作品を読む
わかったふりはできないが
今年の八月三十一日~九月一日の小、中、高校生の自殺者数がいかほどの数、上ったのか。このデータをこの時期には気にするようになった。なぜ、八月三十一日、九月一日なのか。 それは夏休みが終わってしまう日だからである。そこで自殺してしまう小、中、高校生の数は、数百人から、併せて千人くらいに及ぶので社会問題になっているのである。 今年は二百十日、つまり台風の接近がこの日だったので、NHKもその話題にはちらと触れるくらいだった。強調したいのは、私は学校教育に批判的な眼を向けているが、その多くは全くの無関心というかそもそも事実を知らない人に向けてもいるのだ。 私の生活は全く教育やじっさいの生徒と関係がないが、学校生活は多くの人間が通る道だということで、上記の事実を記述させてもらった。 学校、という問題は根深い。歴史をみれば、「学校」という概念が、しっかりと確立された時期は一体いつなのだろう。「寺子屋」というものもある。しかし学校や学級といった「マインド」が確立された時期として、私は「明治」に着目してみる必要があると思う。 明治といえば、文明開化。学校は基本として「有能な人材を輩出する機関」であった。 福沢諭吉の「学ばなければ、世の中についてゆくことはできない」と露骨に強迫されたこころね、は私たちのDNAに深く根付いているのではないだろうか。 私個人は、人格者になりたかったのだが、学校は「生き方」を教えてくれるところではなかった。学校で教えることの正解は一つだけれど、人格主義は、答えを寧ろ、増やす。 Aだけじゃない。Aも、Bも、Cもいいよね、というのが、私の目指すところだったので、早々劣等生になってしまった。なんとかごまかし高校に入り、ニルヴァーナというロックバンドの「スクール」という楽曲を教えてもらい、聞いていた。 フロントマンは27歳で死んでしまったらしい。 だから焦った。スクールという楽曲には露骨に学校に対するコンプレックスと裏返った怒りが表明されているとして、劣等生になってはやはり早死にしてしまう。 しかし最近の小、中、高校生の苦しみとは、質が違いそうである。 彼らは寧ろ、もっと学校内での心理的な闘いを強いられているようであるし、個人個人の悩みも違うので、これを一概に語ろうとすれば、結局僕も「わかったふり」になってしまう。 彼らは多分「わかったふり」を一番嫌うのではないだろうか? じゃあ言わせてもらうが、心という、曖昧模糊として、しかし個人固有のものを「語らず」してどうして相手の理解を得られるのだろう? そこで「詩」がある。 さて、この詩を読んでみよう。 私は長らくネット詩を読んできたのだが、「I was born」に感化されて、そのオマージュ詩を書く人の作、これは何年かに一度読んできた。 しかしこの作品は頭一つ抜けているように思う。 やっぱり、河合隼雄が指摘するように、日本人の多くは母なるものに帰属し、その保護を受けていたいという欲求が強いのかな、と考えた。 例えば、それは会社にも母としての会社を求めるし、病院にも母としての、これは先生を求める。これはどこかのお店のサービスにも求められることがある。 そして、求める、求められる、の関係で齟齬があると、トラブルに発展してしまう。 私たちの多くは、お子様、子供なのだ。 その事実から目を背けることをしなければ、この詩で書かれている本当の母へ向かってゆく作中主体と、母の対応といったところに無限のエモーションを感じる。もっと違う言い方ができる、感動の方へ私たちを連れてゆく。 現在の私の心境として、狂ってなかった時代など、日本には一度としてなかったし、学校それ自体も、認識を冷静に認めれば狂っている。 しかし、それでも学校もまた、母なるべきものとしてこの作中主体の中で存在していれば良かったのだが、それは叶わなかった。 そうして、この作中主体は、じっさいの母の、真実の言葉を聞くのである。
わかったふりはできないが ポイントセクション
作品データ
P V 数 : 525.5
お気に入り数: 0
投票数 : 0
作成日時 2024-09-10
コメント日時 2024-09-12
真言は、話す主体がいなければ、分かりません。文字から読むことはできますが、それを 話し合うことが必要だと思います。密教では、秘伝が、むやみに扱うと危険であるという理由で、 公にはされていません。母の言葉は、真言に等しい。優しいお母さんではない、嫌なお母さんを 望む人は、一人もいません。それゆえに、わかったふりなど、お母さんには通用しませんよ。
1わからない世界についてはアクションしにくく、其れが同じ日本に住んでいる日本人とあれば、余計無視したほうが良いのかもしれない。 14歳だと正直異性への興味が止まらない時期だと思います。 その時期にお母さん......分からない。私は母親が鬼畜かつ悪魔のような存在でした。父親もそうでした。 子供の自殺についても、共感が出来ない。コロナで学校に行かずに済んでいる。 私のような人間にとってはこれはありがたいことです。オンライン化で同級生と会わずに済む。 共同体の存在はというと、私はいまだに確認出来ていません。つまり孤独な人間にとっては、良い時代になったと言うことです。子供の気持ち思いはわからないなあ。
1この詩を書くきっかけになった体験は、小学6年生のときです。
0私が初めて自殺を考えたのが14歳だった。だから、私の息子や娘が学校に入った時は、小さなSOSも逃さないよう静かに見守っていた。学校はやっぱり酷な場所だ。理不尽なことばかり起こる。息子や娘の涙からそれが伝わる。でも、社会に出てもそれは続く。子どもたちにに言い聞かせることはしないが、話をさせることで、子供は自ら解決策を生み出す。この時期の子供にはそういう力がある。それを信じてあげるのは、母だけでなく誰でもいい。 作者がここに書くことで、いろんな意見が飛び交う。ネットとは怖い。下手をすれば、ここで浴びせられた言葉で作者が傷つくこともあるだろう。しかし、それはネットに限ったことではない。話を聞いてくれないリアルな親や大人はたくさんいるから。 それでも作者はきちんとコメントを返し、新しい作品も生み出している。そこに生命力を感じる。
5