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雑踏の中に紛れ、許される罪の欠片
素晴らしい詩を批評すると、紹介に終始することがある。 他者に依存して、私めはそれを紹介しているに過ぎないと控えめな態度を取るのは、果たして謙虚であろうか? 私は違うと思う。 貴方は批評を通してなにを語りたいのか? 時に批評の対象からずれ、お話が脱線してでも、表現したいものがある批評家こそ、私は批評家だと思う。 淀川長治も、渋谷陽一も吉本隆明も、一流と言われた批評家は、表現者でもあった。 対象との距離感という点で、私は特定のユーザーの贔屓批評は決してしない。 あくまで軸が自分にある。主体性を決して放棄しない。批評の対象にしたい、詩を選ぶのは、気分だ。 その時々で表現したいものが変わる。 雨が降ったのを降って、その様子を伝えるように、対象となる作品を選ぶのではなく、雨が降ったのを見て、その様子を伝える時に、丁度いいサンプルとして、作品を選ぶ。 私は統合失調症者をこの目で誰よりも沢山見てきた。 そこで見た、人々の美意識の欠如。社会というものの更に輪をかけて、自分たちも落ちればこうなるという思いを隠そうとすらしない、その態度。それが優しさの仮面を被った軽蔑と見下しであると知るものなら、 障害者バブルなど、見下しから生まれる情けで、乞食が銭を受け取るようなものだと理解できるはずだ。 体育館で唾をする男性がいる。知的障害者だ。 この男性がやたらもてた。デブッチョで、素っ頓狂な声を出すのが面白いのだと言う。 これは本来田舎っぺの発想で、都会ではこう言う面白さを野暮という。 男も女も建前が崩れればすぐに美意識のなさが露わになる。 少ない言葉の中でなにかを伝える。そのシンプルに感じて欲しいと表現者が願う時、そこに文章の熱を見ることは稀にある。この中で読めるのは、作者の彼が夢の中にいるというような、熱。 しかし、表現者はそこから出て客観視をし、うまく様子を説明する必要があるのではないか? 三行目で統合失調症の単語が出た時、これをどう受け止め、頭の中で処理すべきか私はわからなかった。 一行目と二行目との、物語的文脈のつながりを見出すことはとても難しい。 女は人気があって、自分に優しくしてくれる男性なら、屁でもうんこでもなんでも許す。 どんな男とでもやる。女に美意識を求めることはとても難しい。 強いていうなら私は、しっかり男に媚を入れられる女性が好きだ。 屁でもうんこでも、人気があればなんでもいいという種のものが、知性と想像力に敬意を払えないようでは、困りものである。 私に構ってほしいと女がいう時に、私は放っておかれても平気ですと言えない謙虚が悲しい。 ちっとも可愛くない。人間の仮面を被った猿の愛想を、皆で歓迎している。化けの皮を剥がすロッカーや表現者は、もう、いないのだろうか? この五行の中で語られる熱は、とても言葉では表しきれない。 時代は不景気を装いながら、第二のバブルを迎えている。 社会的不遇者。落第者。力なき者による適当バブル。 物事を真剣に考え取り組む人間には、厳しい時代である。 経済的にも、自国産業は衰退を迎え、被る打撃は、人々の医療依存と福祉依存によるダブルパンチ。カウンターは極度に少なく、その締め付けは厳しい。言論統制バブルであり、被害感情バブル。福祉界と医療界は笑いが止まらない状況である。 未来この文章を振り返った時、その中に誰もが雑踏の中に紛れることで許される罪の味に思いを馳せずにはいられない。 「雑踏の中で許される罪の欠片集めて、宝探しに行こう」 そんなフレーズが、何故か頭をよぎる。
雑踏の中に紛れ、許される罪の欠片 ポイントセクション
作品データ
P V 数 : 377.7
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作成日時 2023-12-10
コメント日時 2023-12-10