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ことば

ことばという幻想

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花骸

大人用おむつの中で

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おしゃべりな鳥は ふたり なにとなく並び 北へ進む 白抜きのV字に 置いていかれたことを 気にもせず 灰色の春を過ぎゆく 渡り鳥は どこからか来て どこへか帰る 彼らは ここらじゃお客さま いずれ群れて飛び立つよそ者 わたしもよそ者 ただし気儘な一人旅 どこから歩き始めたかは忘れたが いつかどこかへかえるだろう


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作品データ

コメント数 : 9
P V 数 : 947.6
お気に入り数: 0
投票数   : 0
ポイント数 : 0

作成日時 2018-04-17
コメント日時 2018-04-21
項目全期間(2025/04/16現在)投稿後10日間
叙情性00
前衛性00
可読性00
エンタメ00
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閲覧指数:947.6
2025/04/16 08時17分39秒現在
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    作品に書かれた推薦文

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コメント数(9)
李沙英
(2018-04-17)

こんばんはよろしくおねがいします。 歌詞のようですね、歌っておられる感じ 鳥のどちらかか先様か 懐かしいフォークぽいメロディーが似合いそうな 気儘さを歌いながらもどこか寂し気というか 哀愁みたいなものを感じました 最後の二行 どこから歩き始めたかは忘れたが いつかどこかへかえるだろう 寂し気にも映りますがニヒルさもあって とくにかっこいい 旅人臭さ滲み出る一遍だと思いました。

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日下ゆうみ
(2018-04-18)

冒頭で文章のリズムが四拍で読むことが出来、比較的平易な言葉が使われている点に歌に似た感じを覚えました。また題材としても口語詩に似合うような日常的景観を取り上げていて、よまれている感情としても、小さな渡り鳥がここにおいては異質な存在として扱われているという部分と自分のよそ者の感覚とを結びつけている点は理解できるように思いました。 私が一つ考えた点は、「どこから歩き始めたかは忘れたが/いつかどこかへかえるだろう」という最後の一連です。ここで、語り手は自身の現在地点として「いつかどこかへかえるだろう」という期待を持とうとしていて、私もその点には共感します。しかし渡り鳥が生物の習慣として帰る場所を持っている為に、「よそ者」となっても、或いは「置いていかれた」としても気にする必要はないのとは異なって、私が「どこかへかえるだろう」という期待は具体的な根拠がないようであり、どこかその帰還への期待には無責任な感覚が含まれているようにも思えます。もし語り手が「よそ者」ということで現実に排斥されているのだとしたら、語り手がこのような甘い認識でいてはいけないのではないかと、私は考えました。 しかし、むしろ実のところ、語り手は実際に排斥されているわけではなく、この表現において「よそ者」とは単に馴染めないという感覚であって、実際に一人旅は気儘であり、それは語り手の深刻な問題ではないということなのかもしれません。しかし今度はそうすると、そうした気儘な一人旅の感覚を示すことでこの詩において何を目指そうとされたのかという疑問が浮かび(つまり、それでは語り手にとっての問題がどこにあるのかという疑問が浮かんで)、一人でいることの決意なのか或いは他の意味なのか等々考えてみて、少々困惑してしまいました。 何か読み違えてしまっている点があれば申し訳ありません。そうした読み違えなどあれば是非ご指摘ください。

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R
(2018-04-18)

李沙英さん、コメントありがとうございます。  一連目から最後の二行へ着地するための詩だったので、気に入って頂けて嬉しいです。  もし、歌うなら明るいメロディが良いな思いますが、どうでしょう……あんまり暗いと死ぬ場所を探し彷徨う人になっちゃいそうで(笑)

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R
(2018-04-18)

花緒さん、コメントありがとうございます。  私は短歌や俳句、川柳で遊んでから自由詩に入ったので、その影響が残っているのでしょうかね。時々無償に、短くてリズムのある詩に触れたくなります。  実は、この作品は昨年の今時期に書き、今月改めて推敲したものでして……じっくり練り直したかいがあった、と思っておこうかなと。ありがとうございました。

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R
(2018-04-19)

日下ゆうみさん、コメントありがとうございます。 色々考えていたら長くなってしまいました。読み違えるというより、前提の常識が離れている気がします。価値観の相違ってやつでしょうか……。  まず、鳥は白鳥です(読むには別の鳥でも問題はなさそうですが)。そして「ここ」は私の地元であり、白鳥にとっては旅の中継地点です。春、南から来た白鳥は「ここ」を経由し更に北へ進みます。ところで、白鳥の「帰る」先は、どこでしょうかね。人間がスタート地点を決めれば(発信器を付けるとか)、「ここ」のような土地の人も「白鳥が帰ってきた」といいそうです。  でも、もしかしたら、猫が日向を求めて移動するように、私が「旅」と思う範囲全てが「白鳥さん家」かもしれない。そうなら、「帰る」という表現を白鳥に謝罪しなければならないけれど、白鳥語は分からないので、多くの人と同じように勝手に旅行客と決めつけ、表現するに至りました。  鳥の話は、これくらいにしておいて……  問題は「いつかどこかへかえるだろう」ですよね。  ここはあえて平仮名……漢字にするなら、帰る、還る。  家(実家よりは新しく築く自分の家)に帰る、土に還る。いつになるのか、どこになるのかは分からないけれど、「かえる」という事だけは分かっている、確実な予定です。私としては当たり前過ぎて、期待も決意もありません。生まれた土地に帰るのか、自らが定めた家に帰るのか、魂のあった所にかえるのか、分子や原子に還るのか……等々、個人的に考えてはいますけれど……。  なので、申し訳ないのですが、「期待」を前提にされると話が噛み合わなくなってしまいます。興味深い視点ではありますが、私はその立場の読み方を説明出来ません。  次に「よそ者」については「単に馴染めないという感覚」と捉えて頂ければと思いますが、もっともっと軽く考えた方がより私の感覚と近くなる気がします。多分。  ちょっと話が逸れますが、「馴染めない」と「排斥されている」の差がイマイチ分かりませんでした。比較すると前者は楽観的、後者は悲観的。とか考えたのですが、イメージがうまく結べず……。現実の人は、密に繋がっているように見せかける事はよくあるし、隔絶しているように見えてゆるく繋がっていたりもします。私は変わり者で浮いている方ですが、何故自分が浮いてしまうのか、何故それが良くないと言われるのか……そもそも、馴染むとはどのような感覚か、浮いているとは私のどの部分を指すのか、が未だに分かりません。なので、「このような甘い認識」とは何なのか……お手上げです。  最後に「何を目指そうと」したのか、「語り手にとっての問題がどこにあるのか」については、ここまでの説明で解決出来ますでしょうか? 申し訳ないのですが、私には、もう、どう答えて良いやら……。

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三浦果実
(2018-04-19)

投稿ありがとうございます。タイトルがHOMEとあって、よそ者を渡り鳥の情景描写として表されており、皮肉な感が一読してありました。私は外れ者だ、嫌われ者だと常日頃から発信しているので、よく自分を卑下している、自虐的だと諭されます。それはきっと皮肉屋としての印象が残ってしまうからなのかもしれません。私自身は自由人として孤高(笑)なつもりでありアウェイで戦っているつもりなんです。その胸のうちは本作で描かれていらっしゃる望郷の哀しみ。 読んで良かったです。

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R
(2018-04-19)

三浦さん、コメントありがとうございます。 皮肉ですか……よく言われますが自覚がなくて……なんとも言い難いです。  私、三浦さんの嫌われ者発言を見かける度、人に嫌われたがっているのかな、と思っていました(苦笑) アウェイが何を指すのか気になりますが、私も自由でありたいと……もっというと、誰もが自由であればいいのに、と思っています。  しかし、自由って誤解されがちな言葉ですよね。私はよそ者らしさをもって、現地の人と一時でも楽しみを共有したいので、土人の文化は知る必要がないと叫び電車の優先席に用を足す人のような、私にとって不愉快な同族(よそ者)となら喜んで戦うかもしれません。  ともかく、おうちにつくまでが遠足、らしいですから。哀しさも寂しさも、楽しい思い出の一端を担うと信じて……。

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藤 一紀
(2018-04-19)

こんばんは。語数も含めて、音に気を配って言葉を置いているなあと思いました。 それから、 《彼らは ここらじゃお客さま いずれ群れて飛び立つよそ者 わたしもよそ者 ただし気儘な一人旅》 の部分なのですが、《わたしも》のところに、旅する者同士の親近感のようなものを感じました。 それぞれの生きる場所ですれ違う短い時、心のなかで(じゃあな)とつぶやきかけるような。 島崎藤村の「千曲川旅情の歌」の(一)、第二連に、 《旅人の群はいくつか/畠中の道を急ぎぬ》という詩句があります。ここには悲しみや寂しさのようなものもありながら、同時に、やはり同じ旅の途中にある者に対しての親しみに似た視線もあったのではと、この作品を読んで思いました。 同じ生のなかでつかの間すれ違う者に感じる幾らかの寂しさをともなった親しみととれば(拡大し過ぎかもしれませんが)、種を超えた連帯感のようにも読めますね。

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(2018-04-21)

藤一紀さん、コメントありがとうございます。  ご指摘の「わたしも」は親近感そのものと言っても良いくらい、明るい言葉のつもりです、けど、続く「よそ者」の印象が悪いんですかね。ひらがなにしたのになぁ……。  極端な話、日本人はみんな、アフリカからはるばる旅をしてきた「よそ者」の子供たちといえるのでは、と思ったりもするんです。大雑把過ぎますか(笑) よそ者同士楽しくやろうよ、という感覚が人間以外にも向くことを「種を超えた連帯感」と呼ぶなら……。 「それぞれの生きる場所ですれ違う短い時、心のなかで(じゃあな)とつぶやきかけるような。」  まさしく、そんな感じです! そして、私は最終行の後に同意を求める言葉を置きたかったくらいで……なんというか、私の距離感がオカシイのかしら。 それから、 「千曲川旅情の歌」ググってみました(ネットって便利)。 《旅人の群はいくつか/畠中の道を急ぎぬ》  旅人の群に自分に通じる何かを重ねているようで、そこには親しみも含んでいるかもしれませんね。これを前提に三連を読むと、旅人の群を見かける前までの寂しさとは、違った……ずっと一人でいたら感じなかったであろう寂しさがあるように思えました。

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