祖父母を葬送した日の空のように晴れた朝が来た時
私がいつも歩いてゆく歩道は
始点から終点まで坂の上り下りの連続である
乾いた坂を登ってゆけば
自ずと明るい空を仰ぎ
坂を下ってゆけば
特に低い地が水に濡れている
その水が尽きているのを私は見たことがない
従兄弟の家の裏山で見かける涙のような沢を思い出す
片脇の藪からちょろちょろ流れ出ているその水を
一跨ぎして私はまた乾いた斜面を登る
広く見え始める空は
陽に映えた古いブルージーンズのような色をしている
視覚がこのように美しさを感じることができるのは
自分の心が前向きになっている証拠だ
本当にそんな朝は前向きになれていて
父母のように逞しく生きていけそうだ
昔の苦しみ悲しみはまさに
軽い雲の一片のように遠く去っている
それからまた坂が下りになると
今度は溝が丁寧に整備された土地に着き
そこで短い距離の横断歩道の信号をしばしば待つ
横断歩道を渡ると一つバス停があるけれど
私の行き先には行かないバスが来てやり過ごす
そのバス停を過ぎると歩道は緩やかな上り坂になる
でも登っている間にいつしか下り坂に変じている
そんな不思議な道だ
そうして進んでゆけば平坦な国道に出て
すぐそこの写真館の前のバス停に並ぶ
振り返って自分が住んでいる遠い丘を見上げる
やがて急行のバスがやって来て
私はそれに乗り込み
出発するのである
どこへ
それはいつもたいして違いはなく
同じような場所に向かうのである
願わくはこれからもこのような日常が続きますように
今までこのような日常を送ることができてきたことに
感謝の思いを抱きつつ
作品データ
コメント数 : 14
P V 数 : 902.3
お気に入り数: 0
投票数 : 1
ポイント数 : 0
作成日時 2024-10-15
コメント日時 2024-10-20
#現代詩
#縦書き
項目 | 全期間(2024/11/21現在) | 投稿後10日間 |
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2024/11/21 23時03分37秒現在
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祖父母を葬送した日の空のように、というフレーズが最高ですね。そのあと晴れた朝が、来た時、と二段、三段構えになるのが惜しいと思いました。僕だったら、あくまで僕だったら、この祖父母を葬送した空のように、というフレーズを単体でもっと活かしますね。詩の内容は、自分の系譜をたどりながら、また新しく生きていくという感じでしょうか。にしても、先に指摘したフレーズが最高でした。もっと活かせなかったかなー!と絶叫気味に。自分でも笑ってしまいますが。
1お読み下さりありがとうございます。最高と評されるフレーズが書けたことをうれしく思います。ただ正確に言うと、私はこの作に関しては「書いた」というより「言った」という感じです。「肉声」ですね。
0日常の光景を読み取った詩で澱みなく綺麗に書かれています。 特に~陽に映えた古いブルージーンズのような色をしている。ここの表現はまさに遠近感を空に感じるいい表現だと思いますが、 後半部にさしかかる~私の行き先は行かないバスが来てやり過ごす。ここが緩くなってしまった。~行き先は行かない~行かないではなくて、~辿り着かないバスが来て~か、何かでしょうね。 その情景を描こうとしている作りの詩なのですが、全体的に変化に乏しくて、思う祖父母、父母へのイメージが薄く感じられます。 後半部、 ~ どこへ、 それはいつもたいした違いはなく~ その想いを頂点に据えるとするならばこの後くらいに一行でしょうか。 何か身近な光景で想い出す掌(たなごころ)を比喩にでもされ展開表現としてインパクトに置いてみる。というのも有りかな、とは感じます。
1お読み下さりありがとうございます。詩を「書く」のと詩を「言う」のとではちょっと要領が違うかと思っていて、「書く」となるとテクニックに重く気をつかい全体の重量も増す、肉声で「言う」なら締まりが緩くなりがちで平たくなるかと感じます。今回、私は「言う」ということをやってみました。柔らかいものに仕上げたかったのです。でも怠けたわけではなくて、ところどころに気をつけた「表現」を差してみました。親族をあらわす名詞も入れました。今作の意味は実のところ日常の情景を描くことではなく、人間の人生が高みから起伏を持ちつつ下ってゆき、しかも完成へと向かうことを描くことでした。でも、日常を描いたものであると感じていただいても、それはそれで良いのです。柔らかく自由に読める、こういうことも詩にとって大切かと思います。
0文中から引き出したタイトルといい、わりに淡々と書かれてあるな。と思えるのは試行にみるそれですか。ならば納得できます。
0返信で「書いた」と「言った」の違いのような解答を書かれていましたね。読んでなかったのですが、「書く」と「言う」の違い。しかし同じ書くという行為に於いて、言う、とはどのような思考(試行)でお書きになったのでしょうか?例えばナレーションのような詠みをまたは日記を念頭に、とか…? でもですね。同じ詩を書くという行為に於いては「書く」も「言う」にも表現としての違いはみられないはずで、それをもしも意識的に書かれたとするならば、それは単なる「雑記」或いは「日記」として読まれなければならなくなってしまう。この論評は間違っているでしょうか?
0まず、今回私がここに言った『願わくは』と題する詩についてどんな論評が出てきても、それが正しいか間違っているかを明らかにする必要はないでしょう。自由なことだと思うからです。その上でなお関心をもって考えるのがいいのは、詩を書く、詩を言う、この二つの行為がどう違うかだと思います。 何にも起因せずに言葉を使う人はいません。叫びやおしゃべりもそうであるし、練りに練られた文もそうでしょう。そういうものの中で、詩はどの辺りに位置づけられるか考えたとき、おおかた、練られた文に近いと答える人が多いと思われます。 練って言葉を書く、これは大事なことですが、やりすぎて、読もうとしても大変であったり、全然分からないということになったりもするのは誰しも経験することでしょう。特に詩なんて、そうなりがちです。技巧のかたまり、深い比喩、押韻、珍しい題材、そういう言葉の普請の結果が詩として提出されることが多いと思います。 そういう詩から私は離れたいと思い、では、そういう詩を書くのではなく、そうではない詩を言ってみたらどうかと思ったのです。肉声で言う、こういうことです。図書館にある視聴覚資料で、吉本隆明や小林秀雄や正宗白鳥の講演・インタビューを聴いたことがあるのですが、当然ながら、彼らが肉声で話すのを聴くのは彼らの著書を読むのとは違う楽しさがありました。言うって良いな、と。 今回私が「言った」詩が、どれだけ言葉の普請である「書いた」詩から離れることができているかは読まれた人の感覚に頼むしかありません。技巧がまったく無いとは言い切れないし、比喩だってあります。が、ここまで述べてきたことが、『願わくは』に私が込めた思いです。
0例えば音ですね。録音でもしない限り残らない。もちろん残響としては残るでしょう。しかし言葉たちは違う。一度書き込まれてしまえばそれは記録として残る。即興的に詠んだ詩を残してみようと思われたのでしょうか?言う、という行為には実在(リアル)としての時空が在り、そのような発語を書き残してしまえばそれはもう過去になりますよね。なので、書き言葉はあくまでも書き言葉なのです。
0勘違いされてよくわからないことをおっしゃってる。例えば独白なんて言う形式も語りかけるように言う詩ですよ。言う、も言葉として書かれれば詩にも成り得てそれは既に書き言葉なのです。
0なんか、こっちまで可笑しくなりそうだ。笑。誰か、ソシュールでも持ち出して、理論立てて説明してやってくれ。と思ってしまう。
0作品にまとまり感があって #好印象
1コメントありがとうございます。カンバスに余白を残さないよう全体を絵具で丁寧に塗るように書きました。なので、まとまっている完了の感はあると思います。絵の一部や端に余白を残すのもいいし、絵のどこかが破れているのもまたいいとは思いますが、今回はそうしたい気は起こらず、そうする技量も自分には足りていないと思いました。好印象であるとのこと、とてもうれしいです。
1もう少し詩評を。長々コメするのは性に合わないので。行間がひとつもない。だからまとまり感を感じた。たとえると藤棚を横からながめるような感覚。藤の花はまとまり感がありながらも茎の長さはそれぞれ #RANDOM 詩の内容は散歩詩ではなく通勤通学詩。快活に足を運びながら言葉がポンポンと浮かんでくる。それがそのまま詩になった。そんな #FICTION を描いてみた。また、タイプとしては熊倉ミハイ氏に近いと感じた。これからも二人で切磋琢磨してほしい。#上から目線 https://www.breview.org/keijiban/?author_id=2998&__cpo=aHR0cHM6Ly93d3cuYnJldmlldy5vcmc https://note.com/odeshisan_ao10ji/
1追加評ありがとうございます! 言葉がよく連なって、そして変化しつつ進行して、最後もきれいに終わることができている。といった感じを藤によそえて言ってくださったのでしょうか。熊倉ミハイさん、気になってはいたんですよね。でもなんかレベル高そうだなと畏れ多い。気をつけて読んでみますね。あと、リンクありがとうございます。noteやっているのですね、図々しいのですがXのアカウントの方をフォローさせていただきます。どうもです。
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