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存在
存在 ポイントセクション
作品データ
P V 数 : 746.8
お気に入り数: 0
投票数 : 1
ポイント数 : 0
作成日時 2023-06-02
コメント日時 2023-06-09
項目 | 全期間(2024/11/21現在) | 投稿後10日間 |
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叙情性 | 0 | 0 |
前衛性 | 0 | 0 |
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※自作品にはポイントを入れられません。
- 作品に書かれた推薦文
こんにちは。 存在ごと消えるとはどういうことでしょう。 もしそれが、存在することの意味や世界との関わり等すべてひっくるめて消えてしまうということであるなら、それはとても恐ろしいことのように思えます。 「意味を与えてくれるのが世界」 おそらく仰る通りなのでしょう。 世界を持たない、あるいは世界から隔絶された存在は意味を持ち得ないのでしょう。 ここまで書いて、ふと、神様が世界を造ったのは存在することの意味が欲しかったからかもしれないと、そんなことを考えました。 もしそうであるならば、我々の存在、我々が造る関わり、我々が残す思い出は、神様を苛む無意味の苦悩を和らげるためのもの。そんなふうにも思えます。 短いですが奥の深い詩ですね。
1存在の深みを思いますね。存在ごと消すと言うのは実効性の不可能さを思わせられてしまいます。自己矛盾ですね。「想いが残る」と言う最後の行が印象的で、存在の深みが多少は緩和されて居ると思いました。
1こんにちは、m.tasakiさん。コメントありがとうございます。 存在がなくなるというのは、現在過去未来全て存在したことがなかったことになるということです。それは不可能ですが、そう願ってしまうことの悲しさを考えました。おっしゃるように、神様の苦悩を静めるために我々が居るなら、我々が存在する意味を、自分で持つということで、神様の意志にかなったということになるのだと思います。無力なら無力なりにあがいてみるのがいいですよね。また、僕は仏教を信じているのですが、心の平安を得ることが、存在を存在にするもの、だと思っています。また、他者の存在と自分の存在、全ての存在はつながっており、幸福とはみなで平安に行くようになることだと思っています。仏はそれを実現するために一生懸命やっておられるようです。でも、いけないことなのかもしれませんが、後生はないような気もしてしまうので、そんな気持ちをこの詩に表現しました。恩を感じる気持ち、恩を返していくことが大切だと思います。
1こんにちは、エイクピアさん。コメントありがとうございます。 自己矛盾しますね、存在の非存在は。存在を消すのは不可能、もし可能とすれば、映画『ショアー』に描かれているように、誰にも存在したことを覚えられていないまでに、存在を抹消するという、ナチスの大虐殺において、そういうことがあったのかもしれません。「想いが残る」というのは、誠実に自分の意味を思ったとき、考えとして残った表現です。
0ピースと笑顔 想いが残る それが人生ですね。
1こんにちは、田中宏輔さん。コメントありがとうございます。 そういったものこそ、求めて得たもの、そして残るといいものだと思います。散り際に残すべきもの。
0おそらくですが、日々くらいことを考える人たちのいう「死にたい」は、「存在ごと消えたい」ということなんだろうと思います。自殺をすると、その人の親族や友人に迷惑がかかる。だから、そういうつながり全部をなかったことにして自分の存在をなくしたい。でもそれは不可能です。
1ウィザードリーというゲームでは、石の中に飛ばされるとロストして復活は不可能です。全てをなかったコトにするのを望む気持ちは、あるとは思うのですが、やはり、死ぬまでせめて生きようとするという、例えば『日本サンタクロース株式会社』という漫画のような姿勢を尊いと思います。一方で存在を消えたいと思う方の意向を全否定することはできませんが、僕はせめて我慢して、希望を見つけたいです。他人に消えていいよというのはあまりに残酷な気がします。自殺の否定として消えることを願うことはあるようですね。不可能ですが考えとしては可能ですね。不可能な考えでも希望する気持ちは、分からないでもないです。寂しい限りです。人間が一瞬で絶滅してしまえば、何も困ることはないのですが、実際には苦労がたくさん。生きてきてもう十分といったとき、魂を捧げるというファウスト博士のようなこともありますね。神様や仏様は、信じようが信じまいが、親として見守ってくださっています。だから修行して救われねばなりません。
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