別枠表示
鬼言(幻聴)忘備録
ビーレビューが新体制になるということで、いろいろ話が進んできていた矢先、心身ともに優れなくなってしまい、三か月の入院生活をすることになりました。 この度はほんとうに申し訳ありません。会社のBOSSからは、退院後は、現場仕事ではなくて、オフィス仕事の方を任す、とのことで、これは運営のワークとの同期性もいいだろうと考えております。 今現在、やっと一日、病院から外泊をゆるされたので、自宅ノートパソコンの前で、ゆったりと書いております。呑気なものです。何より、私はテキストを何度も推敲しているときが、一番気分がいい。 さて、目下、入院の原因として、幻聴がひどいのが治らない、ということが挙げられます。 一応、本やノートの持ち込みはできるのですが、病棟へ入り、三か月間、ひたすら安定剤の調整と、睡眠、栄養のある食べ物を摂ることになりました。 入院中、禁煙が辛かったです。禁断症状が酷いときは、ひたすらノートにカタカナで、文字を書いてゆく。精神力の火が絶えないようにしたのです。 本当にリズム感を手記で鍛えるワークを行っているようなもので、内容がついてきていない内容になりました。後々、詩作の材料になると踏んでいた節があったのですが。 さて、話しは少し変わって、私の生活地域には、日蓮上人の修行した土地もあり、以前博物館で調べると多くは日蓮宗のお家がほとんどです。 浄土真宗のお寺は、山を越えたところにやっと一つあるくらいです。 そして私の父方が浄土真宗なのですけれど、入院して、浄土真宗本願寺派の礼拝聖典など持ち込んでいると、非常に複雑なこころになりました。 なんといいますか、土地柄、日蓮宗、法華経というものを、みんな頑な「守っている」といいますか、何も語らないのですけれど、真宗の聖典の頁を開き素読する、こちらのこころは複雑です。 そして、今、じぶんの聞いている、幻聴、この声が、日蓮宗徒の母方の、祖先の声である、ということが一層、わたしを複雑なこころにさせるのでした。 その、病棟での長い読書時間、一番「あっ」と思ったのは、司馬遼太郎の「歴史と風土」という文庫本です。 司馬遼太郎さんも浄土真宗のお家だったのですけれど、司馬遼太郎さんは、親鸞に親しみを抱きつつ、大抵の信仰はそうである、と前置きした上で、親鸞は歎異抄の中で、「教えの論理の糸をプツッと、簡単に切ってしまう」──と書いていたと思います。 親鸞に対して「愚」か、の文字も使っていたと思います。 そして、インドの仏教というものは、数字のゼロ、0、といっしょで、無、空になるということで、日本仏教のように、お骨の信仰、又、魂といったものへの信仰は無い、とも言及していたと思います。 親鸞は、火葬ということを推した、と書いていましたけれども、火葬して、ゼロ、0、になったものが、一体なにがどうして、西方へ向かうのか、これは文庫にはっきり書いてあることなので、私が再度言及しても、同胞教団への批判にはあたらないと思います。 入院中、ともかく、本が欲しいと思いました。以前ネット詩掲示板で言及されていたと思われる、「教行信証」をこの1か月熟読しておけば、もっと親鸞のロジックに迫ることができたのではないか。 痛恨の極みでした。 そして、その幻聴の類なのですが、私は宗祖、親鸞へ軸足をかたくな持ち過ぎていたのではないか?といった反省をしました。 宗派は違えども、生きている方、亡くなっている方、その幻聴が、声が、聞こえてくるとして、その方々が今、訴えたいことがあるとして、私は病室で一人心身を休めながら、チョコレートを食べていたのです。 相当なノートをとったのですが、これらは自宅の文庫に納めざるをえない。 そして、舐め切っていた、悪かった、と、また、これは日蓮宗の作家である宮沢賢治の 詩集に、又、何回も、何回も向き合っていこうと思ったのです。 PS.一時外泊の折り、帰宅すると、佛教大学の案内来ている。しかし今いろいろと それでも手を広げ過ぎているために、資料を持っておくだけにする。
鬼言(幻聴)忘備録 ポイントセクション
作品データ
P V 数 : 839.5
お気に入り数: 0
投票数 : 0
ポイント数 : 0
作成日時 2023-07-24
コメント日時 2023-07-24
項目 | 全期間(2024/11/21現在) | 投稿後10日間 |
---|---|---|
叙情性 | 0 | 0 |
前衛性 | 0 | 0 |
可読性 | 0 | 0 |
エンタメ | 0 | 0 |
技巧 | 0 | 0 |
音韻 | 0 | 0 |
構成 | 0 | 0 |
総合ポイント | 0 | 0 |
平均値 | 中央値 | |
---|---|---|
叙情性 | 0 | 0 |
前衛性 | 0 | 0 |
可読性 | 0 | 0 |
エンタメ | 0 | 0 |
技巧 | 0 | 0 |
音韻 | 0 | 0 |
構成 | 0 | 0 |
総合 | 0 | 0 |
※自作品にはポイントを入れられません。
- 作品に書かれた推薦文
詩やエッセイというよりビーレビューには珍しい私小説が正しい気がします。(私小説は2,3くらいしか読んだ事がないのでなんとも言えませんが) ちなみにインド仏教にお骨への信仰が皆無かというと、釈迦を火葬した際の骨(仏舎利)を数多くの人が求めて、最後の方だと灰まで持っていって方々で奉ったそうなので(マハーパリッニパーナ:漢訳だと涅槃経)在家の人にはあったのかなと。ちなみに卒塔婆や寺にある塔は仏舎利を奉納した建物が原型らしいです。 また生まれ変わりや死後の行き先について釈迦が言及した部位は意外とあちこち(自分が確認した限りだと原始仏典スッタニパータ、ダンマパダ、ウダーナヴァルガ、サンユッタニカーヤ。他にもあるかも)にあり、何が転生するのかというと後の考察だと認識能力ではないのか、とか。となると全くの0にはならないと考えたかもしれないです。 最も毒矢の例え(マッジマニカーヤ:中部経典)でそういうことは考えても無駄と答えていたりしますが。 自分個人は北海道の田舎で一人で勝手に原始仏典(需要が少ないせいでやたら高価です)を通読しているのですが、 >また、これは日蓮宗の作家である宮沢賢治の詩集に、又、何回も、何回も向き合っていこうと思ったのです。 この気持ちは少しわかります。 釈迦は「善い言葉のみを語れ」と言い残しました。 言い言葉を見つけられることを祈ります。
1ありがとうございます。 まだ外泊許可が一日下りただけなのですが。また明日から一か月修養です(笑)。 内村鑑三というクリスチャンの方がまとめた「代表的日本人」という本では 仏教の僧侶では、親鸞でなく、日蓮上人が選択されています。 親鸞上人が歴史家泣かせであったということと、加えて 日蓮上人が西村鑑三にとって、師~弟子の関係で、非常に理想的な師であった 西村鑑三も日蓮上人のように弟子を育てたかった、 と指摘されているのを読みました。 それと、私の代ではあまり強調されて教科書に載っていなかったのですが 一向一揆、ですね、農民のクーデターというので、浄土真宗というのは 悪を成しても浄土に往ける、というというのですから そのようなバックホーンもあって、非常に為政者泣かせで 騒動を起こした歴史があります。 徳川家康もそうとう一向一揆に泣かされた経緯があります。 一向一揆の、一向というのは一向宗これは浄土真宗を指し、向くのは阿弥陀如来です。 宮沢賢治は農民の立場に立つのですが どうも為政者に対して、農民がいびられているとして、反抗するのか といったら、どうもそういう態度ではないというのが私見です。 東京に出て、国柱会という組織の戸を叩いていますが断られています。 寧ろ、世界が南無妙法蓮華経へ収束してゆく 自己の理想に非常に近しいものがあったろうと思いますが 多分、それは苛烈な衝動、「丁、丁、丁、殺、殺、殺」といったああいったもので その、今本屋へ行くと春と修羅が「絶望」といったコピーで 売られているのですけれど、自己を「修羅」と規定するのも伊達ではないのかな と思いました。 ともかく宮沢賢治はダイナマイトな側面があると思います。 ありがとうございます。
1コメントありがとうございます。 浄土真宗は、後生(死後)の一大事をともかく、解決して大安心を持って生きてゆく 宗旨ですので、テキストの中で、もっとそういった宗旨を強調して書かないと 不安になってしまう方が出てくるのかな、と今更不安になってしまいました。 NHKさんなどが情報を小出し小出しにしているので(泣)気を配ってしまいますが 日本にも仏舎利が伝来していたそうですね。 結局、今はもうないそうですが、あの織田信長が自分の墓より下段に 仏舎利を埋めて、自分は仏より上にいる位の「神」である、など なかなか想像するにわくわくする建造物もあったそうです。 転生といいますと、私は原始仏教はからきし疎いのですが 昔、病院デイケアにいたインテリジェントが 人間だったものが、蜻蛉に転生したとして、その認識能力があるとする、 すると、その蜻蛉は非常に困るか、といった まるで禅問答みたいな話をされてらして 煙草を咥えて、疑問符でいっぱいになったことを思いだします。 釈迦というのは一代で凄い言葉を沢山残した方でしたけれど 今もインドに行くと、インド哲学やらともかく どんどんどんどん、インドの方は「自己の智力」を語るらしく 自分が詩を読んだり、書いたりするのも そういったものへの「あこがれ(あくがれ)」があるような気がします。 よい言葉を掴みたい、といった。そして知りたい、読みたい。 ともかく、テキストを読みかえしまして まだまだ勉強が足りなく思いますので、色々教えて頂いてありがたいです。
0こんにちは。 この投稿を読んで、仏の教えの「毒矢の喩え」や「筏の喩え」を思い浮かべました。 毒矢が刺さった時はまず、毒矢を抜かなければなりません。毒矢についてあれこれ論じていたらそのうちに、毒が全身に回って死んでしまいますから。 激流を筏で渡ったのなら、その筏は彼岸に乗り捨ててゆかなければなりません。 彼岸に着いた後も筏を担いで歩いてゆくのは本末転倒と言わざるを得ません。 不完全な人間が伝えたものならば、そこに不整合や矛盾などが有っても不思議ではありません。 何のための教えなのか、自分に必要なのは何なのか、それを見極めることが肝要なのではないなと思います。 生意気なことを書いて申し訳ありません。 まずは、心身をお大事にしてください。
1こんばんは。コメントありがとうございます。 良いお言葉をいただき感謝です。 私は多くを求めすぎているのかも知れません。 薬も、多く飲みすぎると体に悪い、ですよね。 その、ともかく、自分が、分裂症である、幻聴に対しましても 因果の法則で、その原因を追究しようとする──それすらも反省すべきといいますか 「諦める」ことも肝要なのかな、とふと何度か頭をよぎりました。 但し、一か月、ベッドでノートに本に向かい、これでは さびしすぎるような気もするのですね。。。 今日はもう眠ろうと思います。ありがとうございました。
0