「ただひたすらに自分のために生きよう。」というスローガンのもと、人間的活動を再開していたわたしだが、久々に理性をなくしてフライドポテトを食べた。そのとき、フライドポテトは人類には早すぎる食べ物だという会議が頭のなかでは行われていて、役員であるすべての羊がその答えにうなずいたところであった。そのうち、役員がなぜ羊なのか、という疑問もわいてくる。羊。わたしのなかの一つの執着の対象である。わたしは、一年前、羊飼いになりたいという投稿をしたことがある。羊が放牧されている場所の中心には小さな家があって、そこにわたしは住んでいるのだという妄想を赤裸々にそこでは書いたのだが、あれはわたしの消したい記憶のひとつだ。あのとき、わたしは嫌気がさしていて、なにも考えずに羊飼いになりたいと思っていた。今から考えれば、家にいても隣でめえめえとなかれるのはごめんである(羊には羊なりの事情があってないているのだから、鞭でたたいてやろうという気にもならない)。これは話の前座。もちろんオチのない話など誰もが望んでいないはずである。しかしながら、オチのある話だって人は、いや、わたしは望んでいない。話したいのは、オチのないおもしろみのある話なのかもしれない、と考えたり。(というオチのない話をわたしは繰り返している)
作品データ
コメント数 : 8
P V 数 : 1017.1
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作成日時 2024-06-05
コメント日時 2024-07-26
#現代詩
#縦書き
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2024/11/21 19時57分25秒現在
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何故? という疑問が湧き上がる度、ひたすら指でプチプチのように押し潰していく。段々そのコツが掴めてきて、何故? が浮かび上がる前に指が勝手に動く。それは病気かもしれないと思っただけで、病院に行くほどのことでもないように思える。 曖昧なことがつめこまれたような作品だと感じました。読んだ後、考えるよりも体を動かそうという気持ちになれました。
1なんかおもしろみ感じました。どんどん読みたいです なんか、私大阪で生まれ育ったんですが家庭環境かなんかですかね?とにかく「オチ」文化が私のSOULの中になくて学校でも何でもおもんないやつってことで迫害されてたんだけど、でもね、なんかある日、図書館に行って図書館なのに本読んでない人っていっぱいいるなあって、そこで今から思うと迷惑かもしれないんだけど、そういう人たちの中であっ、実はおんなじクラスのMくんじゃんとかそういう人をドンドン集めていろいろおしゃべりをしたら、もうめっちゃくちゃに盛り上がったんですよ。それが毎日で卒業まで連日滑らない話状態だったっていうことがあり、それでまた、高校入ったら、めっちゃ話合わなくて滑りまくるみたいな。 その時思ったんだけどオチ文化ってあるいみイニシアチブを自然に奪えるかどうかっていうのがすごく大きいと思った。でもそうなったらようするに「顔」「身長」「学力」て言ってるのと同じで、教室では顔と身長と学力が人の言葉を使っていた。まあそういう人たちの話って異常なくらい面白いし、図書館でおれの周りの人たちがもっと民主的なありさまでいられたとかそういう傲慢なことは一切思わないけど、とにかく閃きだった。 それをイニシアチブというかナチュラルマウントに感じるようになってその先は大人しく過ごすようにしてたんだけど、やっぱりそれはそれてアレだなあと思った私は、会社の引き出しに入れてた本を全部BOOKOFFで売り飛ばして、いまはラッセルの幸福論一冊だけ入れてて、おれはこれまでもこれからも顔や身長や年収でバトルできる気がしないよ、でもこっからは「夢」で勝負だ、ということで、まだ全然諦めてないんです。 すみません!「羊飼い」のところから急に過去編に入る構成がなんかよかったので。。。ありがとうございます
2センスの塊みたいな文章だな ビーレビの書き手でいたっけ? 構造的にも普通の人は書けない気がするが
1自分の頭の中、もしくは心の中に「羊」と「自分」を見つけられたのでしょう。「羊」は他者のことかもしれません。嫌気が差して、羊に囲まれたままでいたい、というのもよく分かります。そこから壁をしっかりと持っていく、その過程も。
1思考に対して忠実で、まったく他人の話なのに、自分の脳裏がくすぐられるような、面白い作品ですね。
1~ただひたすら自分のために生きよう~理性をなくしてフライドポテトを食べたが、人類にはフライドポテトはまだ早すぎる食べものだった。込められた喩をもとに羊飼いと羊の小咄を考え合わせれば、内容的には人間の仕草に対しての諦念とも取れる皮肉が込められている。単純な話しにオチをつける。と言えば伝習のようにお決まりごとがあるのも落語ですが、なかなか奥の深い小咄ですね。理性を求めてフライドポテトなる理性に再び挑戦してみたが、フライドポテトに込められた理性にはまだ到達していないようだったことを知るはめになる。つまり独立独歩と個人に徹していたわたしが、何故か集会(会議)に興味を持ち始めたところからこの小咄は解決できないに向かってしまった。という逆説的な趣向が伺えてきます。むろん自分のあたまの中の思考なので直接的に誰かと対峙するような内容とははっきり言えません。元々の、いや、或いは現在形の関係者の方でしょうか? まあ、面白さを考えたらどうでもいいのですが、会議と言えば元文藝春秋社編集長の高橋一清氏がその著者「芥川賞直木賞秘話」の中でこのような内容のことを書かれている。 …当時の芥川賞選考委員etc.の顔ぶれは作品への印象批評というより、小説への論評、すなわち理屈が多く、小説も面白い筋のある小説というより、流行りの文藝理論や手法を取り入れた実験的な小説や細やかな心理を描く小説が多かった。…そこで第114回下半期の選考委員を宮本輝氏と石原慎太郎氏に加わっていただきました云々…。そして小説について話し合う宮本輝氏とは文藝理論を知った上で「面白いか、面白くないか」で意見は一致するという。また石原慎太郎氏も実感的な小説論者で理屈っぽい言辞を長々と述べて理解しようとする選考委員を「それでどこが面白い」と斬り返す発言をする。選考委員たちには不満だったかも知れないが、世間一般の読者の読みはこの二人の作家に近いと思った…etc.という内容のことを著者は述べられている。 どちらが甲乙と記す記さないにせよ、それだけあの注目される賞には責任者側から見た選考することの苦渋が記されている。 コメントは逸れましたが、主に素人集団のサイトです。難解で実験的な作品からエログロナンセンス、ユーモアから面白さを求めた詩といろいろあっても宜しいのではないでしょうか。
1いや、誰か書いたかは気になっていたけど。矛盾許容論理って言うのかな 床に沢山の紙コップを敷き詰めて、 其処を普通に歩いてくる猫の動画思い出したな、ちょっと不思議な感覚 この作品だけ作風が違いすぎる感じもするけどまぁ作者の振り幅なんだろうな、モヤモヤは一応解消されました
0たくさんコメントくださりありがとうございました。
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