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いつか世界を抱き止めるために
金色の小麦畑が、どこまでも広がっている。ここはアメリカの中西部。一息ついて、遠く青空を見やる碧眼の青年に、このいま僕は自分を重ねている。彼は隣町に住む恋人の女性のことを、風と景色に溶かし込むようにして想っている。 近くにいるということは不思議なことだ。彼女はいまにも傍の道路を車で通りかかって、彼に手を振るかもしれない。あるいはもうすぐ、摘みたてのブルーベリーで溢れるボウルを手に、彼の家のドアをノックするかもしれない。それでもやはり彼にとって、彼女はある程度遠かった。その距離にいまは憩っていたい。頬に触れるそよ風に行き先を尋ねる心持ちで、ただ遥かで緩やかな時の流れに身を任せたい。 ビビッと走る電流のようなものをもたらす女(ひと)だ。彼女に会うとなると、いつ会っても、まるで初めて会ったかのような質感をおぼえるのだけど、その時には、田舎の素朴な一女性としての眼差しと、どこまでも透き通っているかのような天上的な眼差しが、何ら矛盾することなく重なり合っているのが見える。"ああっ……"と、感慨が吐息となって風に乗ってゆく。青空があって、小麦たちを抱く大地があって、そして……そして、何と形容すればいいんだろうな、彼女のことを― * たとえば50になった時、同い年か少し下くらいの彼女ができる―そんな「人生」じゃダメなんだろうかと、僕は方杖をつきながら、遠くを見やるように白壁を見る。なんとなく、閉塞感が緩和された心地がした。この感じを胸に抱いて歩んでいけばいいのかなと、この先を想うも、脳裏には「冬の13年間」というフレーズが浮かんできて。なんだか自分が、世界というものの不条理に耐え忍び続ける、禁欲的な修道士のようにも思えてきた。ゆとりと厳粛さが、交錯している。そんな暁に巡り合う女性は、しかし女神のような女性なのだろうか……と思い始めたところで、"現実、現実!"と、僕は笑みを浮かべつつ自分に言い聞かせる。幻想を裏切り続ける現実というものと、僕はいままさに和解しつつあるのだと思う。 この3年半のあいだに、ささやかながらも、さまざまな女性と関わりながら感じてきたもの―それは彼女たちの、不完全で、ときに不格好ですらある、えもいえぬ愛らしいトーンの数々だった。こちらの勝手な幻想などにはお構いなく、傲然と、この胸の連れさられてゆく地点の、その光景にこそ焦がれ続けた3年半の歳月だった。みな、見透かせなかった。意味の不明瞭な土着的な微笑みに、分からないままに呑み込まれたかった。理解できないことそれ自体に、エロスが宿っているかのようだった。 ワタシは50になりました。幻想ってやつも現実ってやつも、まあそこそこは分かりました。未来の僕はあるいは、そうやって「通」を気取ったりしながら生きているのだろうか。秋の初めの涼しげな風の中を、チャリをまったりと漕ぐように。僕はそんな気取るということの、あるいは気取りを獲得してゆくということの、それらの持つ(であろう)滋味の予感へと、風に吹かれゆく木の葉を追いかけるようにして釣り込まれる。 もう、気が合う者がいないから一人でいるのか、そもそも自分は一人でいたいと思っているのか、それすら分からなくなっている。単純に論理的に考えれば、前者だ。裏表のない、いかにも純朴な3つ下の男の同僚がいて、彼のいた頃僕は毎朝、始業まで彼と話し込んでいたものだった。しかし彼は半年ほど前に数キロ離れた別の部署に移り、結果、いま僕は毎朝一人ナンプレをせっせと解いている。他に話す者がいないというわけではない。それでも僕は彼が離れていって以来、頑なに一人を守っている。 つまりは孤独を気取っているのだろう。少なくとも僕はそこに、クールなと形容されるような、あの仄かな優越感をおぼえている。"たとえば50になった時〜"と書き出した時から、僕はそれとなく、孤独ならぬ「孤高」になっている(だろう)自身を見ていた。年をとることは、ある種の威厳が備わってゆくことでもあるだろう。 昼ご飯を食べると、いつもすぐと一人作業場に戻る。このときほど"孤独を選び取った"と感じる時はない。それはやはり寂しくこそあれ、しかし温かな崇高に満ちているように思われる。張り詰めた空気の中、どこまでも「この私」が先鋭化する。するとこの胸は、どうしてだか、えもいえぬ温かみでジンとなる。そうして僕は世界と手を繋ぐような心持ちで、けして急ぐことなく、ゆっくりと、手に持った箒で床を丹念に掃いてゆく。いまの職場に(少なくとも)50までいるとすれば、僕はそんな静謐な昼休みを、13年ものあいだ過ごすことになる。 4×13=54回もの、季節の移ろい。めくるめく季節をくぐり抜けるようにして、そうして日々というものを歩いてゆこうか。一体どれだけのものが、この手の平から零れ落ちてゆくのだろうかと、そうため息をつきたくもなる。そうだとしても、あたかも女剣士のような凛々しさで、かかる無念を、自らへの愛に満ちた諦念で、包み込むことができるなら…… 僕は女になりたいのかなと、ふと思う。どこまでもしとやかに世界を受け止める、秋そのものの「悲」のように、なりたいのだろうか。秋風が一吹きすると、50男の面に一寸、うっすらと哀しみに翳った女が浮かぶ。 いまこの胸には、26の時にYoutubeで聴いた音楽が、散り桜を儚みながら遥かなる時空へと開かれてゆくようだった音楽が、響き始めている。あの頃こそ自分は、透徹した哀しみとともに世界を見据えていたのだろうか。畳の上に板を引き、その上に小さな木の机を乗っけた、狭く簡素なパソコンルームで、いまだ見ぬ世界≒社会に恐れつつも焦がれ、あの音楽に―あの音楽だけに―来る明日を託していた、実家時代の田舎の孤独よ。いくつもの別れの予感が、時空にゆらゆらと漂っているようだった。それを前にして彼は、ときに未だ誰をも知らない者として打ち震え、またときには既に老人になったかのように、あまねく触れ合った人々を慈しみつつ振り返るように憩いもするのだった。悠久の風にそこはとなく吹かれながら、ただその黒髪の仄かな揺らめきにおいて、世界と通じ合っているかのように。 その後の10年は砂漠を行くようなものだった。特段不愉快なことが続いたというわけではない。もちろん、嫌なことのなかったわけでもない。しかしそれよりも世界が、彼が田舎町の空に架けた夢などには微塵の関心も払わなかっただろうこと、ただそれがこのいま空しい。 実際には、大切な出逢いが―そして別れが―あった。にもかかわらずこの胸は、やっぱりどうしようもなく乾いている。 最初に、圧倒的な不条理―と僕が思ったもの―があった。しかし世界は一変することはなかった。むしろ逆に、僕は徐々に現実に浸されてゆくことしかできなかった。それが"なぜ"起こったのか、それが霧もやに包まれているような別れは、果たして別れと呼ぶにふさわしいだろうか。いわば彼女は理由なく去っていた。信じて待ち続けていた僕は、別れの"いつ"を認識することすら、いまも叶わないままでいる。 "それでも風は吹いていて、それは君の好きな北国の、たとえばうららかな木立のあいだなんかを渡ってきたかもしれないだろっ"―そういや僕はほんとうに、飽きることなく北国のことばかり描いてたよなぁと、思わず笑みが溢れていた。 それは女流詩人の声だった。かつて僕はウェブ上で、彼女とささやかな関わりがあった。僕は彼女の素顔を見たことがない。ただ彼女の放った言の葉たちが、夜空の星のように瞬いているのを感じていただけだ。 何を言ってるのか正直よく分からなくって、でもえもいえぬ豊かなものが感じられて、どんなものを抱いて世界を眺めているのだろうと、そんなジェラシーをおぼえもしたものだった。 僕から彼女に伝わったものはといえば、―結局、結果としては―あたかも生の膿を絞り出したかのような、とても詩とは言えないような言葉の断片に過ぎなかった。そんな彼女に、まさかこんな仕方で励まされるなんてなぁ! 頬を撫でる風が砂漠を渡ってきたものであったとしても、あるいは殺伐とした雑踏のさなかを吹き抜けてきたものであったとしても、それでも僕は明日への歩みを止めるわけにはいかないんです。逆に北国を渡ってきたからって、それが一体どうしたっていうんですかい?どちらにせよ、僕は歩いてゆくだけなんですから。 それはこのいま通天閣の下を闊歩していても不思議ではない彼女への、ささやかな反抗のような、一瞬の紐帯。それはすぐとほどけるだろう。でもそれでいい。だからこそ好ましいのだと、僕は思った。
いつか世界を抱き止めるために ポイントセクション
作品データ
P V 数 : 653.3
お気に入り数: 0
投票数 : 1
ポイント数 : 0
作成日時 2023-08-11
コメント日時 2023-08-11
項目 | 全期間(2024/11/21現在) | 投稿後10日間 |
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叙情性 | 0 | 0 |
前衛性 | 0 | 0 |
可読性 | 0 | 0 |
エンタメ | 0 | 0 |
技巧 | 0 | 0 |
音韻 | 0 | 0 |
構成 | 0 | 0 |
総合ポイント | 0 | 0 |
平均値 | 中央値 | |
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叙情性 | 0 | 0 |
前衛性 | 0 | 0 |
可読性 | 0 | 0 |
エンタメ | 0 | 0 |
技巧 | 0 | 0 |
音韻 | 0 | 0 |
構成 | 0 | 0 |
総合 | 0 | 0 |
※自作品にはポイントを入れられません。
- 作品に書かれた推薦文
その、乾きを根底にしつつ全体的に、そのタッチが湿っている。三分の二、くらいまでボリュームを削れないかと考えつつ、思ったことは「うわっ、これ俺じゃん!」でした。それって凄いことだなと思いました。
0中盤の50云々のあたりまでは興味深く読めたんですが、その後は最後まで読めなかったです。平たくいうとつまらない後半だったと一読者の個人的な感想です。すみません。私の感性が鈍いのか、頭が悪いのかもしれません。 ただ、作風はアメリカ文学的なものがあって好みです。
0ありがとうございます。詰め込めるだけ詰め込んでしまえと、そんな心意気で書き出したがゆえの、湿ったタッチと分量なのかなと思います。 分量については、僕も読み返しつつ、弛緩気味なものを感じたのですが、といって削ろうにも削ることができなかったというのが、正直なところです。コンパクトに縮める技術、欲しいですね(笑) 共感していただいたこと、とてもうれしいです。ただその内実は、もしかすると、僕の技量というよりは、そもそもみなが悩みがちな素材を主題に据えていることから来る、そんな部分が大きいのかもしれないと思いもします。 いずれにせよ、みなが悩むような悩みをクソ真面目に悩んでいる自分は、ある意味幸福なのかもしれないなぁと、そんなことを思いました(苦笑)
1自分でも、ちょっと内面的すぎるというか、もっと言うと自己愛的な作品だと思っていたので、三浦さんのような感想が来ることも覚悟していました。 ただ自分的には、そんな自己愛に浸っている「僕」が、女流詩人の声で、再び乾いた現実へと踏み出す覚悟を―それとなく―決めるという、そんな流れが肝のつもりで、自己愛的な痛々しさは、ラストの少しおどけたトーンで緩和されているだろうと、そう思っていたことも事実ですが。 不愉快な思いをさせてしまったなら申し訳ないです。
0追伸 アメリカ文学的と評していただいたのはうれしかったです。フィッツジェラルドの「冬の夢」を、何度読んだか分かりません。
0「冬の夢」かぁ。じゃあ渇きっていうか湿度はそれ、な印象ですね。文体のね。印象で、今手元にないけれど。しかし後半のパートは非常に、アメリカ文学じゃなくてサン=テグジュペリな処理の仕方かな、と思いました。まあ、サン=デグジュペリはここまで長く、書いてなかったなぁと思いつつ、処理の仕方ですね。
0追コメ。しかしインターネットシステムによって詩人同士がコミュニケーションする、(しかも異性同士)の後半ブリッジにみうら氏が到達できなかったのは悔やまれる。おいらはなんか嫉妬?したけどね!
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