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サービスとしての人生
「サービスよ、サービスしてあげたのよ」 すぐ隣の席の女がこう言うのが耳に入った 僕は一人、ブレンドコーヒーを飲んでいた 人の多い街の一隅にある、ほぼ満席のカフェ 時空は人声と思案に占められて 少し離れた所にいる客の声やらはもう分からない ただ注文に応える店員の声は聞こえていた そしてすぐ隣の席の女二人の会話くらいは聞こえた 「サービスよ、サービスしてあげたのよ」 どうやらこの女は 或る男に会ったことをサービスだったと言っているらしい 僕はその或る男はこの女の元カレなのかなと想像した サービスという言い方は嫌だと思った この女は自分が男に何かを与えただけだと思っているらしい でも人間関係ってやつはそうじゃないだろう? この女はまるで男から何も受け取らなかったかのようなのだ 心から出て、心に回収されない気持ち 悲しいな、段差だらけのコミュニケーション 現代、心を伴わないサービスが跳梁しているようだ あげたあげた、してあげた、 会ってあげた、愛してあげた、抱いたり抱かれたりしてあげた、 売ってあげた、買ってあげた、育ててあげた、生きてあげた 僕の耳に聴き覚えのある音楽が流れ込んでいる このカフェの天井のスピーカーから落ちてくる音楽なのか いやもはやこれは、 このカフェに集まっている大勢の客の鼓動が、 店内の空気を汚らわしく震えさせている音なのだ それは単にカラオケの曲にすぎないように感じられる そうだ、僕たちはこのカラオケに合わせて歌うだけ
サービスとしての人生 ポイントセクション
作品データ
P V 数 : 586.9
お気に入り数: 2
投票数 : 0
ポイント数 : 0
作成日時 2023-11-20
コメント日時 2023-11-21
項目 | 全期間(2024/11/23現在) | 投稿後10日間 |
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叙情性 | 0 | 0 |
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※自作品にはポイントを入れられません。
- 作品に書かれた推薦文
「サービス」という言葉への違和感や嫌悪感を綴った詩ですね。 「心から出て、心に回収されない気持ち」 という表現が、読み手により深く考えさせるような感じでいいと思いました。 サービスとはもともと「仕える」とか「奉仕する」という意味だったそうですが、今のこの社会では経済用語としての「サービス」という言葉が行き渡っていて、その言葉に対価を求める気持ちが取り憑いてしまっているのかもしれません。 そのため「サービスしてあげた」という恩を売る(売るからには対価を求める)ニュアンスで言われることが多くなったのでしょう。 様々な共同体がなくなって、それらが担っていたサービスが経済のシステムに組み込まれてしまったことが、このような状況を生んだ原因のように思えます。 ちなみにサービスという言葉の語源は、ラテン語で「奴隷」を意味する「servus」に由来するとのことです。 店内の空気を汚らわしく震えさせているカラオケとは、経済システムの奴隷の歌なのかもせれませんね。 面白い詩です。
2お読みくださりありがとうございます。作品の舞台はカフェ、しかしこれは実体験ではなく、たまたま描きやすかったので、そう設定しました。カフェではいろいろ他人の会話が漏れ聞こえてくるものです。ここ一、二年、私は「自由」をテーマにして読書をしてきました。これからもしばらくはこのテーマで読書するつもりです。サービスは商業的には今のままで良いかとは思います。或る種、サービスは演技のようなものであって良いと思います。サービスには対価が支払われるでしょう。しかし人間的な事柄にまでサービスが侵襲してくると、言いようもなく悲しいものです。たとえば恋愛とか。こうなると人間は奴隷です。気持ちの行き来がない人間的事柄には私はノーです。そんな問題意識から、今回、筆を執ってみた次第です。
0拝読をさせて頂きました。 人間関係や、精神の機微、一寸した違和感への鋭利な視点は、特筆すべき美点であると思いました次第でございます。 サービスをして「あげた」、此れは子育てをして「あげた」と謂う意識とも通底をする感覚とも思われますが。 斯うした偽の「無償の精神」が闊歩する所以となりましたのは、やはり自由資本主義の弊害なのかな、とも。 字義の通りでございましたならば、「自らを、自らの由を以て資本と為す」、ということでございますから。 資本=貨幣経済ならば、自らを進んで貨幣価値(「いいね」ボタンも然り、)へと交換する、思想の顕現が垣間見れますのが、現代、なのかも知れません。
1お読みくださりありがとうございます。偽の「無償の精神」、なんでもかんでもただサービスと成り果てる今日のありさま、何かしてあげたら対価を期待する傾向、こういうことを書きたかったわけですが、なかなか難しく、経済的もしくは商業的な事柄と人間的事柄とをどう区別するかの問題は残ると思います。拙作、突き詰めれば論理的に書けているか私自身不安を感じるのですが、深く考えず、サラッと読み切って何か感じていただければそれで良いかと思っています。
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