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弱くて強い自分
私は何者なのか?」が分からないというのは(という謎があるということは )、自分というものを捉えどころがないとつねづね感じている僕にとって、いたく共鳴できる感覚だった。 そしてその感覚は僕において、「(自己)表現する」という営為によって、より強められているように感じていた。 内面の葛藤や揺らぎがあるからこそ書く、というよりは逆に、何か書くという目的に添うように内面が造られているかのような感覚。"まさにこれこそは表現すればさまになるような感覚だ!"という「ピッタリ嵌った感じ」を拾うために張り巡らせているアンテナがあり、「切実な内面」とはつまるところそれ以上でもそれ以下でもないのかもしれないとすら思うことがある。つまりはどこまでも他者の視線を意識した、いわばポーズとしての内面というか。 書けば書くほど自分が深まっていくどころか、書けば書くほどに自分が拡散していってしまうような、なんとももどかしい浮遊感。しかしもしかすると、「自己を深める」という、この一見至極まっとうな紋切り型こそが、実はかなり怪しい発想なのかもしれない。 そもそもを言えば、他者の視線なくして心はない。最も私秘的に思える内省や祈りといったものたちすらも、ほかでもなくそれらに沈潜している己の自尊心―つまり"内省的"と評価され得る行為を成しているという己の自尊心―と切り離すことはできないのではないかと勘ぐってしまうのは、僕の精神が幼いからだろうか? だとしたら、僕は開き直るべきなのだろう。他者に植え付けたい自己イメージ―それも漠然としたもの―のためにこそ僕は書いているのだ、と。書いてきたし、書いてゆくのだと。とはいえそれとて、―現にいままでそうだったように―次々に移ろっていってしまうようでは前途多難にも思えるのだけれど。 それでも、書き溜めてきたものの最中から、ささやかながら「芯」のようなものが浮かび上がってきていることも、また感じている。深まったのではない。ただピタリと似合う衣服が見つかった折のようにささやかな、でも当分去ることはなさそうな高揚を感じていだりする。 「弱くて強い自分」―それをこそ僕は、みなへと見せたい。謎は解けたと言えるのかは分からない。だけど少なくとも、自分というものを巡って"しっかりと"浮遊し続けてゆくことはできそうだ。ゆらゆらと自在に揺れるためには、力強い羽ばたきがいるのだろう。
弱くて強い自分 ポイントセクション
作品データ
P V 数 : 494.9
お気に入り数: 2
投票数 : 0
作成日時 2023-11-22
コメント日時 2023-11-22
捉えどころのない自分を捉えどころのない「言葉」で表現するということは、一見相性が良いようでその実最悪であるような気もします。 ノイズの多さから言うと、絵画や音楽に比べ圧倒的に多いと思うからです。 それでもこの表現方法を手放さない人が多いのは、そのノイズにも何か役割があると思っている人が多いからなのかなと思います。
1訂正します。 言葉はずばりそのものを指すので、捉えどころのないという表現はおかしいですね。 言葉を用いて捉えどころのない自分の鉱脈を何とか探りあてるその過程にひかりを当てた考察かと思います。 ふわっとした解釈をそのまま書いてしまいました。 失礼致しました。
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