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夜のやさしさ
思考の過程そのものを表すということの困難、みたいなことを考えた。この作品は「考える」ということの過程そのものの表現の試みであると、素直に読めば読める。けれどこういう作品を見るたび僕は思うのだ。それはそのじつ、恣意的に再構成されたものなのではないかと。偶然的な飛躍のようなひらめきの背後にも、その発生を全体のバランスを考え巧妙に配置せんとする作者の手を、思ってしまう。 しかしそもそも、作者はそう読まれることすらお見通しなのだ。"もう深夜2時だ。明日は決まった時間に起きねばならない。仕事があるからだ。まだだ。まだ大丈夫だ。"といったまどろっこしい書き方にはあたかも、読み手がそんな不信感を抱くだろうことを見越しつつそれを楽しんでいるかのような趣がある、そう思うのは僕だけだろうか?たんなる「考えることを考える」というメタ構造を超えた「考えることを考えることを、読み手がどう考えるか」までをも編み込んだその語り口に、若干苛立ちを感じつつも(苦笑)巧い!と思った。 そんなこの作品はその後半で、ゾッとする認識を突き付けてくる。 "このもう一度見直すというのが案外楽しいのだ。自分が書いた作品を自画自賛するのだ。これが思ったよりも楽しい。だから人は作品を作るのかもしれない。自分で自分を褒めてあげるために。ああ、ついに答えが出た! 私が……僕が……どっちか忘れたがそんなことはどうでもいい。なんだったかな。無意味に時間を費やして考え込んでいるのは出来あがった作品を眺めるためだ。そうだ、画家が自分の書いた絵を眺めるように、詩人は自分の書いた詩を眺める。そして悦にひたる。頑張ったと自分を褒める。ようし、ようやく終わりそうだぞ。もうこの詩は終わりだ。誰が何といようと……誰も何も言うはずがないが。" まるで自分がせせら笑われている気がした。この作品を読んだ折り、ちょうど僕は作品を書き終えたばかりだったのだけど、それこそ語り手にその執筆からご満悦(笑)までの過程の一部始終を覗かれていたかのような薄ら寒さを感じて、身震いしそうになった。そのくらいこの箇所は、自己満足ということの滑稽さを、無駄なくかつ余すところなく描いているように思う。 滑稽と言ったけれど、そうは言ってもアマチュア詩人たる僕はこれからも、そのような形で書いていくほかはないのだ。 あるいはプロアマ問わず、そのじつすべての表現者に当てはまることなのかもしれない。どれだけ「届けたい」という気持ちが強かったとしても、洪水のごときリアクションが押し寄せてくるとしても、最初の最初に自作を読むのが自分自身であることに変わりはないことを思えば。 だとするなら、僕は開き直るべきなのだ。自己満足でナニが悪い!と。 詩人として生きていくとは、自己満足して生きるという決意表明をし続けることなのかもしれない、とすら思う。詩は絵画よりもより内面的で、もっと言えばセンチメンタルな要素が強いものだから(まさに僕はそういう詩をこそ書きたいと思ってるものだから)、そもそもが露出症的で、とてもじゃないけれど堂々と、皆の称賛を集めるのが当然であるかのように白日の下に誇るものではないのだ。 吹っ切れた。 夜のやさしさと友達になれたらな。
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夜のやさしさ ポイントセクション
作品データ
P V 数 : 233.0
お気に入り数: 0
投票数 : 0
作成日時 2024-12-16
コメント日時 2024-12-16