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こうふく
ぼくの腕は半分 映る水にさしいれてある 心象という湿潤のなかで 月のようにやわらかな母体を見うしなって あらわれては消える詩人たちのお墓 言うことが できなくなっていく 雨期のように つめたい、台所で 噛みくだいた、あまい梨とかあまい、巨峰は 樋をつたう 遮る水が演じる えいえんに ゆれる草花にアクセスして ぼくというぼくが 簡略化されていくのがきもちよかった どこに到達しようと 許されることはないのに これはけっして 見る夢のなかではないのに ねつれつに 散らばるひかりの視線を感じる さしいれた腕がぼくの 映る水をわずかに動揺させて えがく という行為のさなか 風景という風景が どこまでも 遠のいていく
こうふく ポイントセクション
作品データ
P V 数 : 1145.8
お気に入り数: 1
投票数 : 0
ポイント数 : 11
作成日時 2018-03-05
コメント日時 2018-03-07
項目 | 全期間(2024/11/21現在) | 投稿後10日間 |
---|---|---|
叙情性 | 2 | 0 |
前衛性 | 1 | 0 |
可読性 | 3 | 0 |
エンタメ | 1 | 0 |
技巧 | 4 | 0 |
音韻 | 0 | 0 |
構成 | 0 | 0 |
総合ポイント | 11 | 0 |
平均値 | 中央値 | |
---|---|---|
叙情性 | 2 | 2 |
前衛性 | 1 | 1 |
可読性 | 3 | 3 |
エンタメ | 1 | 1 |
技巧 | 4 | 4 |
音韻 | 0 | 0 |
構成 | 0 | 0 |
総合 | 11 | 11 |
※自作品にはポイントを入れられません。
- 作品に書かれた推薦文
あやめさん投稿ありがとうございます。 しなやかさと切なさが溢れておりこれぞポエジーと感動する一作品だと思います。 ご本人は不本意に思われる評かもしれませんが、本作は今の現代詩で最高に好評を得るお手本として最もふさわしい作品だと思います。今、人気を得たい作品を自分も書いてみたいと思われる参加者には是非読んで欲しいと思います。私自身は現代詩界隈でこれは最高だと評される作品を一度は書いてみたいと思っております。なぜならば、私は独りよがりな作品なんて書いてもよいが人前に出すことは最悪であるという、羞恥心があるからです。つまり、私は、本作が羨ましいです。太宰治が芥川に嫉妬したぐらいに羨ましいです。 今後ともよろしくお願いします。
0三浦さん 好意的に読んでくれてありがとう。感謝ですm(__)m いかいかさん 書くということを日常に取り込んだときから、その人はもう人の世にはいられないのではないか、と最近考えていて、この詩を書きました。人の世にいられないというと、人を越えたなにか崇高なものかというとそうではなくて だからナルキッソスとか神話とかまるで考えていなくて、水や水に映るものを書いたのは、あらゆる物事との隔たりを描きたかったからかもしれない。水をのぞきつづけることや、またそれを続けたことがどう作用するかはまるで、考えていなかったから、だめだな。読んでくれてありがとうm(__)m
0「ぼくの腕は半分 映る水にさしいれてある」という一文において、まずは主題的な感覚がとても示されているように思いました。「腕」は頭ほどには本体としての性格を持ってはいませんが、しかしそのように本体ではないながらも、「右腕」という表現によって示されるように、半ば本体としての存在を獲得しているものでもあると思います。そしてそれが半分だけ水に入っていて、しかもその水には不安定にもう一人の自分がそこに映じているのでもあり、そうした、自分ではないような不安定な何かが既存してしまっているということを語り手は冒頭において示しているように感じます。そして、「やわらかな母体を見うしなって」「ゆれる草花にアクセスして」「風景という風景」とあるように、この語り手はそのように外部に見えているものに自分の感覚や在処のようなものを認めようとしながら、しかし外部化による存在不安にも晒されていることを「わずかに動揺させて」といった部分において感じているようにも見えます。 また、こうした感覚は構成においても表現されていて、一文ずつ空けて語っていくことによって、そしてひらがなに開いていくことによって、意味が文章上において充実するということがなく、それによって読者は何か満たされない感覚を語り手と共に体験することになるように感じました。 ナルキッソスの物語については、この物語では彼は投影された自分を他者として惚れてしまいますが、しかしそのように確かな存在として投影された自分を感じるということは、この詩とはむしろ相反しているのではないかと、私は感じました。私としては、イソップ童話のうちの一つとして「よくばりな犬」などの題で知られている物語が、この詩における感覚に近いものがあり得るのかもしれないと連想しました。「よくばりな犬」は、他者として感じていた川の中の自分が、むしろ自分そのものであったことが分かるという話であり、もちろん教訓は別にあるのですが、ここにも自他の境界の揺れの感覚があり得るのかもしれないと考えました。 しかし、主題的な感覚が以上のようなものだったとした場合、確かにこの詩ではその感覚が水という対象を通してとてもよく表されていると感じたのですが、しかしそれは私たちにとって現在的な感覚なのだろうかと、軽い疑問を感じました。例えば「映る水」「湿潤」「ゆれる草花」などの表現からは森の奥にある泉としての水を思い浮かべたのですが、しかしそのような水の鏡面は現代では見る機会が少なく、その意味ではこの詩の感覚もどこかで私自身の感覚とどこかずれているように思いました。映じる対象を考えることは、可能性の一つとしてあるのかもしれません。
0Rixia_7oceansさん 丁寧に読んでくれてありがとうm(__)m たしかに森の奥や、人里から離れた風景をイメージさせるような言葉を選んでいるかもしれない、それは、わたしが普段、暮らしの中から得た風景や感情を(偽ることなく)詩にしているのではなく、ただただ詩を書きたくて詩を書いてしまっているからなのだと思います。次はもう少し、人里に近づいて詩を書いてみようと思います。 Rixia_7oceansさんのコメントからは得ることが多いです。あなたのように人の詩を深く、やさしく読める人にわたしは憧れます。
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