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匿名投稿『わたくしはそこよりうえにある』鑑賞一例
このように頽廃的に耽美的な詩を前にして、読解が妥当性がうんぬんなど、時間の無駄としか本来は言いようがない。そんなひまがあったら陶酔するべきだ。詩は読む酒、酔えなければなんの価値もない。詩人の仕事は読者を酔わせることと、酔客が(迷惑行為以外の)なにをほざこうとも放っておいてやることだけだ。 これで話を終えたいところだが、それでは酔客の一例を示せないので、ひとまず結論をまとめる。この詩はいわゆるメタ詩で、主題はいわゆる胡蝶の夢、集約されうる核心は浄穢の両義だ。これだけ聞かされたら多くの粋人が「なんだ駄作か」と思い込むに違いないから、そんな陳腐な構造より、この詩を非陳腐たらしめている表現そのものを堪能すべきと、わたしは主張している。 残念だが今回は、この投票付推薦文に割ける時間がない。この描写と修辞の妙味を、浄穢と陰陽のなんたるかから説明することはできないが、それでも賛意を表明しないよりはましだろう。以下の鑑賞一例は拙速だから、なんなら無視して作品に当たられたい。 (無視されてかまわない理由は、以前のメタ詩推薦文にも書いた。 https://www.breview.org/keijiban/?id=10511) * 「夢から夢に架けて羽ばたくときに、ちょっとの壁と扉をなくした出口は褪黄色の海が、いや世界が、フチだけ 描いてある光景で、今いるものがみちで届かない場所とすれば、水域はすこし背丈が高く、ここから下ってくところもないのに、もう半分 浸っています。 わたくしはそこより上にある光に気づきました」 (1-2聯) 語り手は胡蝶の夢の底に沈んでいる。その頭上に「褪黄色の海」の海面がある。その海面/界面は、「夢から夢」への「壁と扉をなくした出口」であって、つまり語り手はこの夢の外へ出たくない。「世界が、フチだけ 描いてある光景」というが、夢を描いているのは語り手自身だ。「水域はすこし背丈が高く(中略)もう半分 浸っています」と、水底にいるのに水かさとその限界を把握している矛盾からも、語り手のいわゆる「神の視点」(三人称文体の特徴)が察せられる。 「褪黄色の海」は、海面/界面に入射する「月光」(6聯)の描写。陽光の反射である月光が、ここでは劣化(褪色)と解釈されている。洞窟の比喩を絵に描いたような投射(投影)が、「蜃気楼」(3聯)のごとき夢を「上映」(3聯)している。 「海」は「膿」に通じ、前述した核心「浄穢」を象る。この海が語り手自身と一体であることが次聯でわかるので、その膿を語り手自身に溜め込まれていた毒素の流出とみなすのは容易だ。語り手は自身の穢れを祓い、浄化されたはずが、祓った自身の穢れに呑まれ同化している。このどうしようもない自家撞着が、「みち(未知/道)で届かない場所」という撞着語法で示されている。 「透き通った素肌は饐えたヌメりをでっぷりとふくませ、急に重くなった躰とふっと立ち消えた灯りが、あの夜へ返してみせます。サンダル片手に砂浜で彷徨うときのことです。光はすぐ底まで来ていて 飲み込もうとしている。これら遠く灯台が蜃気楼を上映しはじめては、また、 また暁光が揺らめこうとしておりました」 (3-4聯) 前述の「褪黄色の海/膿」が、ここでは「透き通った素肌は饐えたヌメりをでっぷりとふくませ、急に重くなった躰」と換言される。クラゲの死骸が海に融けて消えるように、語り手の自我は自身から祓った穢れの海/膿に融け消えてしまった。 そこから夢が展開する。海が波を返すのと同じしぐさで「あの夜へ返してみせます」、返してみせたのは海/膿と同化した語り手自身である。夢には「暁光」すなわち目覚めが迫り、外界の希薄な現実味が「無声映画」(23聯)のごとく投射される。たとえば以下の、この詩中でもっとも衝撃的な描写が「上映」される。 「わたくしのあかい心臓が「熟れた果実だったかもしれないわ!」 静かに息をとめたとき、(なくなったあとだとしても。)この嫋やかな手。ひとつのよく冷えたグラスを買ってきて、よく晴れた日の、透明な光がたっぷりあたる窓際に置かれて、羽のような風を絡ませたカーテンといっぱいあそんだあとで、やっぱりお腹が空いたとおもったときに、 きんいろの揚羽蝶が散り散りにありました ただ月光を食い殺した、この躯のせいでした」 (5-6聯) 「熟れた果実だったかもしれない」「わたくしのあかい心臓」は、こののち14聯で「柘榴みたいにしなびたもの」と換言される。柘榴はケレスとペルセポネの神話に登場する死の象徴だ。冥府で柘榴を食べると生きて帰れなくなると有名だが。この夢中では「柘榴みたいにしなびたもの」が「静かに息をとめた(停めた/留めた)とき」、むしろ波打ち脈搏ちはじめるようだ。 この段階で、語り手の「あかい心臓」は海/膿に融けており、固体/個体を持たないので、器に収まらなければ機能できない。そこで語り手は「ひとつのよく冷えたグラスを買ってきて、よく晴れた日の、透明な光がたっぷりあたる窓際に置かれて、羽のような風を絡ませたカーテンといっぱいあそんだ」という。どうやらこの「窓際」の日干しと風当たりによって、「あかい心臓」は「柘榴みたいにしなびた」(14聯)のだ。なんという空虚な「吹き曝しの詩」(10聯)。 その空虚な「窓際」で「やっぱりお腹が空いた」と、冥府の柘榴を欲する語り手は、しかし逆に「きんいろの揚羽蝶」にたかられ食われる────ここは胡蝶の夢中で、彼此も彼我もない。「月光を食い殺し」て「褪黄色の海」(初聯)と化し、花蜜のごとく吸われて「きんいろの揚羽蝶」に同化し、その「すがたもかたちは崩れて」(10聯)「褪黄色の海/膿」へ回帰する。語り手のこの流転は、ニーチェの説いた(生を肯定するための)永劫回帰にも、仏教の説く(生を否定するための)輪廻転生にもみえる。ここには語り手の、はなからないに等しい自我のほかなにもなく、「未だ黒でも白でもなかった」(20聯)。 * 以下7聯から15聯までつらなる夢の断片については、無念にも鑑賞を練る時間がないので割愛するが、構造は6聯までと変わらない。語り手は16聯で夢から醒め、胡蝶のその夢を描く筆を置いて、現実の「袋小路の記憶」(17聯)に立ち返る。以降は生きている語り手の述懐だ。 下記引用の情景は、「磔」の「口」(7聯)による「無声映画」(23聯)ではない。「口ずさんだメロディー」(23聯)の響く現実の、名状しがたき抒情だ。 「ゆうぐれどき、 こぼれんばかりの薔薇が、漆喰の壁にコントラストを描きはじめていたという アカと橙と深い翠が天までの螺旋階段を、ときともに昇っては、その無声映画を、誰しも封じ込んでいる。口ずさんだメロディーはトモシラヌモノを、透明の日傘のもとで横顔だけを拝ませ、簡単にふぶいていきます。」 (21-23聯) ノートのページのように白々しい「漆喰の壁」に、「コントラストを描きはじめていた」「こぼれんばかりの薔薇」の「アカ(赤/垢)」い色香は、語り手から祓われた穢れと等価だ。よい詩は浄穢や美醜の二項を決して対立させない。 「アカと橙と深い翠」の昂揚感が築き上げる「天までの螺旋階段」が、茨の道か、「けせらせら」(11聯)のラヴィアンローズか、詩からは判別できない。詩にはそれを名状する必要がない。
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匿名投稿『わたくしはそこよりうえにある』鑑賞一例 ポイントセクション
作品データ
P V 数 : 380.7
お気に入り数: 0
投票数 : 1
作成日時 2024-11-10
コメント日時 2024-11-11
澤さん、この度はお忙しい中鑑賞一例ありがとうございます、いや、こんなに褒められたら嬉しいに決まってるんだ。ありがとうございます/// とてもおもしろく楽しく読みました。そしてそして以前の、ゼンメツさんの作品にむけたメタ詩推薦文も懐かしく読ませていただきました。もう2年も前なんですね、あの頃は熱かったですねー色んな意味で。まあ、自分の作品は意味が取れないものなのでこうして、鑑賞一例として一見解、読み手様はご自由に楽しんでいただけるのが理想ですけど、詩に求めているものがそれぞれ違いますし、なかなか答えを探そうとしてしまう方も多く、好奇心を持って覗いていただけるといいのですが……そもそも偶然じみたものしか完成しないですし、いまでは、こう丁寧に書け! と言われても、余計難しくなってしまいましたが。 うん、自分の美的センス信じて、というかソレしかできませんが。まあ楽しませるものをと思ってもその反面嫌われる覚悟もありますから、毎回手を抜かず突き詰めて書いていきたいかなと思っています。澤あずささま、楽しんでいただけたようでほんとうに嬉しく思います! 詩は酔うもの、同意します! 鑑賞一例、どうもありがとうございました!
1作者さまごきげんよう。とにかく推薦文は、こんなテキトーな代物であっても、出さないよりはましなのです。なにもかも自己主張のためとはいえ、作者様のなんらかのお役にも立てば、それに越したことはもちろんありません。特にA・O・Iさんのようなフォルマリストと、わたしのようなテクスト至上主義者は、しばしば相互に奇想天外な異物ですから、劇物級の刺戟になりえましょう。 https://www.breview.org/keijiban/?id=10511 ↑このコメ欄をごらんいただけたのなら、A・O・Iさんのメタ詩とハート泥棒メッタメタ詩がどれほど違うか、すっかりご理解いただけたと思います。ここでいうフォルマリズムはそういうことです。他人のフォルムに満足できる書き手はフォルマリストになりません、あなたがたは本質的に孤独です。しかし孤独な表現者同士の、共有を目指さない交流も、それはそれでよいものだとわたしは思いますね。
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