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おとしもの
「静謐な爆音」。そう小さく呟いてから、彼は大きく息を吸って周りを見渡した。小さな6畳の部屋のすべての些細な90度をひとつひとつ数えるようにして、彼はやはり大きく息を吐いて親指で支えられた自分の小さな顔をちょっと傾けた。閃いてしまったのだ。平成という世が終わり、令和というなにやら新しい時代が始まろうとしているこの境目の境界線上にぴいんと立った彼は閃いてしまったのだ。キーボードを叩いても「令和」が「0話」としか変換されない苛立たしさに多少なりとも苛立ちながら彼は、自分のこの閃きが時代の敷居の上にきらめいたことの偶然と、そしてひとつの時代がやがて終わろうとしているというこの決然たる甘美な事実を前にして正直なところ身震いを禁じ得なかった。それは同時に実にビターでスイートな瞬間であって、彼が生前に好んで使った言葉を借りれば、まさに「正気のSaturdayNight」のだ。 今年の冬はとても寒いからと思って、シングルの羽毛布団の上にさらにダブルの羽毛布団をかけ、さらにその上に風邪をひくといけないからと毛布を一枚。これが本当のセミダブルだ、とかなんとか、毎晩そんな重たい夜を過ごしたせいか朝起きると最近は腰がだいぶ痛い。そんなことを思い出しながら彼は出し抜けに立ち上がって、6畳の畳の縁の線にそって行ったり来たりし始めたのはちょうど夜の8時ごろ。彼の6畳は団地間だから長辺が3.4メートルで短いほうが2.55メートル。かれこれ合計10キロくらいは畳の縁の上を歩いていることになるのかもしれない。彼の思考は深く彼の内面に沈潜しはじめていた。そもそも「静謐な爆音」とはいったいなんなのだ。 「静謐」とは「静かで落ち着いていること。また、そのさま。世の中が穏やかに治まっていること。また、そのさま。」と「コトバンク」というウェブサイトには書いてあるが、つまりこの時代の切り替わりと何か関係があるのだろうか。パソコンのディスプレイに目をやるとウィリアム・ブグローというおフランスの絵描きが描いた可憐な少女が可憐という形容詞以外寄せ付けない可憐さで「William Bouguereau（ハードカバー）￥ 35,749」のなかから彼を見つめている。きっと彼女の名前はカレンというのだろう。そもそも19世紀のフランス人の絵描きは裸を描きすぎた。当時の貴族の正装がみな裸体だったらしいのでそれは仕方のないことなのかもしれないが、まあそれはどうでもいい。とにかくこの「（ハードカバー）」の表紙のカレンが慎ましやかに服を着てくれていることに彼は静かで穏やかな、何とも言えない安らかな安堵を覚えた。これが「静謐」という感情なのだろう。それにしても爆音とは。どのさまなのだろうか。 例えば、チャイコフスキーの書いた「悲愴」とかいういかにも悲愴な交響曲は、彼らの気取った言い方で言う第一楽章で、「甘くなーれ、甘くなーれ」とシルクをなで付けるように囁いてとろけてまどろんでは夢の中。というその瞬間に、甘い夢は散り散りになって木っ端微塵のマクラーレン。大砲が鳴り響いて死体がゴロゴロし、彼のセミダブルは彼を包んでついにはアスパラベーコンになって皆さん美味しくいただきました、というその矢先に涙のような土砂降りがざあざあと降ってそれは美味しく出来上がったシチューを鍋ごとひっくり返してしまったような惨劇なのでした。 それを名付けて「静謐な爆音」とある音楽の歴史家が名付けて今日に至っているという話もあるが、別の説によれば、人間が吸音材で囲まれた全くの無音な部屋に一人で閉じ込められたとき、その人は自分の体が発するありとあらゆる音、心臓の鼓動や骨の軋む音、赤血球と白血球が動脈と静脈を進む音、筋肉が伸びたり縮んだりする音、よだれがにじみ出る音や瞳が次第に乾いていく際に涙が次第に蒸発する微細な音に至るまで身体中のありとあらゆる音という音が爆音のように押し寄せて着て、その人はたちまちパニックになって精神を病んでしまうらしい。 特にドライアイのひとにその傾向は強く。あ、そうだ、と彼は自分が高校時代にコンタクトを煮沸しないで、1週間付けっ放しにした結果、ドライアイになっただけでなく目が傷だらけになってコンタクト禁止になったはるか昔を思い出した。あの頃はまだ使い捨てコンタクトなどなかったのだ。毎晩鏡を見ながら自分の顔をどの角度から見れば一番美しいかの研究に余念がなかった彼は確か高校を落第しかけたのを思い出した。本当のところは同じクラスの美少女に一目惚れした結果、夜も昼も彼女の残像をぼんやり頭のなかに見つめながら、やれ今日は目が合っただの、合わなかっただの。頭のなかが轟々と何やらひどく自虐的な感情で支配されていて彼は勉強どころではなかった。まさしくそのさま、あるいはその様。 「ねえ、私にさよならは？」
おとしもの ポイントセクション
作品データ
Ｐ Ｖ 数 ： 1438.4
お気に入り数： 0
投票数 ： 0
ポイント数 ： 47
作成日時 2019-04-04
コメント日時 2019-04-06
| 項目 | 全期間(2024/11/21現在) | 投稿後10日間 |
|---|---|---|
| 叙情性 | 0 | 0 |
| 前衛性 | 5 | 5 |
| 可読性 | 14 | 10 |
| エンタメ | 16 | 16 |
| 技巧 | 12 | 12 |
| 音韻 | 0 | 0 |
| 構成 | 0 | 0 |
| 総合ポイント | 47 | 43 |
| 平均値 | 中央値 | |
|---|---|---|
| 叙情性 | 0 | 0 |
| 前衛性 | 1 | 0 |
| 可読性 | 2.8 | 3 |
| エンタメ | 3.2 | 2 |
| 技巧 | 2.4 | 2 |
| 音韻 | 0 | 0 |
| 構成 | 0 | 0 |
| 総合 | 9.4 | 5 |
※自作品にはポイントを入れられません。
- 作品に書かれた推薦文
お久しぶりです。また読めてうれしいです。最近見かけなくなってしまったので、もう来ないのかなあとさみしがっておりました。 三段落目の〈きっと彼女の名前はカレンというのだろう。〉で吹き出し、四段落目の言葉遊びでめっちゃ好きだわと思い、最後まで読んではお元気そうでなによりですと思いました。 愛を型にはめるのに抵抗があるので、ポイントの項目に「好き」とか「いいね」があればなあと悩みつつ、私の愛は野田秀樹風に言うところのミーと吸ってハーと吐くタイプの愛ですと表明しておきます。
0こうだたけみさん どうもお久しぶりです！なにやらシステムが変わって面白そうなことになっていたのでまた投稿して見ました。ご感想いただけてとても嬉しいです。言葉遊びはオヤジギャクっぽくてちょっとベタだな、、と自分でも思いつつ、なんだか歯がゆく思いながら書いたのですが楽しんでいただけて何よりです。ありがとうございます。
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