別枠表示
ハレーションミュート
残すところ私に必要なのは言葉だけだ 私が胸元で持て余しているこのばらばらな感受性は、 言葉に繋げられるのを待っている 真冬の渋谷の夜で私たちは 朝を待っていた 世界のどこかでたった今、生まれることを許されたばかりの未熟な涙が 都会の冷気を帯びて凍る 流れて、溢れて、 止まりそうにないなら やがて雪崩になる タイムラインに並ぶ言葉たちのその意味だけを飲み込んで 残された無内容な記号の連続を巻き込み、 雪崩はそれらをひと塊にまとめて過去にしていく 誰のもとにも辿り着くことがない不確かな「自分」の所在を 無責任な憎しみの中に探し続ける人間たちが好む世界のひと場面だ 惑星、そのままの意味においての地球の端と端を結べば、綺麗な円形を描くなら その不穏な仮想世界の端と端を結べば、 その糸は 何をかたどるのだろう 夜の此岸と朝の彼岸のあいだで行きつ戻りつする彼らは 巣に戻る道を忘れた獣たちのようだった 私はあくまで安全な真冬の踊り場にいて君がそこから降りてくるのを待っていた 解かれない嗜虐者たちの言葉の包囲網に君が絡め取られて、 元の形が分からなくなるまで踏み散らされて、 暴走する猜疑心の私法に裁かれた君の尊厳がたらい回しにされる光景を私は、 黙って眺めていることしかできなかった 非常口の重い扉を引いて私たちは正しい冬色の夜にくるまれた街に出た 東京の初雪が今年も夜を漂い、 街にただ酔う人間たちの弛みない営みを白く染め抜いていく 年巡りがひとつ過ぎて、三月の朝を暖める初春の風に路傍の雪がやがて消えてなくなると、 私たちが出会ってから四度目の春がくる 今はまだ悴んでいない君の親指がスマートフォンの側面にある電源ボタンに触れる 見渡すかぎり私以外誰もいなかったはずの精神の荒野で、 北の空に煌々と光る赤い星として私たちを繋げた、その小さな端末 君がソーシャルネットワークの中にだけ打ち明けることができた本音の行間に忍ばされていた核心に、 私は何とかして気づくべきだった 君の涙を蔑ろにしてきたツケがまわってくることが怖かったのは 私が私のためだけに使ってきた多くの強がりが、 君が私のためだけに堪えてきた弱音の巻き添えになって容易く崩れていく姿を受け止めきれそうになくて、 一度でも君の手を離そうとしたことを、 ずっと忘れようとしていたからだ 君があの作りものの世界から降りてきたとき、 固く軋む鉄製の階段のちょうど下から三段目で君が躓いて、 前のめりに私の体へ覆い被さった 狼狽えた私は、背後に聳えていた踊り場の冷えたコンクリートの壁に背中を強く打ち付け、 背骨に大きな菊花紋章柄の青痣を開花させてしまった 強烈な痛みに顔をしかめながら けれど私は、 君に渡そうとした涙を握りしめた右手をぐいっと引き戻したのだ 君が、それまで長いあいだ引き取り手のいなかったその未熟な涙を受け止めてくれる誰かを探して、 あの不穏な世界へ踏み入れたことを そして、その誰かを見つけそこねて降りてきたことを 知っていたからだ 倒れた私の上にまたがった君の胸中には、その涙がまだ残っていたはずだ 君の魂の中に、人二人分の涙を溜めておけるだけの空のストレージは、 その時既にもう残っていなかったはずだ 黒く重い非常口の扉が遠くに霞み、 雪は次第に降り方を強めていった 雨傘に反射するネオンサインの狂った露光は 肉眼で見えるものだけを曝し、 瞼の裏だけが頑なに赤かった 雪を「雪」と名付けたのは誰だろうか 何故「雪」でなくてはならなかったのか 「白色降下物質」や「冬爆弾」ではなく、「雪」であった理由 そもそも言葉によって名付けられる必要があったのか 言葉で言い表せられないものは存在していないとみなされる世界、つまり 言葉ばかりに頼りきった世界の、果てしなきディスコミュニケーションにうんざりして私たちは、 長ったらしいテキストメッセージではなく、 百文字の代わりとしてひとつずつのキスを交換した 夜明け前の青山通りを歩く夢破れた背中たちに、 彩り豊かな街のグラフィティを反射させる初雪が降り積もっていく お洒落なオフィスビルのような渋谷警察署の前を俯きながら立ち去る人々が、 東へ消えていく 資本主義の基本原則に立ち向かった者と、身を任せた者、 ー「最後に笑うのはどちらだ?」ー 冷風が吹き抜ける宮下公園の青いベンチに腰掛けた私たちの目の前で、 酔っ払いながら抱き合う若い男女が足並みを揃えた千鳥足で踊る光景は、 さながら、真冬のサーカス 冷風は運ぶ雪の白をその二人の体に塗りたくりながら、 道玄坂の方向へ消えていった 私たちは混濁した頭で、それを見ていた 相変わらず下手くそな君のキスの余韻が唇をまだほんのり温めていて、 回線を切ってしまえば全てが無かったことにできる時代は、 触れられないものを死んでいるものとみなす だからこうして愛情は、二つの肉体の接触を介して生き返ろうとする ふらふらと公園を後にした二人が捕まえた個人タクシーは、 松濤にある男の自宅の方向へ消えていった 後部座席で男の胸の中にすっぽりと抱きよせられながら頬を紅潮させる彼女は、 ー「最後に笑うのはどちらだ?」ー そんな問いに一生悩まされることなく生きていくのだろうか 出会いの引力と孤独の重さは、幾つになっても変わらないのだろうか 人生の残り時間から逆算して日々の暮らしを組み立てて、 費用対効果と利益配分率を自分の愛情の鼻っ柱に突きつけて、 それを黙らせることができるような大人には、 私たちはなれなかった 長すぎる孤独な人生の採算を取れるぐらいの愛が欲しかったのか、 愛することで採算を取れるぐらいの人生で満足しようとしていただけだったのか 政財界と国家権力が織りなす巨大な競争経済の山影に怯えて、 ハリのある若い柔肌の内側にずっと燻っていた私たちの恋は、 宮下公園にいたあの二人が無節操な損得勘定だけで上り詰めた深い愛よりも遥かに低い目線で、 世界と対峙することを私たちに強いる 行政書類の枚数以外の単位で数える愛情の存在を証明しようとして、 私のお腹に宿らせた君との子供が生まれてくるころには、 「愛」という言葉の定義はまるで変わり果てた姿で、 私たちを見つめてくるかもしれない 三千年後の地球を生きる私たちの子孫は 命を何という単位で数えるのだろう 絶望の国のこんなにもありふれた夜の淵で、 幸せそうに笑いあう若者たちの狂騒が最も似合うこの街で、 柄にもなくそんな馬鹿げた未来予想 (あるいは脈絡のない誇大妄想) を恥ずかしげもなく披露してしまう私に君は小さく噴き出した ばらばらに割れた東京の夜を縫い繋いで歩いていく若くて無邪気な心は、 今夜も明日の夢を見る 当てつけのように痩せ細っていく君の声が、 喧しさの泥沼へ引きずり込まれる前に、 あえて私も噴き出してみせた 言葉など必要ない、という言葉だけが残った私たちの無言の情事は、 あくまで路上の他人事にすぎなくて、 愛という言葉の意味の上でだけ私たちは、 それぞれの人生にとっての当事者でありえた 真冬の渋谷の夜でまだ私たちは、 朝を待っていた 君が羽織るクロップドジャケットの左胸でスマートフォンの通知画面が、 微弱な振動を伴ってひとりでに点く 分厚い雪雲に遮られた太陽が東の地平線の手前で出番を伺う朝の気配を機敏に受け取った君の呼気の白さが、 自動調節された明度で光るロック画面に並ぶ言葉たちをかたどる字体を書き順通りに飲み込んで、 出来上がった空白に残された叫び声の意味の連続を巻き込み、次の朝へ送り届けていく 私にとって生まれて初めての恋人になった君から、 人が人を想うときの習わしを教わって、 私の心が次に向くさきに誰が待ち受けていようとも、 ただその人と明け暮れる忙しなささえ、きっと乗りこなしてゆける気がした 裏切りを怖がる心を隠すために、 苛立ち、尖り、逆らう必要などないことを知った 勇気の使い方や夢の語り方も、これからは君を教科書にできるから、 次は君が二人の歴史の上に残した言葉だけで、 私が胸元に持て余しているこのばらばらな感受性を新しく繋げてあげられる 涙は星となり、言葉が星々を結べば、 心とは人間の作る一番小さな地球 誰かを永遠に失ったことなどまだない私たちの通勤快速は急ぎ足のリエゾン 吊り革に吊られている酷く疲れた幾つもの顔から吐き出てくるのは、 人間相手の言葉ではなく言葉相手の言葉だけだ 車窓の外は空の灰、信号機の赤、水たまりの黒 雪の止まなかった街は白いままで、 朝がきた 昨夜は確か私は、誰かと何か話して、笑っていたはずなのに、 大それた悲しみにも慣れていくこの体には、 誰にも巡り会えなかった孤独だけが残っていた 同じ言葉を二人で覚えたはずなのに、 同じ言葉を吐くことはもうできないのだ 弱いままの私は、君を忘れるのにも長い長い月日に手伝ってもらう必要があるから、 曇天から街を覗く太陽に目玉を抉りだされる前に、この不愉快な孤独の背中で、 もう少し眠らせてもらおう。
ログインしてコメントを書く
ハレーションミュート ポイントセクション
作品データ
P V 数 : 143.6
お気に入り数: 0
投票数 : 0
ポイント数 : 0
作成日時 2024-12-15
コメント日時 2024-12-15
項目 | 全期間(2024/12/22現在) |
---|---|
叙情性 | 0 |
前衛性 | 0 |
可読性 | 0 |
エンタメ | 0 |
技巧 | 0 |
音韻 | 0 |
構成 | 0 |
総合ポイント | 0 |
平均値 | 中央値 | |
---|---|---|
叙情性 | 0 | 0 |
前衛性 | 0 | 0 |
可読性 | 0 | 0 |
エンタメ | 0 | 0 |
技巧 | 0 | 0 |
音韻 | 0 | 0 |
構成 | 0 | 0 |
総合 | 0 | 0 |
※自作品にはポイントを入れられません。
- 作品に書かれた推薦文