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あの日のイエローガーデン
「人生は1人旅なのよ」と、女流詩人は言った。 僕は気高かった彼女のその、瞳の奥のうっすらとした哀しみを、探っている。 ピリッとした晩秋の朝だった。詳しい話の流れはとうに忘れてしまったのだけど、イチョウの並木道をゆっくりと2人歩いていると、彼女は半ば唐突に、誰にともなく呟くようにそう言ったのだ。 敷き詰められ延び拡がった、そんな鮮やかな黄を見ていると、泣きたいくらいに幸せだった。彼女ができて2人になろうと、ずっと1人だろうと、僕は一生幸せ者なんだという気がした。僕も世界も、幸福に包まれていた。そんな中、彼女だけが哀しみを纏っていた。厳かで張り詰めたような、哀しみを。 あんなにシャキっと背筋を伸ばしながら顔に哀愁を宿す人を、僕はあの日以来見たことがない。月が似合うと言っても、雪が似合うと言っても、陳腐になる。この世界の全てのものに似合わないゆえに、逆に何にでもそれとなく合ってしまうような、そんな奇妙に存在感のある女(ひと)だった。 あのどこまでも澄んでいたような瞳には、この世界の何が映っていたのだろう? たとえば夜道でふと立ち止まって、浮かび上がるスマートフォンの四角い光に、世界の秘密をひっそりと伺っているような心地がするとき。 たとえば夏のベランダに出て、大きな入道雲と自分のあいだに1本の線を引いて繋いで、この身の小さな小さな大きさに打たれるとき。 そんな折に、僕は彼女の言葉を思い出した。 ただ彼女のように凛とありたくって、誰も見ていないところでも、僕は背筋をシャンと伸ばすようになった。誰のためでもなく、ただ己のために気高く生きると、そう誓うように。 そうして長い冬を越えるようにこの身を抱きながら、月の優しい近さに頬を緩め、雪の白を胸に焚べて暖を取るようにして、歩いてきた。しかしそれでも、彼女の言葉の含意を汲み尽くせたとは思えなかった。 僕が何よりも孤独を感じるのは、不思議だけれども、大切な人たちの存在をじんと感じる折のことで。 星が瞬いている。僕が星の瞬きを見ているこの時に、みなは何をしているだろう? 静謐に数式を解いている?テレビをだらだら眺めている?ロマンチックな夜を過ごしてる? なんだっていいさと、僕は笑う。そんな四角い窓から漏れる光たちが、夜空へと静かに昇ってゆくことさえ、分かるなら。 あなたはいま、どこで何をしているのですか?どんな瞳で、この世界を眺めているのですか?…… それだけが分からないんだと、唇を噛んだ。あぁ、幸福という名の微睡みよ。あの日のイエローガーデンに、僕はいまも佇んでいる。
あの日のイエローガーデン ポイントセクション
作品データ
P V 数 : 1254.9
お気に入り数: 0
投票数 : 0
ポイント数 : 0
作成日時 2023-09-18
コメント日時 2023-09-24
項目 | 全期間(2024/11/21現在) | 投稿後10日間 |
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叙情性 | 0 | 0 |
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※自作品にはポイントを入れられません。
- 作品に書かれた推薦文
こんにちは。 今回もどこかに寂しげな、あるいは哀しげな感じの詩ですね。 「人生は1人旅なのよ」という女流詩人の言葉。 なぜか胸に響きます。 他の人が言ったのならもっと軽く聞こえてしまうのでしょう。女流詩人が言ったからこそ重みをもつのかもしれません。 黄色く色づいた銀杏並木は、人の心を寂しげな詩に導くものなのでしょうか。 哀しみを纏ったその人の姿を「月が似合うと言っても、雪が似合うと言っても、陳腐になる。」と、否定を重ねて表現する手法も、どこか晩秋の雰囲気に合っていていいですね。 少し話が逸れますが、仏教では究極の真理を、「〇〇でもない、△△でもない」と否定を連ねて表現することがあります。 言葉を超えたものへの指向という点では、詩の表現につながるところがあるのかもしれません。 また、夜道でのスマホの例えが出てきたとき、暗闇の中で、スマホの冷たい光に映し出された、その女性の氷のような哀しみを纏った顔の美しさを想像してしまいました。 そんな感じの描写があっても面白いかもしれません。 「僕が何よりも孤独を感じるのは、不思議だけれども、大切な人たちの存在をじんと感じる折のことで。」というところも新鮮ですね。 大切な人がそばにいない、何をしているのか、何を感じているのかわからない、そんな孤独でしょうか。 そんな孤独さに触れたところで、末尾を 「人生は1人旅なのよ」という冒頭の言葉で締めてもよかったかなと、個人的にはそう思ったのですが、これは人によって意見が異なるのでしょうね。 生きることの寂しさ哀しさとともに、生きる姿の美しさを感じさせる詩だと思いました。
0この詩は本当に、自分にとって思い入れのある作品になりました。それだけに、m.tasakiさんから心のこもった感想をいただき、心よりうれしく思います。 否定を重ねる表現については、そうとしか表現できないというような、いわば超越的な存在感を出すために採択したつもりです。考えてみれば、仏教にも超越が関わっていますよね。 詩中ではもちろん、女流詩人が超越的存在なわけですが、この女流詩人には、そのものズバリ女流詩人のモデルさんがいます(笑)アマチュアの方ですが、僕は彼女の描く詩の世界の抒情性に惹かれつつも、その感性にけして届くことはないだろうという諦念も、また抱いています。そんな彼女への憧れと諦念を、1つの詩として結晶させたいと願い、僕はこの作品を書きました。僕なりにやれることはやった―いまは、そんな達成感を覚えているところです。 しかし、m.tasakiさんも提案してくださっているように、面白みのある想像的な描写を挿入するといったことは、今回はできませんでした。切実なものと遊び心を融合させたような、そんな闊達な詩的世界を描けるよう、頑張りたいと思います。
0小説みたいなテイストの詩だと思ったのですが、イエローガーデンは向日葵の花などを思い浮かべました。1人旅と言うキーワード。幸せ。哀しみと幸せは水と油のような気がしてこの詩を引き締めていると思いました。哀愁を宿しているのを彼女に見た。彼女の瞳に世界の何が映っているのか。読み進めて行くと存在の秘密が解き明かされていくようなそんな印象を持ちました。
0こんばんは。 なかなか季節感のある作品で、言い得て妙、というのも効いており、好感が持てました。 その、稲垣足穂の小説の中の詩人が 「どこか申しわないという気持ちがなければ詩なんて書けません」 と、発言するパートが「弥勒」、でしたね、あって。 詩というのは、きっと多くの方にとって自己を肯定する、進めば感想が欲しい、褒められたい になるのですけれど、確立した、大枠の動機として、追求に追求していけば 先のことが言えると思うのですね。 そうして、この作品は自己肯定もありつつ、作品の深いところで 先に引用したこと動機、にふれている部分があると思うんですね。いいじゃないですか!
0精神科医の斎藤環さんが、佐藤優さんとの対談本で、人には「満たされない欲望を持ちたいという欲望」があるのだと、そうおっしゃっていました。 それはつまるところ、ときに生ぬるいようでもある(詩中では"微睡み"と表現しました)幸福に、満足し切ってたまるものかという、そんな反骨心のような心情を指しているのだと、そう僕は理解したのですが、それは僕にはこのうえなく身に染みる心情で、自分のことを言ってくださっていると思ったものです。この作品には、そんな僕の「満たされなさ」のありったけをぶつけたつもりです。 たしかに幸福の最中でも、ふとした折に哀しみを感じるたことはあるでしょう。しかしそれは「ホンモノの哀しみ」なのか。そうではないという認識の下、この作品を書いたわけですが、単純な真偽の対立に押し込めているという批判もあり得るところでしょう。だからこそ、"水と油のような気がしてこの詩を引き締めている"とのエイクピアさんの感想は、とても励みになるものでした。
0深いところまで読み解いてくださり、ありがとうございます。 恥ずかしながら、田中さんに言われて初めて気づいたのですが、たしかに〈僕〉の中には、彼女に対してどこか申し訳ないという感情があるような気がします。 僕は〈僕〉の、彼女の高貴な哀しみに手を伸ばしても届かない、その悔しさにこそフォーカスしましたが、その根本動機は?と探ってゆくと、彼女を差し置いて自分だけが幸福だった「あの日」の〈僕〉の胸中に兆していたであろう、「どこか申し訳ないという気持ち」に行き当たるだろうことに、気づくことができました。 その申し訳なさを背負いながら、〈僕〉はこれからも生きていくのでしょうが、それはやがて、彼女1人だけの問題ではなくなってくるのではないか。つまり、申し訳なさが、あまたの人々へと拡充されるのではないか。 人は特定の人との関わりを通してこそ、いわば人類規模の視座へと開かれる―そんな尊い逆説に、思いを馳せています。
1誤解のないように付け加えさせていただきます。田中さんへの返信で、〈僕〉には彼女に対する申し訳なさがあると書きましたが、少し言葉足らずでした。 これは詩中で、執拗に彼女の哀しみの正体を見極めようとする、そんな不可解な衝動に取り憑かれた〈僕〉の胸中に、いわば(感情の)論理必然的に、憧憬と同時に、彼女に対する申し訳なさ―仄かな憐れみと言ってもいい―の存在もまた要請される―そんな意味合いのつもりでした。つまり、憧れと申し訳なさは、どちらがより根本かと特定はできないと感じるので、根本動機という表現は誤りでした。申し訳なかったです。 それにしても、田中さんに申し訳なさという観点を示唆していただいたおかげで、自作がより陰影豊かなものに見えてきました。心より感謝いたします。
1少し分かりにくいラストシーンになってしまいましたが、"夜空へと静かに昇ってゆくことさえ、分かるなら"という箇所は、つまりはみなの幸福を願っているのだととっていただきたいです。 だからこそ、反照的に、(彼女のいない)自らの孤独、さみしさが、そっとこの身に染みる―そんな感じです。 しかしそれはあくまで幸福の中でのさみしさなので、あの日の彼女「厳かな哀しみを纏った孤独」とはほど遠いのです。
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