別枠表示
無題
そこへ行くには、駅から少し歩かねばならなかった。都市とそのベッドタウンと、そのベッドタウンではたらく人々が仕事以外の生活をする場所に、まだ適切な名称はないのだろうか。(私はこういう場所を、ほどほどの田舎と表現することが多いが、聞いた人によっては、全く異なる風景が描かれることが多く、周辺にあるスーパーやコンビニと、その駐車場の広さを見せるのが、望まないすれちがいを防ぐのに有用であると思う。)深い緑いろの胴体に、白い屋根が載せられたログハウス風の建物は、その周辺を、かざらない印象の、白をベースにした背の低い草花と、うさぎや小人の置物で装飾したかんじの良い庭で囲ってあった。(中に入る前にぐるりと一周したところ、駐車スペースの反対側には、テラス席があり、テーブルやイスは、木製のように見えたが、ガラス越しなので詳しいことは分からない。)建物へ向かう数段の階段は、靴底が当たるとカンカン音を立てるので、それに気を取られて、うっかりと蹴飛ばしてしまったよくわからない銀色の(やけに軽くて私の拳くらいのサイズしかないあの)小さなバケツを元にあったであろう位置へ戻す。とにかくこの暑さのなか、駅から25分も歩いたために、私は汗をだらだら流していて、小さなバケツなんかどうだってよかったのだが、そのままではなんとなく後味がわるい気がした。よっ、と声をかけて、膝を折った姿勢から、もとの姿勢へもどり、扉をこちら側へ引いて、中へ入ると同時に、キンとした冷房の涼しさと、いらっしゃいませ!という複数の女性の声に迎えられた。ご予約は、と一番近くの店員に尋ねられて、ああ、連れが先に入っているんです、若林といいます、と返す。店員の女性は、一瞬、黄色い花柄のバンダナから溢れた髪を耳にかけ直し、私の角度からは見えない店内を見渡して、それから、こちらへ、と私を店内へ案内した。信じられないくらいざわざわした店内では、20代から60代くらいのあらゆる女性たちがケーキを食べ、紅茶を飲み、パスタを食べたりしてくつろいでいる。そこの喧騒は、小学生の頃、500人くらいの生徒が集まる体育館での全校集会が始まる前と変わらないくらいのざわめきで、私はここで、誰かとお互いを理解し合うための会話をすることは、きっと誰にも不可能だろうと思った。案内された店内の私から見て、左端の一番奥の席のテーブルの中の左側で壁に少しもたれながら、ホールの入り口の方を向いて座っているのが、母だと気づくのに、少しかかった。母は、出された水をちびちびと飲んでいた。ああ、母だとそれを見て思う。店員は、私を席に案内したついでに、私の分のグラスに水を注ぎ、母のグラスにも水を足した。店員が、メニュー表をもってきて、今日のおすすめがほうれん草となすのトマトソースだと伝えて去るまで、私たちは目も合わさなかった。あ、久しぶり、と私が声を掛けると、母は、久しぶり、と返し、一つしか置かれなかったメニュー表を手に取って、目を通し始める。あー、その、元気?と、次切るのは、天気のことしか残らないペースで、私は母との会話カードを切ってしまう。元気も元気、昼間っからこんなとこ、元気じゃなきゃこれないよ、と返ってきて、私はそれに頷く。ここにいるさまざまな年代の客に共通しているのは、ありあまるエネルギーだ、そして、それは私に足りないものでもある。母は、メニュー表を一度隅から隅まで見たあと、また最初のページにもどり、二周目のメニューチェックを始める。店員に、もう一冊メニュー表を頼もうとするが、店員は忙しそうで捕まらない。それどころか、目すら合わせられない。諦めて、母のメニューが決まるのを待つ。母は、ナスとベーコンのペペロンチーノとオレンジジュース、私は、本日のおすすめとウーロン茶を頼むことにして、呼び出しボタンを押して、店員を呼んだ。注文が繰り返され、飲み物は食前にということになり、店員は喧騒のなかへ去っていく。私たちには、いよいよ話すことがなくなり、ただお互いのドリンクを心待ちにするよりなかった。それから少しして、おろおろとしながら、学生のような店員が、ドリンクを盆に載せてこちらへきた。私は、お手拭きや水の入ったグラスを壁際に寄せる。店員はにっこりして、何かの確信の下の行為なのか、ウーロン茶を母、オレンジジュースを私に提供して、消えていった。私は黙って、オレンジジュースのグラスを母の方へ押しやり、代わりにウーロン茶をとった。いやだわ、ああいうの、という自身の発したひと言が、トリガーとなったように母は、彼女を苛立たせるあらゆる物事について、堰を切ったように話し出す。この洪水のような発話を、止める術がないと私は27年間の母-子関係で熟知しているため、曖昧な相槌をうちながら、ただパスタか、前菜のサラダかが来て、一瞬でも私が自由にできる時間がくるように祈った。私と母のもとにサラダがきたとき、急にヒートアップした母の声に驚いた私は、ウーロン茶のグラスを引き倒しそうになった。なんとか私はそれをパッと手を出して支えて、ことなきを得たが、母はその一瞬の出来事にも、目の前に置かれた彼女の分のサラダに目もくれず、日頃の鬱憤を晴らそうと、オレンジジュースを片手に話し続けている。私は、フォークを2人分、カトラリー入れから取り、一つを母に渡し、母にことわってから、サラダを食べ始めた。ドレッシングが甘酸っぱいような味で、水菜やサラダもしゃきしゃきとして、美味しかった。てっぺんに乗っていた、コーンをチョイチョイとあとで食べようと避けつつ、サラダを食べ進める。好き嫌い、まだあるの? 私は顔をあげる、母が白けた顔で私の方を見つめていた。まあね、まだ少しある。でも、嫌いなわけじゃないよ、食べる、けど、最後でいいかなって。私はそう言いながら、逃げるように、水の入ったグラスへ手を伸ばした。「そういえば、この前、お父さんが、ポップコーンなんて家で作ってた。後始末せずそのまま、お母さんが後は片付けた、いつも通り」。コーンを避ける私をチクリとしたついでに、ポップコーンへ連想をつなげ、見事に父の愚痴へと着地する母の勇姿は、オリンピックならメダルが貰えるレベルかもしれない。まあ、あれでしょ、映画、映画見て寝落ち……。よくあるよ、私もよくする。まあ、まあ!片付けは自分でしなきゃいけないよ、そうだけど!と言いながら、私はコーンを一粒、フォークの先に突き刺した。あんたはどっちにもいい顔をする。地を這うような声に、私は顔をあげられない。コーンを口に入れようとすれば、顔を上げることになり、母と目を合わせねばならない。そこで、フォークの全ての先端にコーンを一粒ずつ装着しようとすることを、顔を上げない口実にしようと私は足掻く。そのうちに、それぞれに正しいパスタが届いた。私は、すべての先端に、ブーツを履いているみたいにコーンを刺されたフォークを見てふふと笑って、それを口に入れて、なるべく雑に噛み、すぐにウーロン茶で飲み下した。おそらくテラス席から、ちいさなポーチ片手に白いワンピースを着た女性が、こちらへ向かって歩いてきたのは、私がパスタにフォークを刺そうとしたのと同じ時だった。白いワンピースから出た手が、健康的に焼けていて、その、日焼けした肌と白い布の作るうつくしいグラデーションに目が吸い込まれていく。そのひとはさっさといってしまう。おそらくお手洗いに行ったのだろう。それよりも、私は、白いワンピースに包まれていた、いつかのおかあさん、を思い出していた。 おかあさんは、私と同じで、(私が母と同じで)やけにしろくて、だからさっき見たようなグラデーションはできない。ただ、白い布に包まれた白い身体があるだけだ。わたしの左の上腕には、いくつか離れて火花が散っているような黒子があった。今もあるそれらを、当時は、何かあるといつも、指先でつないで、はやくおかあさんの気分が変わりますように、と願って、でたらめな方向に頭を振って、(すべてがまざるように、)わたしという、さなぎのなかみが均一にうつくしく塗りつぶされて、おかあさんを怒らせないにんげんになれるよう祈っていた。ふるえている赤いジャムのついたスプーンを掴んだ子どもの指先が、白いパンをめがけて、食卓上をたどたどしくうごく、このときに怒られているのは、わたしではなかったけれど、標的は、ねこのきまぐれみたいに変わった。わたしも、お父さんも、代わりばんこというか、常に標的を流動的に変えるおかあさんになれてしまって、もうどうしようもなかった。もう、わたし自体が、早いうちに何かに食いちぎられていて、吐き出された吐瀉物がわたしというにんげんのかたちをして、おかあさんの前に立って、頭を垂れているだけだったのに。だが、そうやって、ある種の知恵を身につけることが、わたしがさなぎから、孵るということだったから、おかあさんは、いまだに皿から、どろどろした吐瀉物を、大切な娘にするように抱き上げている。 すべてはひとつの白昼夢だった。それから、私は素早く、パスタをフォークに巻きつけて食べ始めた。随分と早くに家を出て暮らしてきた私は、もう母の標的になることはそうそうない。その役割を一手に引き受けていた父は、近頃、母に別れを切り出したらしい。今日もそれについて私は母から呼び出されたのだった。私にできることはなにもない、私は何もしないと、はやく告げなければならないが、私はのろのろとパスタなんかをたべている。この後のことを考えると、胸が勝手に苦しくなるが、本当に私に出来ることはなにもない。ただのフリーターの私が、母を迎えて暮らすのはあらゆる観点から無理だし、金銭的援助も無理だ。私は、お腹が痛くなって、母に言ってから、ハンカチを片手に、お手洗いへ向かった。馬鹿馬鹿しいくらいうるさいここに、私の居場所がないことは自明だった。ならば、母はどうだろう。お手洗いのドアノブを握って開けたとき、しかし、私には、母がどのような暮らしをしてきたどのようなひとなのか、そして、その(物理的-精神的)居場所にも、すこしのこころあたりもないのだった。
無題 ポイントセクション
作品データ
P V 数 : 991.9
お気に入り数: 1
投票数 : 2
ポイント数 : 0
作成日時 2024-02-14
コメント日時 2024-02-18
項目 | 全期間(2024/11/23現在) | 投稿後10日間 |
---|---|---|
叙情性 | 0 | 0 |
前衛性 | 0 | 0 |
可読性 | 0 | 0 |
エンタメ | 0 | 0 |
技巧 | 0 | 0 |
音韻 | 0 | 0 |
構成 | 0 | 0 |
総合ポイント | 0 | 0 |
平均値 | 中央値 | |
---|---|---|
叙情性 | 0 | 0 |
前衛性 | 0 | 0 |
可読性 | 0 | 0 |
エンタメ | 0 | 0 |
技巧 | 0 | 0 |
音韻 | 0 | 0 |
構成 | 0 | 0 |
総合 | 0 | 0 |
※自作品にはポイントを入れられません。
- 作品に書かれた推薦文
https://www.breview.org/keijiban/?id=11209 これを下敷きにしています。読んで不快になったひと、いたらごめんなさい。
0この作品の元となる作品 『わたしはうさぎをたべたとき』 は、なんと言うかイメージの世界と言うか 俺的には清らかなシーツに太陽光が差して 温かいというかモフりたい 包まれるような感じだったが それを受けて今作 無題と言う作品。 まあ作者の描写する現実に落とし込まれているというか 良くも悪くも完成度は高い 主人公の女性はどうだろう? 30前後かな? 女性の30前後というのは、中々だとは俺の中では思っています 可愛いだけじゃ駄目では無いけど 色々なことが現実的になる年齢と言うか 勿論、親もそれなりの歳になって今作のような問題もリアルに出てくるのかなぁと思います 『わたしはうさぎをたべたとき』 の方は読者のイメージの入る余地が結構あったけど、今作はその余地を作者がかなり埋めて、作者のイメージを追認すると言うか もっとシビアに主人公なりプロットなりを読んで評価すると言うか 単純にお話と文体、スタイルの問題になってくると思うんだけど 俺的には良くかけているとは思う しかしこの文章が何処まで通用するのか? つまり商業的価値と言うか。 芸術的価値はまぁ前作の方があった気はするけど、なんか難しいな それで詩集を出したとしてもどれだけの商業的価値がつけられるのか? 絵本的なテイストなら或いは価値が見出せるのかとかは考えるけど単体だとかなり厳しい気がする やはり今回の無題の方が可能性がある感じはするな やっぱり小説と言うか物語は文体によるものが大きいと感じるのでハツさん的には有利かなとは思ったが、まぁ題材と言うかモチーフと言うかちょっとね女性特有の繊細さと言う機微みたいなものを書き出せているとは思うが其処と文体との兼ね合いよね。 文体的にはやはり弱くなっているというか 喚起されるイメージ力みたいのが弱くなっている気がしたな やっぱり読みにいっている感じになったというか、ザバザバ文章が降り注ぐ感じではなくて理解しようとしてもっと蛇口を捻るみたいな。 正直言えば今回のような作品の方を俺は応援したいとは思うけど、 『わたしはうさぎをたべたとき』 とかの文体そのものの瑞々しさをどけだけ維持できるかだと思います 小説と言うか長ければ長くなる程、結局文体が良くないと読めなくなるし 売れてる人っていうのは結局は文体だと思いますし。 今作のテーマと言うか母親と娘の関係みたいなものはある程度試金石的な意味に於いて良い題材だと思いましたね 純粋に文章を評価出来る気がした 俺は良いとは思ったが、ビーレビでこの作品を公開するメリットがそこまであるかどうかは疑問もあるな ちょっとガチ目な感じがしたので。 俺も含めてなんと言うかそんな目線を持っている人がいるのかなと言う印象 明らかに難しい問題なので
1どのくらい文字数があるのかとりあえず数えてみたら約4千字。これは投稿制限目いっぱいの文字数の大体5分の1。これが長いのか短いのか、感じ方は人それぞれだと思うけれど、僕はあっ、ながって思った。でも嫌いじゃない長さ。読み始めてから2行目で()が登場する。それ以降も()は何度か出てくるけれど、これが良い感じに文章を補足していない。何のために使われているんだろう、というか序盤で連発して使われていて逆に読みにくくない? と思うけれど読んでいるうちにその数も減っていきやがて気にならなくなる。作者の方の癖であり感性的なものかと考える。私は建物の中に入る。(信じられないくらいざわざわした店内では、20代から60代くらいのあらゆる女性たちがケーキを食べ、紅茶を飲み、パスタを食べたりしてくつろいでいる。そこの喧騒は、小学生の頃、500人くらいの生徒が集まる体育館での全校集会が始まる前と変わらないくらいのざわめきで、私はここで、誰かとお互いを理解し合うための会話をすることは、きっと誰にも不可能だろうと思った。)入った瞬間からすでに異様な店内の描写がすごい。すごいしなんかとても強い場所だと思う、逆に行きたい。それから私と母の関係性、幼少期より幾分ましになっていそうだけど、支配と従属が自己暗示のように二人の間を彷徨っていて、途中から父も加わるけれど空気に近い(でも彼も被害者)、小説とかテレビでよく題材にされる感じの子を所有物にする母親って思った。それを描き出すのが上手。気持ちが悪くなるくらいに。母親が変わってしまったのはどこからだったのかな。父と出会った時から? それとも私が生まれてきた時から? もともとそうだった? だとしたら母親の両親がおかあさんをそういう人に育ててしまったのかな、と色々考える。考えても分からないから最後まで読むと、母親って私の中からすでに消去されているんだと思った。だから僕は「無題」の文字を取っ払ってここを「消去」としたい。消えるついでに、うるさい場所と、うるさかった母が重なって、私に少しだけ静かな気持ちを作る。 「わたしはうさぎをたべたとき」と合わせて読みました。感覚的なことで申し訳ありませんが、下敷きとされた作品の方が詩的だと思いました。「無題」は詩と小説という感じがしました。そのあたりの拘りは、僕は持ちえないのですが、下敷きとされた作品が正しいスケールで引き伸ばされた時、本作ができあがるのか、その再現性が詩と小説の予感を分けたのかなと思います。量感のある作品でしたので、できれば土日にゆっくり読みたかった、長い作品を投稿する時は曜日に気を付けようと思いました。冗談です。 繰り返し読みたくなる、そのように仕組まれている、そんな作品だと思いました。
1限りなくリアルな世界を感じたのですが。 導入部では若干そのリアルな世界から何かを取り出して異質なものを展開していくのかなと思ったのですが、そうでもなくて、この年代の親子にありがちなエピソードが、それ程丹念にという訳でもなく語られていったというような印象でした。
0吸収さん、コメントありがとうございます。 > 正直言えば今回のような作品の方を俺は応援したいとは思うけど、 『わたしはうさぎをたべたとき』 とかの文体そのものの瑞々しさをどけだけ維持できるかだと思います 小説と言うか長ければ長くなる程、結局文体が良くないと読めなくなるし そうですね、わたしもその通りだと思います。 > 俺は良いとは思ったが、ビーレビでこの作品を公開するメリットがそこまであるかどうかは疑問もあるな ちょっとガチ目な感じがしたので。 上引用二つから、つまるところ文体と話題の選択、そして文体と話題が噛み合っているのが大事だというのも言えると思います。そこを考えられないと、ずっと今のままなんだろうなあと。文の密度も以前ほどではないけど、やはり後半に行くにつれ下がっているし、やはり一発書きをやめるときが来ている。書いてある内容は別に私のことではない創作ですが、ならなおさらもっと必然性やこだわりがいるはずなんだけど……。と思います。お悩み相談所に来た人みたいなコメント返信ですみません。いつもありがとうございます。
0内容については言えるほどの知識もないのですが、長いという印象はなかったです。ただ、この分量と文体であれば縦書きのほうがいいんじゃないかなと思いました。勝手な印象ですが、そっちの方がイメージもわきやすいんじゃないかと思いました。
01.5Aさん、コメントありがとうございます。いただいたコメント、昨日から何回も読んでます。 自分の中では、祖母、母、子についての物語を書きたいきもちがあるので、いつかこの「無題」という文章の一部もリサイクルされ、長い文になって帰ってくると思います。 ()をつけてる部分にも触れていただいてありがとうございます。可読性を若干下げてまで括弧をつけてるんですが、信念なき括弧なので、気を抜くと増殖するのです。 わたしもこの文章を読むなら、平日夜よりも、土日の昼くらいに読みたい気はします。わかる。
1紅茶猫さん、コメントありがとうございます。頂いたコメント、無題というこの文章を的確に表現していただけた感じがあります。試みとして、いろんなことが失敗したので、読んでもらえてコメントもらったことがまずありがたいです。
0佐々木春さん、コメントありがとうございます。横書きが読みやすくて好きなのと、()を多用しているため、横書きにしています。
0母と子の微妙な関係をうまく表せていると思います。これは詩としての体裁を保ちたかったのだろうが、まず読みづらい、携帯とPCじゃまた随分見え方が違うから、仕方ないけど。そして導入が店についての記述がとても長い。序盤丁寧にていねいに書いてあり、後半母親とも関係を考慮してばっさり書かれていると言ってしまえば納得するしかないのですが、どうしても息切れを起こしたようにしか思えなかった。例えばこの娘が店の外観をとてもよく見ているということは興味があることがら、しっかり見ているということだよね。逆に母親にたいして興味が薄い、じゃあその分自分の心象に対し書き込めることがたくさんあるのではないだろうか、それを詩的に操作することで、飽きさせず、かつ引き込ませ、母と子という普通に有り得る壁みたいなものを、より読ませるように変化させることができるのではないだろうか。そして手法として、時系列に書くのではなく、織り交ぜて書くこともできるとおもうし。店につくまでの話だけでも、母親との会話で上の空感を出すのなら途中に盛り込んだり、帰りにそういえばという形をとってもいいんじゃないかなと。1発書きでここまで広げられるのなら、この娘についてもっと覗いてから、書ける範囲隠す技法、後に見えてくる伏線なんかも考慮すれば、もっと素敵なものになるかなといった感じです。まずは本筋を決めてから調整することをおすすめしますけどね。まだまだ書き進める予定があるみたいなので、楽しみにしています。なんか偉そうにすいませんでした。
2思ったことを手短に追記します。それから、です、ます、を使うと伝えたいことが書けない感じがするので省略させて頂きます。すみません。 序盤の()はなくてもいいと思う。なくても十分読むことができるし、意味が通じる。そもそも()って、心の声とか傍の文章の補足とか不思議さの演出みたいなことで使われる場合が多い。だから「光/ひかり」の()の使い方は自然だし成功してる。これは必要性を感じる()の使い方だと思った。「無題」の最後の方にある、(物理的-精神的)、ここにも()が使われていて、表現としてはストレートだと思う。綺麗に納まる。でも(物理的-精神的)と書いてしまうのはストレート過ぎるが故、奥の手という感じも否めない。物語が終結に向かっていく中で、次第に()を増やしていくというやり方もある。そうすることで物語とは一見関係のない()の多用に、意味が生まれる。ように見える。物語の進行とは関係なく、()が独りでに増殖していく感じは、それ自体面白いかもしれない思った。 >その周辺を、かざらない印象の、白をベースにした背の低い草花と、うさぎや小人の置物で装飾したかんじの良い庭で囲ってあった。 建物の周辺についての説明。これは必要かなと思った。作品があってそれを構成する要素を大まかに分けると、①必要な文章、②不必要な文章、③不必要な文章の中にある不要な文章、になると僕は思う。建物の周辺についての説明は③に近いように思う。多分、こういった文章(説明)は読者のために書いてあって、書き手(自分)のために書いた文章ではないので、そういった文章は削ることもできる。つぶさに探していけば他にも見つかるかもしれない。 2連目のボリュームはもっと増やされてもいいかなと思った。この連は、「わたしはうさぎをたべたとき」、その要素が色濃く残っている。それは作者の方が(コメント欄で)提示された通りで、この連が本作の源流になっているから。ただちょっと、1蓮目に全力投球をされている印象が大きく、その反動で2連目に物足りなさを感じた。ここをボリュームアップ(父や祖母父を登場させてもいいだろうし、「私」という視点を他の人に展開されてもいいかなと思う、やり方はたくさんありそう)させることで、他の連との釣り合いも取れてくると思う。あとは「光/ひかり」を推敲された時も感じたことがあって、(推敲をされることで)、それは読者にとって読みやすい文章になりすぎてしまっているということ。できる人が、できない人の分まで率先して作業をしてしまう感じがある。筆力のある方だからこそなのかもしれないけれど。例えば「わたうさ」や「光/ひかり」みたいな物語を何個か作って、その糊代?に塗る糊のような役割を持った連も何個か作って、それらを貼り合わせて一つの作品を作るという方法もある。短いイメージから作品を拡大しようと思うと、往々にして間延びが発生すると思う。ちょっと面倒くさいけど、文章量を増やし、間延びを減らし、作品に厚みを持たせたいという時に使える方法かと思う。 手短ではなく色々になってしまいましたが、この作品に僕が一番関心を惹かれたのは、現実感を保有したまま物語が進んでいくところでした。それからすり切り一杯の水が入ったコップを手で持ちながら、あるいは持たされながら、作品の森をひとりで彷徨い歩くようなぎりぎりの感覚が、この作品に付与されていると思います。例えば途中で、狂気の方向に転換することもできたと思いますが(その方が簡単に物語を綴っていくことができると思うから)、でもそれをせずに終始一定のトーンで物語を完成させられたところに、作者の方の凄みを感じました。次はどこにコップを置かれるのか、楽しみです。
1A・O・Iさん、コメントありがとうございます。 >逆に母親にたいして興味が薄い、じゃあその分自分の心象に対し書き込めることがたくさんあるのではないだろうか、それを詩的に操作することで、飽きさせず、かつ引き込ませ、母と子という普通に有り得る壁みたいなものを、より読ませるように変化させることができるのではないだろうか。そして手法として、時系列に書くのではなく、織り交ぜて書くこともできるとおもうし。店につくまでの話だけでも、母親との会話で上の空感を出すのなら途中に盛り込んだり、帰りにそういえばという形をとってもいいんじゃないか 参考になります……!店に入ったところで息切れしたので、後半は、もうダメでした。こちらのコメントを、書き直す前、書き直しのアイディア出しの段階に何回も読み返してから書き直してみます!できることまだまだあることが分かってうれしいです。いつも丁寧に読んで、その上コメントをくださるのがありがたいです。A・O・Iさんの姿勢から色々学ばせていただきます。コメントありがとうございました。
11.5Aさん、再びのコメント本当にありがとうございます。()についての区分など、とても参考になります。別の拙作も例として引いていただけて感謝です。 >物語の進行とは関係なく、()が独りでに増殖していく感じは、それ自体面白いかもしれない思った。 ここ読んで、一瞬笑っちゃったのですが、この試みが成功したらすごく良いものになる気がしました。 >でも(物理的-精神的)と書いてしまうのはストレート過ぎるが故、奥の手という感じも否めない。 (物理的-精神的)は私も、ストレートかつ、説明すぎたかなとおもいます。こう書いたら、それ以上のものが想像できないというか。お母さんの住む家、生家、暮らしている街、友人など人間関係等、描写することで示唆できる部分を一語でパッと置き換えているのが安易だなと。これは本当にやりがちなので、描写を重ねていける人は強いなとおもいます。 >「わたうさ」や「光/ひかり」みたいな物語を何個か作って、その糊代?に塗る糊のような役割を持った連も何個か作って、それらを貼り合わせて一つの作品を作るという方法もある。 そういう作品はほんとうに素敵だなと思うし、目指したい方向の一つです。迷路を真上から俯瞰で見ると、スタートからゴールするまで行先は分からずにうねうねしているような。 いただいたコメントの後半、コップの例えがうつくしくて、もったいないと思ってしまいました。わたしが張り詰めた人間性の持ち主であることが露呈していて恥ずかしくもあります。書いたものには、本当に人間が出ますね。 コメントを咀嚼して、これからの創作に活かします。コメントありがとうございました!
1