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no title
その人は、亡くなるためにやってきます。 その人が、治らないからだの病気をかかえているのなら、 わたしはすぐ病院に行って、治療をすすめることができます その人が、涙もでないほどのこころの病をかかえているのなら、 わたしはそばによりそって、話をきくことができます。 その人が、生きるはりあいをなくしているのなら わたしはいっそ、蜂蜜色の熟しすぎた洋梨を両手いっぱいに抱え、あぁ困りました、 ジャムを煮たいのですが、とつぶやいて、その人とともに台所に立つでしょう。 何もない部屋に、その人を案内するのはほかならぬわたしです。 その人の娘というひとも続いて入ります。 しずかな部屋に、三人が取り残されたかのような、 それぞれの距離は等間隔であるのに、むしろ不均衡な空気がただよっているのなら、 それは親子である2人がもっと近づいているべきだからかもしれません。 そして、その人のまくられたセーターからこぼれる腕の静脈のひとつひとつを「ひかり」と呼べるほど、 その人のぎこちのない笑顔に慣れていないわたしがいるからかもしれません。 その人の、ひとすじのかがやきながらながれる時間のきっさきにこの部屋があるとするのなら、 この娘というひとのなかに、どれほどのしたたる時間をかけて、一緒に暮らすという形では親を大切にできなくなるという思いに埋もれていったのでしょう。 二人で暮らしてきた幾年ものあいだのどの時点で、心に思い描いていた老いとゆとりとのバランスが、まぜこぜになってしまったのか、 わたし自身が知ることができません。 もしかするとそれは、そのひとが噤むこととなった言葉の数が、 ささやかな日常のながれに、「緊張」という種をととのえながら落ち着いていった真昼のことかもしれない。 いや、それよりも、かなでるようにくちずさんでいたはずのうたごえは、 亡くなった愛するひとにたむける、だけどその曲の名をだれもいえない、そのような。
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作品データ
P V 数 : 1103.9
お気に入り数: 0
投票数 : 0
ポイント数 : 0
作成日時 2017-05-07
コメント日時 2017-05-17
項目 | 全期間(2024/11/21現在) | 投稿後10日間 |
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叙情性 | 0 | 0 |
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※自作品にはポイントを入れられません。
- 作品に書かれた推薦文
「それぞれの距離は等間隔であるのに、むしろ不均衡な空気がただよっているのなら、」仮定法であるのに、既に起こってしまった出来事を叙述しているような不思議な感覚がありました。起きてしまった出来事を、もう一度、時間を逆廻しにして思い返しているような・・・起きてしまったこと、を、起き得たこと、と時間を遡行して言い換えようとしている(でも、それは不可能である、ということによって、限りない切なさが生まれる)というような。 夫を失い、弱った母親を一人にするわけにはいかない、と同居することになった娘夫婦と娘の母親・・・その間に通う、和やかとは言い難い空気、そのような物語を感じました(人によって、長いこと離れて住んでいた親子とか、別の関係性を見るかもしれません) 「その人のまくられたセーターからこぼれる腕の静脈のひとつひとつを「ひかり」と呼べるほど、」白い腕に浮ぶ静脈を見つめる語り手の眼は、観察者の眼であって、肉親を想ったり大切な人を慮ったりする感情移入が感じられない、どこか突き放した距離感もある。その微妙な感動の所在を、「その人のぎこちのない笑顔に慣れていないわたしがいるから」と静かに、2人の関係性をも含めて見つめる視点。 それでいながら、冷たく突き放すわけではない。むしろ「その人」に温かく寄り添い、その人が発したいであろう言葉、しかし(遠慮して)飲み込んでしまっている言葉のことを想い、「その人」が、再び自由に歌を奏でることを祈っているような、そんな温もりを感じました。
0もとこさん、返信ありがとうございます。 もとこさんの使う「観察者」という言葉は、つまり、もとこさんの批評スタイルそのもののようにも思えます。 作品の意図を読み解き、それを繊細な言葉に置き換えてゆくスタイル。 >起きてしまったこと、を、起き得たこと、と時間を遡行して言い換えようとしている(でもそれは不可能である、ということによって、限りない切なさが生まれる)というような。 このようなディティールの読み解きは、贅沢なようですが、やはり意見陳述と結びついたものとして読みたいと感じます。 ディティールを読み解き、作者の意図を社会的な文脈に位置付けて、読み手なりに意見を述べる形であればよいのに、と(贅沢にも)思わせられる言葉でした。 花緒さん、返信ありがとうございます。 >作者の意図するところとは異なる読みかもしれませんが 「作者の意図する」読み、ってなんなのでしょうね。 「異なる読みかもしれません」と注釈を添えるということは、暗黙の了解において「作者の意図する読み」というものに沿う批評が望まれるのでしょうか。 また、そもそも「作者の意図する読み」というのは存在するのでしょうか。 自分の主観に基づく価値判断にいかにして説得力をあたえるのかよりも、「作者の意図」に思いを巡らす「批評」というものがあるのなら、その有用性はどこにあるのだろう、というのも気になるところです。
0わたしはこれは前作よりは面白かったです。(あるいは、今自分が内包している問題を、眼前に突きつけられているからかも知れませんが・・・)。 献身的な娘がいる。でもある時、介護というより同居?が不可能になる。 何故ならば、どんなひとにも自己犠牲だけで生きてゆくことは不可能だからです。 私が、この詩を読んで真っ先に思い浮かべましたのは吉野弘さんの「夕焼け」なんですが。 もっとも、私自身は吉野弘さんの中のどこかにある、女性=聖母的な感覚は苦手でして、 この詩の方が些かすんなりと読めました。
0>そして、その人のまくられたセーターからこぼれる腕の静脈のひとつひとつを「ひかり」と呼べるほど、 >その人のぎこちのない笑顔に慣れていないわたしがいるからかもしれません。 からの、 >その人の、ひとすじのかがやきながらながれる時間のきっさきにこの部屋があるとするのなら、 この娘というひとのなかに、どれほどのしたたる時間をかけて、一緒に暮らすという形では親を大切にできなくなるという思いに埋もれていったのでしょう。 というこの部分がこの詩の光景的な意味合いでの核心だと考えていいと思う。 同時に >もしかするとそれは、そのひとが噤むこととなった言葉の数が、 >ささやかな日常のながれに、「緊張」という種をととのえながら落ち着いていった真昼のことかもしれない。 という理解しやすい説明から >いや、それよりも、かなでるようにくちずさんでいたはずのうたごえは、 亡くなった愛するひとにたむける、だけどその曲の名をだれもいえない、そのような。 という解釈は例えようもなくいいと思う。 僕は前半部分も呼びながら、 生死について語るのに敬語がしらじらしくていけすかないとおもっていましたが、 最後まで読んで、あ、なるほどと思いました。 中間まで読むならば娘の残酷さと読めますが、 最後まで読めば、現実の硬さがそこにあるので、 娘の冷酷さのようなものは少しも読み取れない そういう風にちゃんと書かれていると、 少なくとも僕は感じました。だから素晴らしいと思いました。 浅井さんは「作者の意図する読み」に引っかかっておられますが、 ネット上であろうがこれがコミュニケーションである以上、 どうしても作者に配慮してしまうという精神性は 尊重してもいいと思います。僕は、ですけれど。
0前半部分も呼びながら→前半部分を読みながら の誤字です。
0「その人は、亡くなるためにやってきます。」の始まりで、私は一つの物語に移入した。その移入は、作品が起点ではあるが、私の想像である物語。部屋に居る私(三浦)。そこへ案内人のような人物が、亡くなるためにやってくる人の詳細を説明する。その説明は私には心地良かった。 「ささやかな日常のながれに、「緊張」という種をととのえながら落ち着いていった真昼のことかもしれない。」この一節に、仕事から解放されてリラックスしながら本作を読んでいる私が共鳴するからだと思う。あるいは、本作が、心象風景よりも物語の構造を印象付けする文体になっているからだとも思う。物語の構造を印象付けるとは、「そのような。」で終わるフェードアウトに表れている。「そのような。」とは、案内人が語る想像の物語であり、想像の物語とは「大枠の概要」であり、はっきりとしない、そのような、構造なのではないか。しかし、それは、読む者には心地良い。なぜ、心地良いかを説明することが難しいけれども。 浅井さん、投稿有難う御座います。
0朝顔さん、霜田さん、三浦さん、返信ありがとうございました。 ご意見、今後の参考にさせていただきます ありがとうございました
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