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【選評】鬱海 自己を告白すること
鬱海のワンポイントキュレーションです。長め。 【選評】鬱海 自己を告白すること ワンポイントキュレーション みうら『たとえ偽りに終わったとしても』 https://www.breview.org/keijiban/?id=2651 選んだ理由 詩における自己告白という試みにおいて、事実の描写と詩的な描写が共存してうまく調和し、伝わってくるものが個人的に大きかったため 詩を含め、文学における自己告白で重要なことはなんであろうか。できるだけより詳細に実際に起きた事柄だけを述べることか、それともよりドラマチックになるよう脚色を加え、読み手を楽しませることか。 しかし上記のどちらの手段を取ろうと、事実を体験したときの私とそれを記すときの私は地続きではあるがおそらく乖離していると私は思う。リアルな体験はやがて過去の経験になるが、この時点で私はもう 過去の私を眺める私 になってしまっている。そして過去について書く私もまた 事実を体験したときの私からは遠ざかっている。そうなれば、あくまでも詩を書くのは過去を追体験した私であり、はからずともその当時とは異なる視点で出来事などが描写されてしまう。私と私が連続したままに分裂しているといえばよいのだろうか。 私は詩という形を取る以上、経験や告白のリアルさは必然的にぼやかされ、作者にしか本当にあったことはわからない状態になっている。もしくは作者にさえ本当にあったことそのものは過去というフィルターがかかり、わからないようになってしまっているかもしれない。 前置きが長い。 この作品においても、 「既に失われた故郷には、友人も恋人も、家族も誰もいなかった。」 という事実の描写と 「ブルースだけが必要な季節のことを、あなたも知っているでしょう。」 という詩的な描写が入り混じっている。 「最後まで私の理は破綻していますか。それでもいい。 合理による共有を求めることに疲れました。」 そしてこの作品のこの部分においての「理」と「合理による共有」とは他者と行う言語を介しての合意形成であったり、平たく言えば 他者に思いを言葉を使って伝えるということなのではないかと思った。 先ほど述べたような自己分裂は、おそらく他者に何か——自分の内部を語るときに起こると私は考えている。そのことには疲労や摩擦を伴い、「私」は疲れてしまう。おそらくそこで生まれた「表層だけの共有」の結果、作中主体はさまざまなsnsをやめたのだろう。 そのような経験のなかでも作中主体は「絶対」の存在を信じ、「あなた」とまた会う約束をする。そこが非常に印象的であった。長くてすみません。以上です。
【選評】鬱海 自己を告白すること ポイントセクション
作品データ
P V 数 : 1198.3
お気に入り数: 0
投票数 : 0
作成日時 2018-12-03
コメント日時 2018-12-16
とてもありがたい批評をいただき感謝します。詩とは知的遊戯であると定義すれば拙作は詩ではないのかもしれません。詩が知的遊戯という専門的な領域で埋没する、平たく言えば解る人に解ればいい言語芸術を受け取る感性の世界にあっては、作者の人物像など排除するべきファクターであるのかもしれません。鬱海さんが批評という手法によって知的領域を拙作に与えられていることに、感謝します。ありがとうございます。
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