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或る男
庭先に 散歩の行く先に そして買い物客が忙しく行き交うスーパーの店先に 或る男はかけ離れた処から浮上するように立ち現れる 「死にかけたんだ」と物語る或る男 「知ってるから、よーく知ってるから」とそのか細い肩にそっと手を置く たちまち、法悦境の安堵に満たされ、瞳を潤ませる 名残惜しげに、老いて色褪せて小さな姿は人いきれに呑まれていく その姿は久しく見ないが今も何処かで語るべく相手を求めて彷徨っているだろうが わたしの面差しに誰を見た?何を見た?
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或る男 ポイントセクション
作品データ
P V 数 : 318.4
お気に入り数: 0
投票数 : 3
ポイント数 : 0
作成日時 2024-10-27
コメント日時 2024-10-27
項目 | 全期間(2024/11/21現在) | 投稿後10日間 |
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叙情性 | 0 | 0 |
前衛性 | 0 | 0 |
可読性 | 0 | 0 |
エンタメ | 0 | 0 |
技巧 | 0 | 0 |
音韻 | 0 | 0 |
構成 | 0 | 0 |
総合ポイント | 0 | 0 |
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叙情性 | 0 | 0 |
前衛性 | 0 | 0 |
可読性 | 0 | 0 |
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※自作品にはポイントを入れられません。
- 作品に書かれた推薦文
この詩の話者は希死念慮をなんども抱え、その深層心理が「死にかけたんだ、と」物語り、或る男として、老いた姿として現れているように思えた。話者が生き延びたことによってまた、話者のみらいである或る男として、老い、色褪せ、すでに限界を迎えた姿として現れることにつなぐわけだが。これはあくまで話者の内なる声であり「知ってるから、よーく知ってるから」と自ら手を差し伸べる場面へと転換されていて。「わたしの面差しに誰を見た?何を見た?」と話者は老いた或る男としてみずからを体現することで、途端訪れる希死念慮に対し自らに問いかけているようにおもえた。一票
1死にかけた、という苦しみを脱した男が、法悦境の安堵を与えるということは、 私の経験からしても分かります。人は様々な経験を経るもので、それは因縁果の 法則に従って起こります。無駄に人生を生きるとして、経験を積めないならば、 その人は死んでいるのと同じこと。私の眼差しに誰を見た?何を見た?ということを 想像するならば、かつての自分を見た、その先の仏を見た、ということだと思います。 全ての人が仏に見えるならば、人同士が争うことはなくなると思います。 足を引っ張り合って生きるのは、とても息苦しいものですから。この詩に書いてあることは、 理解されることで、受容されるという働きが起こったということに思えます。
0臨死体験を法悦と呼ぶ人は多いが、法悦と法執は紙一重だと思いますね。A・O・Iさんの読解込みで一票。
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