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ねがい
元旦へ向かって 明けゆく時間 ねがいを拾って 街を歩いてた 天神橋の朝市で 遅咲きの愛らしい和菊を買う 冬の空気はすがすがしく いっぱいに吸い込むと 冷気の匂いと菊の香 野菜の匂いが鼻をつく 旧い年から新しい年へ きょうからあしたへ 光が朝になるために 種が花になるために ねがいをかなえるために 駅前の雑踏に 溢れたねがい 街へ 駅舎へと 流れるねがい つぶやきと 呼び声 アナウンスのねがい マイクロフォンから 拡声されるねがい 訴えを呼びかけるねがい 朝日が燃えながら昇ってゆくために 冬が春へ夏へと灼熱してゆくために カンナが空へ向かって咲いてゆくために ほどいた手をもう一度つなぐために 一行の詩が眠っていたものを呼び醒ますために 薬品漬け生活用品を広く浸透させるために 非正規労働者を奴隷化してゆくために 植民国家を分断して統治してゆくために 遺伝子組み換え種子を国土深く 撃ち込むために ふたたび ねがいはかえってゆく たおやかな朝の日ざしのなかへ 郊外の駅で 電車を降り とある小さな 市民霊園まで歩く すっかり大きく育った ねがいの花を 霊前に 感謝をこめてたむけよう
ねがい ポイントセクション
作品データ
P V 数 : 900.5
お気に入り数: 0
投票数 : 0
ポイント数 : 0
作成日時 2018-01-01
コメント日時 2018-01-21
項目 | 全期間(2024/11/21現在) | 投稿後10日間 |
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叙情性 | 0 | 0 |
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※自作品にはポイントを入れられません。
- 作品に書かれた推薦文
新しい年の切り替わり、その中で寒菊、野菜などは大根や白菜でしょうかなどの描写の中で、カンナなどは夏から秋にかけて咲くので、「ために」と言う言い方で、この言い方、この詩では多いですが、描写されています。薬品付けや非正規労働者、植民国家、遺伝子組み換えなど社会環境に対するまなざしも感じられました。最後に出て来る霊前、墓参はどうしてもお盆と繋げられているので、初秋の感じは強いかもしれませんが、やはり新年もやる人が多いと思うので、この詩の締めとしては妥当なところだと思いました。
0エイくピアさま 読んでいただき、またコメントいただき、ありがとうございました!
0今年の願いはなにをたてよう?と、この作品を詠みまして通して思いおこされました。天神橋を歩く語り手の徒歩の感覚からさまざまに足の裏にはりつくような。匂い─光や寒暖の自然─声や雑踏に満ちる人工音─植物や季節の円環や垂直という時間‐空間の流れ─手、詩といった現実とのつながり─政治経済といった社会環境へのメタ的言及─。締めは同じ手により花を手向ける、たむける。わかりやすいとはいえ、不穏な感じもします。一言にねがいといえど、心に様々に絡みあうものが皆あるんだろうなと。そんなこともまた思いますね。
0湯煙さま 一途で純粋なねがいと、おっしゃった『不穏さ』のあるねがいを対比的に提示できたら、と思って書きました。 丁寧に読んでいただき、コメントをいただいてありがとうございました!
0「ねがい」と表されるものが変調していき、不穏なものまで含んでいく。その多様さ、対比が意図通り効いていると感じました。 すべてを「ねがい」と捉えていく視点は、社会のやるせなさや手強さをも風刺しているような感覚がします。 そして、墓前でのねがいという、個人的かつ「健全な」ねがいで幕を閉じたことにホッとするような、いや、実は何か良からぬ「ねがい」のために、霊前から歩きだすのではないかという疑念が残ります。実はちょっと怖い詩だなと思いました。
0緑川七十七さま 本当にご指摘のとおりです。資本主義の国なので、個人だけでなく、企業や、人の集まりの起こすことはすべてねがいに基づいています。ぼくも、怖い詩、というか怖さを多分に孕んだ世の中ですよね。 コメントをいただき、ありがとうございます!
0〈光が朝になるために〉という表現に惹かれました。種が花になる。これはなんとなく、その通りだな、と思うのだけれど、光、が朝を読んでくる、呼び出す、朝になる・・・そうか、という思いがあります。 〈ほどいた手をもう一度つなぐために 一行の詩が眠っていたものを呼び醒ますために〉 ここまでのロマンティシズムが、本当の願い、であり、真の願い、であり・・・あるいは、そうあってほしい、願いであり・・・しかし、その願いを実現する為に、経なければならないことは何か。 その後に続く(緑川さんの評をお借りすれば)不穏な願い、生きる為に「背に腹は代えられぬ」と、時に人を裏切ったり、残虐なことをしたり、見殺しにしたりする、そんな生きるための経済闘争・・・への欲望も、同時に夜明けをむかえるかのような、そんなリアリティーがありました。 光があたれば、影ができる。影の形によって、人は実体を知る。 影の持つ欲望と、光の持つねがい、両方をみたしていくことが、できるでしょうか。
0まりもさま 光が朝になるために、呪文のような、マジックのような表現をたくさん使いたいと思いつつ、この詩でひとつしか使えず、自分の力のなさ、妥協してしまった不甲斐なさを恥じます。この詩では最後の一歩手前で、『狂乱の』というほどの不穏の洪水が溢れて止まらないまでの、世の中の願いを噴出したかったので、こういう表現はすごく大事だったのですが。やはり無理なのかな、と思います。 影の持つ究極の欲望は、むしろ光に溢れた爆発ではないかと思います。光は色彩に過ぎないと思うのですが、影の究極の欲望は色、光にかかわりなく、巨大なダイナミズムじゃないかと。 イメージに走り過ぎてしまいました。 コメントいただきありがとうございました。
0仲程さま コメントいただきありがとうございます。 実は、八連のような記述がつぎつぎ列挙する詩だったのです。推敲を重ねた結果、このようになっています。
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