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崖っぷち
生きているだけで 草をむしり虫をつぶし魚を食べる 私に生きる価値があるのか もし私に生きる価値があるなら 私に殺されたものたちは生きる価値がないのか もし私に生きる価値がないなら 私に殺されたものたちは一体何だったのか 生きる価値なんてないのか 価値なんてないのか むしられた草、つぶされた虫、 食べられた魚、死んだ人 その中の一人が私でも何もおかしくない 何も変わらない そこまで考えて でも私は生きている 崖っぷちに立ってみる 死ぬのを選べなかった 毎日崖っぷちに立っている そこで強い風が吹けば ちょんと背中を押せば 一線を越えることもできる でも偶然にも風は吹かない 背中を押す人もいない 私は生きている 私はまだ生きている
崖っぷち ポイントセクション
作品データ
P V 数 : 1205.4
お気に入り数: 0
投票数 : 0
ポイント数 : 0
作成日時 2018-11-12
コメント日時 2018-11-25
項目 | 全期間(2024/11/21現在) | 投稿後10日間 |
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叙情性 | 0 | 0 |
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※自作品にはポイントを入れられません。
- 作品に書かれた推薦文
自らが生きるために(糧を得るために)、雑草をむしり、害虫をつぶさねばならない、魚を殺さねばならない・・・その情景と、たとえば人事に配属されている人が、リストラを言い渡す役を命じられているというような情景や、下請けを「殺す」ような条件を伝えに行かなければならない社員の姿を重ねてみました。食いつぶされるように、こき使われて使い捨てにされる自身を、重ねていくこともできるかもしれません。 毎日崖っぷちに立っている、その心象は切実だけれど、自分がむしったり殺したりする虫や魚の中に、自身を見る発想との間には、少し飛躍があるようにも感じます。 殺されていく虫が、一瞬向き直って、目があったら。草を抜き取ったとき、一瞬、根っこが指に絡んで、かすかな悲鳴が聞こえたら。 生きる価値があるのか、ないのか、と論理的に問い詰めていくところから、想像力、感性の世界に一歩、足を踏み出してみたら、何が見えるだろう。そこに広がる世界を観たいと思いました。
0まりもさんコメントありがとうございます!深く考えた詩というより自分の思いを吐き出すつもりで投稿したので、このようなコメントをいただけるのかと純粋に驚き嬉しく思います。自分の考え方について改めて見つめ直したいと思いました。
0こないだ職場の牧場の牛が淘汰されまして。 高齢だったり、調子悪かったりした牛を、薬殺や食肉として出荷されていきました。 牛に生きる価値があったのか、なかったのか。 牧場としては今まで利益になったのは価値があり、これ以上は価値がなかったのでしょう。 で、牛に聞いてみたら? せいぜい匂いを嗅いできてベロ伸ばして舐めてきたり、モーと鳴いたり。 考える意味がない気がしてきます。 崖っぷちに立っていて、背を押されないなら、後ろを振りむいてほしい。 子牛がモーと鳴いているかもしれないから。 そんな事を考えてしまいました。
0羽田恭さんコメントありがとうございます! 命の価値なんて考えても意味のないことなんでしょうか…確かにそうかもしれません。何かを考えるきっかけになってくれたのであれば嬉しいです。
0糸井翼さんへ。感想と私の知ってる事を書いていきます。命に向き合っている《何度か人が通る道》作品です《命を有り難く戴きなさい》祖母の言葉です。食べる事に限らない話です。私にとって命を考える言葉です。
0思想的に目新しさが無いのが致命的だなぁと。だいたいこういうの誰でも一度二度は思うじゃん。 詩は思想の伝達には向かないという立場にいます。伝達は散文なりなんなりのほうが恙無くできるわけで、わざわざ詩という形式でやる必要はない。 だからそれでも思想要素を盛り込んだ詩をやりたいならばそれはあくまでスパイスとして控えておいて、やはり要はテキストとしての詩文としての面白さにするしかない。その面白さはこの詩には無いから、本来サブにするべき思想が真ん前に出てきてしまいうーんってさせてしまっているのかなと。
0おはようございます。書かれていることは理解できます。詩というよりは考えていることの言語化という印象ですが。 《その中の一人が私でも何もおかしくない/何も変わらない》というところで、「私」を無名化させているようですが、どんなもんでしょうね。どれも命である点では違いないのだけど、一人の人間である「私」と一本の「草」、一匹の「虫」は現象としてはやっぱり違うわけで、いっしょくたにはできないんじゃないか。一人の人間である「私」が生きていて、その中で一本の「草」なり、一匹の「虫」なりの命について考え、その過程を通して、命の価値について考えるひとりの「私」という構図で生きることの価値を見つめてみれば、それを核に別の表現が可能になってくるように思います。
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