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自分語り
春 幼稚 自虐自傷 止まらない 夏 地獄 砲弾落下 延々と 自らは劣り自らは幼く自らは成長せず自らは役立たず自らは何もできず自らは学べず よってこの世からいなくなるべきで 角に額 机に顔面 棚に手首 壁に後頭部 柱に側頭部 首に拳 顔面に掌底 頭に両拳 体に打ち付ける 体が勝手にそう動く 「ありえないバカか」と皆が言う よってこの世からいなくなるべきで “あぁぁぁぁああ、ええええぇぇぇえ、……あああぁあぁっぁあああ……” 声が出ない 通じない声 日本語にならない日本語 それが吃音とは誰も言わない 「ちゃんと話せバカ」と皆が言う よってこの世からいなくなるべきで ああまただ ああまたか 自分と他人の嘲り声が響く 失敗だ すべてが台無しになる 「もう早く死ね」と皆が笑う もう終わりだ よってこの世からいなくなるべきだ 俺は 秋 彼岸 冷え鎮まり おわりゆく 冬 白く 向こうへゆける 神渡り 30年 ようやく聞こえた 撃ち方止め 妄想と感情の さまよい続けた山はかくも小さかった 一切皆苦全ては苦しい 諸行無常全てはなくなる 諸法無我全ては自分の物ではない それに気づかず それがわからず それを知らず 涅槃寂静 そうと知る 耳すます 釈迦の声が 降り積もる 真夏にも 消えることなく 万年雪 掌合わし 冬を行く 冬も夏 姿勢正し 夏も冬 呼吸鎮め 合掌し 愚も賢 賢も愚 渡り行きかう そうと知り 合掌す 『苦が生ずれば苦が生じたと見、苦が滅すれば苦が滅したと見て、 惑わず、疑わず、他に依る所がない事がない。ここに智が生ずる』 今はこのようにして 白黒の牛の世話をする ただ世話をする
自分語り ポイントセクション
作品データ
P V 数 : 1088.6
お気に入り数: 0
投票数 : 0
ポイント数 : 0
作成日時 2018-09-13
コメント日時 2018-09-17
項目 | 全期間(2024/11/21現在) | 投稿後10日間 |
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叙情性 | 0 | 0 |
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エンタメ | 0 | 0 |
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構成 | 0 | 0 |
総合ポイント | 0 | 0 |
平均値 | 中央値 | |
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叙情性 | 0 | 0 |
前衛性 | 0 | 0 |
可読性 | 0 | 0 |
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※自作品にはポイントを入れられません。
- 作品に書かれた推薦文
あ、しまった。 『他に依る所がない事がない』ではなく、『他に依る所がない』です。 阿含経相応部経典、漢訳では雑阿含経の言葉です。
0春夏秋冬への短い言及があり、平明な言葉での自己否定、分析がある。背後には仏教的価値観があり、最終節では「牛の世話をする」と日常に戻る。最後まで面白く読ませていただきました。
0stereotype2085 さん、こんにちは。 最近、自分の中にある暴力性について書いた作品が見受けられますが、では自分の暴力性は何なのかと考えてみると、過去の自虐的妄想が自分の最大の暴力性でした。 マゾヒズム的な人間のようです。 そしてそれが何に行き着いたのか、というと原始仏教にたどり着きました。 あの苦しみは、あの暴力は、ただの妄想と執着と感情という、虚妄からなっていたのです。 自分が知る限り、唯一それを釈迦が示していました。 今は釈迦の言説をもって世の中を渡るようになっています。 そういったことを詩にしました。 牛の世話をする日常を、安定した精神をもって送っております。
0意外にも中央揃えの詩を見るのこれがはじめてかも
0ああ、矢張り仏教的な印象で、レスの所にも「阿含経相応部経典」と出て来ました。何か高僧の自叙伝のようにも思え、高い見地から自己滅却からの深い復活を所望して居る様なそんな感じがしました。或いはイエスキリストの復活。でも自己破滅願望は高僧とは全然関係が無いのかも知れません。
0渡辺八畳@祝儀敷さん、こんにちは。 そういえばそうですね。 たまにあるんですけど、ビーレビ初ですね。
0エイクピアさん、こんにちは。 これ自分の半生です。 妄想に囚われ苦しんでいたのから、解放されたという自分語りです。 なので高僧やキリストになぞらえるのは、少々意外でした。
0「自爆それと」のコメント欄で自分語りに関して書いていましたね。以前は自爆していたが、今は穏やかに暮らしているということで、ある種の成功例だから高僧のイメージにつながっているのかもしれません。そういう成功例って、昔の高僧の話くらいしか知りませんから。多分。
0こちら、中央揃いなのですね。スマホからだと分かりませんでした。後ほどPCで見てみたいです。 「よってこの世からいなくなるべきだ」 という究極の答えにぶち当たりながら、 「今はこのようにして 白黒の牛の世話をする ただ世話をする」 に至る。この最後の行の「白黒の牛」を「ただ世話をする」、リフレインもすごく効果的に胸に響いてきました。白と黒を纏った牛を世話する、それは乳にも繋がり、生へも繋がり、それを「ただ世話をする」。とてもゆったりとした時間が静かに流れていくのを感じます。これを涅槃寂静、というのでしょうか…と宗教にあまり詳しくないのですが、なんとなくイメージすることができました。 最後がビシッと決まっていて、上手いなぁと思いました。
0IHクッキングヒーター(2.5kW) さん、こんにちは。 そう言われると、成功例はそこまで聞かないですね。 キリスト教会に通っていた事があるのですが、その時なぜ信仰に至ったのかを語る「信仰の証」というのを信者たちが語るのをよく聞いてはいました。 一種の自分語りで成功例と言えますが。 ただ、教会から離れるとなかなかないですね。 杜 琴乃さん、こんにちは。 夏の句と秋の句の間が中央揃えになっております。 「俺は」の部分を強調したかったので。 涅槃寂静という悟りの境地なのかはわかりませんが、(正直たまにやたら惑うので違う気も)安定して牛を世話しています。 それを示せたのがよかったようです。
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