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移動する発疹
私の友人は、ついこの間、歩道に乗り上げた軽自動車に轢き殺されました。あまりに突然のことでした。 その運転手いわく、「信号無視してきたトラックを避けようとして轢いてしまった・不慮の事故」らしいのです。 信号無視をしたトラックの運転手は言いました、「長年の間、会社の無理なノルマがあった・それが最近はさらに加速していた・連日の不眠不休でついに起こしてしまった・不慮の事故」だとか。 さらに運送会社は言いました、「契約しているネット通販サイトからの要請が多すぎた・最近はコスト高の──── ────って、もういいでしょう? 『悪いのは誰なのか?』追及するほど、あの子との思い出が悪魔に食べられて、思い出を消化して出来た排泄物であの子の魂は汚されていく。 責任が無限に分散していく。「あの子の未来が突然奪われた」という事実だけを置き去りにして。 哀しみが無限に分散していく。悼む人に、移動する発疹を遺して。
移動する発疹 ポイントセクション
作品データ
P V 数 : 1014.4
お気に入り数: 0
投票数 : 0
ポイント数 : 0
作成日時 2018-11-04
コメント日時 2018-11-06
項目 | 全期間(2024/11/21現在) | 投稿後10日間 |
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叙情性 | 0 | 0 |
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※自作品にはポイントを入れられません。
- 作品に書かれた推薦文
二次情報、三次情報から感受して出される情緒の表現は難しいと思った。何が難しいかというと、物事は視点を変えれば視点の数だけ、物事から受ける情報には差異がある。二次情報、三次情報にも異なる視点と情報がある。差異がある情報が溢れていることは健全だといえる。逆に情報が単眼視なもの。その悪癖は、思い込みと洗脳性を孕んだ良識が害悪となるケース。それを補助し更に加速される要因に情緒がある。詩文とは情緒から創作されることが多分にあって、先に述べたケースを含有する作品になりやすい表現方法だと私は思っていて、本作はそのケースになるかならないかの際どいところにある内容だと思う。私は本作を一次情報について書かれた作品だと受けているので、メタとしてある良識が害悪になっているとは思っていない。もう一点コメントしたい。二次情報、三次情報へ示した情緒、「哀しみが無限に分散していく。」の語りが気になった。個人的なことではあるが私は二次三次の情報に対しては冷徹さのフィルターを心がけていて、情報が拡散し紋切型になってゆくのは、情緒が要因として多分にあると考えている。つまり、人の情緒が利用されてしまうこと。当事者にある哀しみが利用されること。先の一節はそれを意図されていると読んだが、やや感傷過ぎて、口説過ぎる感もある。長くなってしまったが、本作が着目し、書かれたテーマは面白い。今後、虚構の展開を更に巧みに書き込まれるとよいのではなかろうか。
0三浦さんの中々に素晴らしい論評に便乗して、しかし賛辞を。確かにこの作品においては二次情報、三次情報の扱い方が単線的でこの詩の「目的」のために利用されている印象がする。三浦氏の指摘する通り、プライベートで生きていく上においては、二次、三次情報は「冷徹さ」や「看過」といったフィルターを通して見る姿勢が必要になってくると思う。だがこの作品の狙いは別にあり、注目すべきは、むしろ二次情報、三次情報を単眼的にしか見られないほど、話者が人生に、暮らしに、世界に倦んでいるという点である。だから「哀しみが無限に分散していく。」は亡くなった友人にではなく、もちろん轢いてしまった運転手にでもなく、ましてやトラックの運転手にでもない、世界の諸々の事象に倦んだ自分自身の引き裂かれる「気持ち」に向けられたと個人的には解釈した。そう読み解くとこの詩は世界や社会へ向けた、ちょっとした倦怠、気怠さ、物憂い気持ちを描き切っていてなかなかの良作なのではないかと思う。読み違えは大いにあるかもしれないが、自作である「地球にさよならを」に通じるものも感じてすんなりと読めました。
0みうら さま 本当に詳しく、素晴らしい論評をありがとうございます。今回の詩に限らず、拙作「Happy Colors」でもそうだったのですが、私は虚構の展開を書こうとすると冗長になったりくどくなったりしがちです。今回も、本来は四次情報くらいまで書こうかと思っていたのを、カットしてみました。「哀しみが無限に~」の節は、二次情報・三次情報と、感情を向ける情報の密度が減っていくことで、心の中に生きる「あの子」の魂の純度のようなものが喪われていくことを描きたかったのです。もちろん、現代社会において、手に入れられる情報は多い方が良いのですが、その中に埋もれていってしまうものがあるのではないかということが書きたかったのです、と弁明をしておきます、、、。それを表せる技術力が圧倒的に不足しておりました。精進します。 stereotype2085 さま 精読と、鋭いコメント、ありがとうございます。確かに、現代社会では情報の利用において、冷徹な眼をもって取捨選択を行うことが必要不可欠であります。しかし、その中に捨ててはいけないもの、純粋性が混ざっていくことがあるのではないかと思います。stereotype2085さんの言葉を借りれば、そこに今を生きる者たちの「世界や社会へ向けた、ちょっとした倦怠、気怠さ、物憂い気持ち」があると思います。
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