『平家物語』は、その名のとおり平家について書かれた物語です。栄華を極めた平家が瞬く間に滅びに至るその物語は琵琶法師によって語り継がれ、歴史の時を超え私たちに強い感銘を与えてきました。和漢混合文によって記されたその物語は、語り物という性質から比較的、口語文に近い言葉によって著されており、現代人にも読みやすいものとなっています。
平家物語の成功の理由は、どこにあるのでしょうか。それはまず、物語として平家の盛衰のみに絞ったところに最大の要因があると言えます。次に、素材の素晴らしさです。物語られる治承・寿永の乱「源平の戦い」は、保元の乱や平治の乱のように京都周辺に留まるものではなく、北は蝦夷「東北」から南は鎮西「九州」に及ぶ全国規模の初めての内乱であり、また、貴族政治から武家統治への時代の転換に至るものでした。
私たちは、歴史の授業での平家が滅亡した理由として、その貴族化と柔弱化により武士から見限られたと教えられることが常ですが、決してそのようなことはありません。権力への執着と頼朝に対する復讐を遺言する清盛は仏教の教えからみると罪深いものではありますが、不世出の英雄であることは間違いなく、平家の公達や家人は和歌を嗜む優美さを備えていましたが、同時に勇猛果敢な武将でありました。決して合戦において臆するところがあったわけではありません。『平家物語』には魅力的な武人が多数登場しますが、その多くは平家の公達であり、その家人です。源氏において私たちを魅了する武将は頼朝と義仲のみであり、義経でさえ決して肯定的には描かれていません。『平家物語』における義経の評価は平氏のより粕にもなお劣れりとされています。義経へのいわゆる判官贔屓は『義経記』によるものです。
では何故、平家は源氏に敗れたのでしょうか。それは、平家の軍制にあります。源氏の主従数代に及ぶ契を持たない平家は兵を全国「主に平家の基盤である西国」から駆り集めることしか出来ませんでした。そのような俄か武士を駆武者と言います。駆武者は本来の武士ではありませんから、実戦では役に立たないものでした。また、東国武者と西国武者の違いについては、富士川の合戦における実盛の言葉に現わされています。
「大将軍権亮少将維盛、東国の案内者とて、長井の斎藤別当実盛をめして、「やや実盛、なんぢ程のつよ弓勢兵、八ケ国にいか程あるぞ」と問ひ給へば、斎藤別当あざ笑つて申しけるは、「さ候へば、君は実盛を大矢と思召し候歟。わづかに十三束こそ仕候へ。実盛程射候物は、八ケ国にいくらも候。大矢と申す定の物の、十五束におとッて引くは候はず。弓のつよさもしたたかなる物五六人して張り候。かかる精兵どもが射候へば、鎧の二三両をもかさねて、たやすう射通し候也。大名一人と申すは、勢のすくない定、五百騎におとるは候はず。馬乗つつれば落つる道をしらず、悪所を馳すれども馬を倒さず。いくさは又親もうたれよ、子もうたれよ、死ぬれば乗越へ乗越へ戦ふ候。西国のいくさと申すは、親う討たれぬれば孝養し、忌あけてよせ、子うたれぬれば、その思ひ歎きに寄せ候はず。兵粮米つきぬれば、田つくり、刈り収めてよせ、夏は暑しといひ、冬はさむしと嫌ひ候。東国にはすべて其儀候はず。甲斐・信濃の源氏ども、案内は知つて候。富士の腰より搦手にや廻り候らん。かう申せば君を臆せさせ参らせんとて申すには候はず。いくさは勢にはよらず、はかり事によるとこそ申しつたへて候へ。実盛今度のいくさに、命生きてふたたび都へ参るべしとも覚候はず」と申しければ、平家の兵共これ聞いて、みな震ひわななきあへり。」
平家は、富士川、倶利伽羅峠、一ノ谷、屋島の合戦に相次いで敗れ、遂に壇ノ浦を迎えます。ここではまず、平家の中心である知盛の兵を鼓舞する叫びをお聴きください。
「いくさはけふぞかぎり、者どもすこしもしりぞく心あるべからず。天竺、震旦にも日本我朝にもならびなき名将勇士といへども、運命尽きぬれば力及ばず。されども名こそ惜しけれ。東国の者共によわげ見ゆな。いつのために命をば惜しむべき。これのみぞ思ふ事」
平家は当初は優勢でしたが、義経による非戦闘員「舟の漕ぎ手など」への攻撃を行う戦の常道に外れた戦法により遂に最後を迎えます。そして、壇ノ浦の戦いに敗れたことが確実になった時、初めて安徳天皇が登場し、二位の尼の「波の下にも都はそうろうぞ」との言葉と共に波の下に沈みます。安徳天皇は平家の旗印であると共にその象徴であり、安徳天皇の死と同時に平家の命運は尽きたのでした。
平家の最後を知った知盛が言います。
「見るべきことは見はてつ、されば自害せん」
知盛は何を見たのでしょうか。それは壇ノ浦の合戦だけではありません。平家の隆盛から滅びへの全てを知盛は見たのでした。
『平家物語』には、平重衡と千手の前の出会いなど感慨深い挿話が他にも多くあります。是非、皆様には『平家物語』の世界に親しんでいただけたらと思います。
最後に私の好きな平重衡の和歌を。
「さざなみや 志賀の都は荒れにしを 昔ながらの山桜かな」
作品データ
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作成日時 2024-01-28
コメント日時 2024-01-28
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2024/11/21 23時23分15秒現在
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