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産声
あまり人と人の間に区別を設ける考えは好きではないのだけど、そうはいっても考えさせられた話がある。それは、いわゆる内向的な人は必ずしも内省的な人とは限らないという話だ。 内省的な人とは関心が内に向かう人、つまり色々思い返したり考えたりと、外の世界と直に関わらずとも「忙しい」人のことだ。けれど内向的、大人しい人の中には、外界にも内界にもさして興味のない人がけっこういるんじゃないかという話で、僕はやはり適度には内省的でありたいと思ったものだった。 そしてこの作品の"(私だけの)「城」"とは、他でもなくそんな内省的な人の内面のことであると僕は読んだ。 上手いなぁと思うのは、そんな内省的な人の他人との関わり方が書かれているだけでなく、逆に外から寄ってくる人の視点からも、彼女の内面が適切に喩えられているところだ。 宝石、絵画、銅像…それは他でもない、彼女の内面の豊かさの象徴だろう。しかし彼女はそれらについて、"奪われたのは何?"と言う。ここには凄みのある認識があると思う。 内面的な属性すらも、あるいはモノのようなものなのかもしれないということ。あの人は感性が繊細だから好きというとき、彼が愛しているのは彼女そのものなのか、あるいは儚げだったりなよなよとしていたりする感じそのものなのか。 自分のことを振り返っても、人は誰かを愛する折り、ある種の妬みゆえに愛するということがあるように思う。自分が持っていない内的な属性を、女(ひと)を通していわば「持っている(ような)ことに」したいと痛烈に願ってしまう。"お目当てはこの宝石?"との彼女の叫びに、真に愛されることの困難は極まっている。 彼女の側に話は戻った。以下は僕がコメント欄に書かせてもらったもの。 "とくに内省的な人にとって生きるとは、いわば人や現実という名のカオスを定期的に取り込んで、その都度新たな秩序を創生していく、そんな破壊と再生ともいうべき相の下に眺められているのかもしれない。 僕は特段内省的な方ではないと思っているのですが、それでも外の(刺激ある)世界に向かう折りに、なにか自分がひび割れるかのような感覚を抱くことがあります。そしてそれは、たしかな一つの喪失なのかもしれないとも。" 一読して、無味乾燥に思われたのではないだろうか。この作品は、同じことをよりシンプルに、なにより情感豊かに唱い上げている。寓話というものの力がここにある。 "それでも感じたこの気持ち、何?"と彼女が言うとき、彼女の城の窓はひび割れ、さっそうと怪盗は現れる。怯えながら、たしかな一つの喪失を感じながら、愛を巡る不確実さに戸惑いながら。それでも彼女は、物語が産声を上げたことを知る。
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作品データ
P V 数 : 204.9
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作成日時 2024-12-08
コメント日時 2024-12-08