://bungoku.jp/pbbs/bbs.cgi?pick=5) 「蛍」のコメントにあったことですが、ダーザイン氏が北海道出身なのは知っていましたが晩成生まれなのまでは知りませんでした。 手元にある「ツーリングマップル2016」で見てみたところ、晩成を走っている国道336号線に「R336は民家皆無で交通量少ない/スピードの出しすぎ注意」とありました。(余談だが、改行を/で表すのって詩の引用以外だと殆ど見ませんよね)つまりはそういう田舎なんですよね。事情あってR336は日に3往復した(その日の走行距離は523km)のですが、僅かな集落ゾーン以外は道か山でしたね。作家論ですがそういったところの出だというのは直接モチーフに使うかとは関係無しに、確実に詩作にも影響を及ぼしているでしょう。 そういえばですが、昨日とある画像→ https://twitter.com/ninten86/status/870280207856422912 を見まして。ポケットモンスタームーンのテッカグヤというポケモンと東方永夜抄というゲームの蓬莱山輝夜(ほうらいさんかぐや)というキャラクターの絵なのですが、はじめてこのテッカグヤというポケモンを見まして、あああすごいいいいいってなりました。 市川春子のデザインで、体長が9.2m。こんな美しく巨大なものが目の前に現れたらもう泣いて感動してしまう。2mにも満たない人間なんて巨大な動物や建造物や山河や宇宙に比べたらちっぽけな存在で、だからこそそれを前にして感動をするのですよ。もう俺ほんともうテッカグヤに会ってみたい。泣くわ。俺にとっての大仏像になる。 巨大な動物といえばヘラジカ(体長3m肩高2m)もいま一番に見てみたい動物です。
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