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あの夜に生きる
腹が絞りきられるようだった。 雑巾みたいに絞って出てくる液体はどろどろして青く濁り、腹と私の心を満たした。 誰も信じられず、信じたくもなく、あいまいで不条理な世界を、私はただ憎んだ。 突然、大声で笑いだしたい気持ちになった。 今、私は自由なんだ。 だれも私を縛らない。 行きたければどこへだって行ける。 生まれてから感じたことのない種類の解放感と快感が風のように押し寄せ、体をかけぬけていった。 海に行こうと思った。 駅にあったパンフレットには電車のホームからすぐに海が見えるような、そんな駅が載っていた。 迷わずそこを目指した。 電車は海を目指した。 ゆがんだ空気を切り裂くように、走った。 だんだん静かな気持ちになってきた。 落ち込むのではなく、晴れ渡った冬の空のような澄んだ快感が身体も心も隅々まで満たしていた。 駅に着いたから降りた。 駅員なんて一人もいなかったし、何の気を遣う必要もなかった。 目の前に広がる海。 石がコロコロと並べられた河原のような浜へ降り、手ごろな岩に座る。 一つ一つの石が自分を主張しているのが好きだった。 私もこの岩になれたらいいなと思った。 日暮の哀しげな鳴き声が、空に海に夕暮れに染まった街にこだました。 これからの生活に思いをはせた。 この町で暮らしていくのかと思った。 暮らすっていつまで? 死ぬまで。 突如大きな波が岸壁に押し寄せ、爆撃のような音を立てて砕け散った。 怖くなった 私はいつか死んでしまうのだろう。 いつか考えることもできなくなるのだろう。 なんで生きてるんだ。 日は海の向こうに沈もうとしていた。 あれはまた、いつか昇る。 幾度も幾度も登ったり沈んだりを繰り返し続けるだろう。 どうして私はその繰り返しの中で死ぬまで生き続けなければならない。 なんでみんなは平気な顔をして生きている。 どうしようもなく根源的な不幸を人間は抱えて生きている。 どれだけ何かを大事にしてもいつかはすべてを失う。 涙が頬を伝って滴り落ち、足元の乾いた岩を湿らせた。 岩はそんな私を許容してくれるみたいに、涙を吸収した。 嗚咽は上がってこない。 ただ、雨の降る日に、屋根を伝って滑り落ちる雨水のように、とめどなく涙があふれ出るだけ。 夕暮れだった。 海に沈みゆく夕陽を眺めていた。 それは驚くべき速さで、海の向こう側の世界へ眠りにつこうとしていた。 完全に沈んでしまってからも、沈んでいったあたりの空はまだ明るかった。 そのあたりのものたちは陽が沈んだことを認めたくないようだった。 自分たちの世界を照らす存在が突如としていなくなってしまったことが、信じられないようだった。 「でも陽はまた昇る」 小さく呟く。 その声は微小なそよ風となり、海を軽くなでたあと、高く空へ巻き上げられた。 夕凪に消えた。 夜は明ける。 私は明ける? わからない。 保障なんて何もない。 海になりたい、と思った。 この海を構成する諸要素の一つになりたい。 身体も心もすべてぐちゃぐちゃにかき混ぜられて透明になって、涙も葛藤もなにもないまま、世界を駆け巡る大きな流れになりたい。 枯れ果てたと思っていた涙がまた少し流れ始めた。 ぼやけた視界で空を見る。 宵の空に、金星が孤独にまたたいている。 私は手を伸ばす。 空はあまりにも広く、あまりにも遠いところにあった。 私は目を閉じる。 夜はもう、すぐそこにいる。
あの夜に生きる ポイントセクション
作品データ
P V 数 : 1105.9
お気に入り数: 0
投票数 : 0
ポイント数 : 0
作成日時 2019-04-13
コメント日時 2019-04-13
項目 | 全期間(2024/11/24現在) | 投稿後10日間 |
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叙情性 | 0 | 0 |
前衛性 | 0 | 0 |
可読性 | 0 | 0 |
エンタメ | 0 | 0 |
技巧 | 0 | 0 |
音韻 | 0 | 0 |
構成 | 0 | 0 |
総合ポイント | 0 | 0 |
平均値 | 中央値 | |
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叙情性 | 0 | 0 |
前衛性 | 0 | 0 |
可読性 | 0 | 0 |
エンタメ | 0 | 0 |
技巧 | 0 | 0 |
音韻 | 0 | 0 |
構成 | 0 | 0 |
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※自作品にはポイントを入れられません。
- 作品に書かれた推薦文