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蛾兆ボルカ『青い空の下だと銀色の車は青い』読解一例
わたしの父が納屋の梁に首を吊った日、庭では野田藤が花盛りの佳香を振り撒いていた、鼻向けとはまさにあの花だ。だからわたしがこの語り手なら、その銀色の車のその「スミレ色」(作品3聯)を、藤色と読み替えたかもしれない。この訥弁の詩『青い空の下だと銀色の車は青い』には、希死念慮とそれへの抵抗が秘されている。ほかに幾多とありうる読解可能性については、作品コメント欄にある藤一紀氏の批評を参照されたい。わたしにこれ以外の読解は、わたし以外の人生と同じように実践不可能だ。 この訥弁は断片的な聯想で構成され、「ツムツム」(2聯)の構造を模している。次を積むためにつなげては消して、余白を作り続けた結果の「つながらなかったので消えなかったもの」しか書き残されていない。詩句が一見、意味をはかりかねるほど大きく飛躍しているのは、本心につながる肝心の部分が消されたからだ。それでも痕跡は遺っている、消しても打ち消しても否定しきれない念慮が、余白から否応なく匂ってしまう。 『青い空の下だと銀色の車は青い』(作品題名) 「真夜中の公園では/ブランコは白い」(作品冒頭) 作品冒頭は題名との対句で、明暗を分けるように対照されている。あたかも中也が『サーカス』に描いた「見えるともないブランコ」、「それの近くの白い灯が/安値(やす)いリボンと息を吐き」「夜は劫々と更けまする」。 ※引用元:中原中也『サーカス』 http://www.rosetta.jp/chuya/poem.php?id=b03 「白いブランコ」は「青い銀色の車」の照応なので、移動のための乗り物に見立てられている。その主眼は座板でなく、銀色つながりのチェーンに置かれている。街灯の薄明かりに照らされる宙吊りの鎖、芥川『蜘蛛の糸』を思わせる不穏な情景だ。「何気なく犍陀多が頭を挙げて、血の池の空を眺めますと、そのひっそりとした暗の中を、遠い遠い天上から、銀色の蜘蛛の糸が、まるで人目にかかるのを恐れるように、一すじ細く光りながら、するすると自分の上へ垂れて参るのではございませんか。」 ※引用元:芥川龍之介『蜘蛛の糸』 https://www.aozora.gr.jp/cards/000879/files/92_14545.html 「歩き疲れた道の突き当りでは そこに何が書いてあるにせよ 看板は黄色い」(初聯3-5行) 地獄絵図に次いで提示される、黄色い警戒標識。詩境が不穏一色に染まる。「歩き疲れた道の突き当り」に差す、あらゆる看板を黄色く染めるほど強い斜陽。零落。天から生き地獄へ零れ落ちる白々しい救済。 わたしはここまでの聯想から、保険金目当てに首を吊った父の遺体を思い起こし、その記憶から離れられなくなった。亡父の口から飛び出して垂れ下がった信じがたく長い、血の気の完全に失せた信じがたく白い舌に、この初聯の情景が酷似しているからだ。が。 「女の子の白いパンティの真ん中には 赤いリボンが必要」(2聯1-2行) わたしの緊迫をよそにこの超展開。どうやら前述『蜘蛛の糸』の、白蓮の浄土と血の池地獄から、あるいは『サーカス』の「安価(やす)いリボン」から、このおめでたい紅白の白パン赤リボンが湧いて出たようだ。前述の通りこの詩の構造は「ツムツム」(次段)、つながらず消えなかったものしか残っていないので、飛躍の落差がかくも激しい。(その天才的な構造と、作者の天然の性癖の、区別はつかないしつける意義もなかろう。) ひとまず、「青い車」「黄色い標識」ときて「赤」がくれば、思いつくのは交通信号機だ。(青信号が実際には緑色である問題は、次聯まで保留する。)青は「進め」黄色は「注意」赤は「止まれ」、ずいぶんうまいことを言うじゃないか。 その赤いリボンは、白皙の潔白な女の子に通っている血の象徴。その白いパンティを脱がしたがる不埒者に、この子はラブドールでなく人間だとふれ告げる赤信号だ。実際のところ、女の子の下着に経血がついていたら、たいていの不埒者は萎えるのではないか。なべて暴行は、人を人とも思わない人でなしだからできる所業なのだから。 血は穢れだ。生きるとは穢れ続けることだ。浄土は血が通わねばこそ白く浄い、生きる限りは到達しえない。 「春の空の雲を見上げて ツムツムを好きだったひとを 想ってる」(2聯3-5行) 「女の子の(青春の)白いパンティ」と「春の空の(白い)雲」のつながりは鮮明だ。その鮮明なつながりは「女心と秋の空」を惹起する、春の雲も春時雨のきざしを含んでいる。 時雨は落涙の比喩だ。ツムツムは時雨のごとく降り落ちるツムたちをつなげては消すゲームだ、再び情景に不穏の色が差す。「ツムツムを好きだったひと」へのこの想いは「赤信号」だと、例の白パン赤リボンが高らかにふれ告げている────そんな軽口を叩いていられるのもここまで。 詩の後半はすさまじく高度で、おそろしく複雑だ。一言一句が強烈に両義的で、つまり希死念慮とそれへの抵抗が鞏固に両立してしまっていて、もはや評言が及ばない。批評に説明しきれる程度の抒情ではない。 特に題名『青い空の下だと銀色の車は青い』の情景が詳述される3聯冒頭では、詩の核心がはち切れんばかりに、胸もはり裂けそうなほどに凝縮されている。 「銀色の車が 晴れた日の夕方にはスミレ色になるって 最近まで僕は知らなかった」(3聯1-3行) 時雨の落涙から湧出したスミレ色(violet)、これは地に咲く可憐な小花の名でもあり、地上からは視認しがたい雲上の空色の名でもある。地を走るはずのその車で、天まで昇ってしまえそうな、そらおそろしく両義的な昂揚感に満ちている。この鑑賞には、情報の整理が必要だ。 スミレは紫だ、青信号は緑だが、いずれも形容詞では「青い」と呼ばれる。現代日本語には色を示す形容詞が「黒い・白い・赤い・青い・黄色い・茶色い」の6種しかない、そのうち文語にも用いられる伝統的なものは「黒し・白し・赤し・青し」の4種しかない。この4形容詞で指示できる色彩は、明暗(白黒)や寒暖(青赤)の相対的なコントラストだけだ。 「赤い顔」と「青い顔」に絶対的な具体性はない、血の気が多いか少ないかの相対的な現象だから。「赤い顔」は吉兆にもなりうるが「青い顔」は凶兆にしかならない、人体は生きる限り血を通わせ熱を保つものだから。「白い舌」が「白い肌」とは基準の異なる純然の凶兆であるように。 絶対的な色彩は、もっぱら具体的な物の名で呼ばれる。これには色の恒常性が深く関与している。青い照明の下でもリンゴは赤く見える、シアン(青緑)だけで彩色された画像でもイチゴは赤く見える、脳が色覚を記憶で補正するからだ。スミレの色もそのように、主観的だから絶対的に見える。 ※参考サイト https://gigazine.net/news/20170301-no-red-strawberries/ たとえば虹の内側に含まれる紫の光は、英語で violet(スミレ色)と呼ばれ、purple(貝紫色)とは呼ばれない。purple は可視光スペクトルに含まれない非スペクトル色で、violet とは原理が物理的に異なるのだ。脳が赤と青の色覚を組み合わせて、いわば創作する紫が purple。銀色も同じく、脳にいわば創作される非スペクトル色だ。 ※参考サイト https://nazology.net/archives/87591 詩の語る「銀色の車が/晴れた日の夕方にはスミレ色になる」という現象も、おそらく青天と夕照の混ざった非スペクトル色であって、violet の可視光ではない。可視光でもっとも波長の短い violet は、上空で散乱するのでヒトの目まで届きにくい、そのうえヒトの目は構造上 violet を知覚しにくい。地上から見上げる昼の晴天がもっぱら blue であるのは、これらの事情による。 violet の散乱するスミレ色の空は、雲上まで飛んだ飛行機の窓から、運がよければ視認できる。語り手が銀色の車に見た「スミレ色」は、その記憶の反映かも知れない。飛べない車の銀色に、地上からは見えない雲上の、手の届かない天国の色を投影したのかもしれない。 「都会の水路には スーパーボールが沈んでいる」(3聯4-5行) 前段のそらおそろしいほど浮足立った光景を、塗りつぶす闇のような情景だ。カラフルでよく跳ね返る、水に沈まないはずの「スーパーボール」が、反撥せず都会の水路に沈むという比喩。反射せず吸収された虹色の可視光を思わせる。あらゆる可視光を吸収するといえば黒、闇だ。 一方でこの描写は、具体的に想像してみると、前聯の「ツムツム」に似ている。スマホの画面に降り積もるツムたちのあの弾力、水に沈むスーパーボールがもしあるとしたら、あんな感じではずむかもしれない。 するとこれは、前聯で「ツムツム」に紐付けられた春時雨の、落涙の比喩だろうか。夕日に差されて光りながら、涙が都会の雑沓へ消えるさまが想像される。かつて流れたその涙が忘れがたい、社会にも忘れさせたくないといった訴えが感得される。環境に追い詰められて、死んでしまった男性を想起せずにいられない。わたしは父を保険金目当ての自殺で失って以来、男の甲斐性とかいうふざけたジェンダーロールを、ずっと恨んでいるから。 「僕ぐらいの年頃のころ テトリスが好きだった母よ 知ってましたか?」(終聯1-3行) この「テトリスが好きだった母」との対照から、2聯の「ツムツムを好きだったひと」が故人であることが察せられる。この語り口が存命の母への呼びかけとは思えない、2聯の叙述にも哀悼がどっぷり匂っていた。 テトリスはツムツムと似て非なるゲームで、降り積もるテトリミノを消しきれず規定の列まで積み上げてしまったらゲームオーバー。それを防ぐためにミノの列を揃えては消していく構造は、死への抵抗に似てみえる。天まで届いてしまう階段を、打ち消して否定して、生きるための余地を作り続けているようにみえる。 対してツムツムは。時雨か落涙のごとく降り落ちるツムたちを、つなげては消すあのゲームは。その構造を模したと思しき、この詩の実情はなんだろう。死につながり死へ向かってしまう想いを、打ち消しに打ち消したあとかたがこの詩なら、ここには自身を生かすための言葉しか残っていないはずだ。 「一日は短くて 夜になるとブランコはみんな白いや」(作品末尾) ならばこの白いブランコは、天から生き地獄へ零れ落ちる、白々しい救済の蜘蛛の糸ではありえない。思えばこの詩は冒頭から、「銀色の蜘蛛の糸」(芥川『蜘蛛の糸』)を「白いブランコ」と読み替えていた、題名で『青い』と呼んだ色を3聯で「スミレ色」と読み替えたのとは逆に、主観的で絶対的な象徴を相対的に客観視していた。これは天から降りた蜘蛛の糸でも、天まで昇ってしまえそうな車でもない、揺らいでも戻るブランコだと。 希死念慮でまっ暗に塗りつぶされた心境にも残っている、余白。どれほどでも大きく揺らいで戻ることのできる余地、語りえない想いを沈めておける深い深い詩の余韻。この余白しかないような、骨子しかない遺骸のような訥弁の詩には、われわれを生き残す呪わしいほどの祈りが託されている。だって、天国の母が、生きている息子を天国へ呼ぶわけがない。保険金目当てに自殺した父が、娘を生かしたくないわけがないじゃないか。 ※※※ この推薦文は筆者の自己表現であり、一切の責任を筆者が負う。この推薦文にある問題は、被推薦作品の問題ではなく、その著作者には責任がない。
蛾兆ボルカ『青い空の下だと銀色の車は青い』読解一例 ポイントセクション
作品データ
P V 数 : 1755.1
お気に入り数: 1
投票数 : 3
作成日時 2023-05-10
コメント日時 2023-05-16
ヒトの感性は色々とあるものだなぁと改めて思ったな 俺は『青い空の下だと銀色の車は青い』を読んだ時なんか枕草子と 「ここは何処?わたしは誰?」て言う セリフが浮かんできたんだけどその二つがどの様に対象作品に溶け込んでいくのかよく理解できなかったので 積極的にコメントできなかったんだけど。記憶と経験値と言うか俺は上手くサルベージ出来なかったけど 澤さんは自身の経験に於いて強くフレルものがあったみたいで作品に深く潜る事が出来たのだなぁと思いました それとこの物量、尊敬に値するなぁ good jobです。 四皇 上位
2清き一票ありがとうございます。春のあけぼのようよう白くなりゆく山際すこし明かりて紫だちたる雲の細くたなびきたるのももちろん、おそらく非スペクトル色の purple であって、可視光の violet ではないでしょうね。 あこがれの読詩人がドーキンスと赤毛のアンですので、物量作戦は好みの戦術ですが、今作は時間が足りず推敲が間に合わず、回収しきれなかったネタが災いしている部分も多かろうと思います。とはいえ自信作です、なにはなくとも間違いなく最高の作品を選びました。ご参考に足りれば幸甚です。
2作者様のお褒めに与り光栄です、わたしの信条は「批評は寿司と同じでネタ七割」です。投票期限最終日まで頭が冷えなかったため推敲が間に合わず、瑕疵が多いのが無念ですが、本稿は高作の真価を掘り当てたと自負しております。さっきスマホで読み返したところ、レイアウトの悪さと文章の雑さにげんなりする程度には頭も冷えてきました。折を見て筆削し、視認性の高い正書版を作成して、ブログに収録するつもりです。 ところで本稿のクライマックスである「スミレ色」読解に用いた、色名と可視光に関する雑学のほとんどは、メビウスリングで蛾兆さん主宰の『単調な空間』(北園克衛)読書会に出席した際、予備知識として収集したものです。わたしはテクスト至上主義者ですが、批評対象から知己の作者様を切り離すのは、青い光の下でリンゴを青く見るのと同じように不可能な実践ですね。わたしが蛾兆さんから学んだワンダーが、本稿に活きておれば重畳です。
2そうですあの北園克衛です。推薦図書の詩集を通読し、北園の「黄いろい」という修辞への拘泥が目に留まった関係で、無駄なほどの予備知識が山積しました。たしか本番では(ログがないのでうろ覚えですが)結局、まったく別の観点から論じたので、まさに無駄な収集に終わったのが、本稿でいよいよ日の目をみた次第です。このような蓄積は、いわば年甲斐、若人の天才性の好対照と自負できる域を目指したいものです。 拙評に過分の評価と激励をありがとうございます。ビーレビの推薦文は個人的にとにかく、投票期間が短いのが難点です。つまりテクスト至上主義者のくせに「5票さしあげないのは作者様に失礼」という無駄な配慮に呪縛されております。この拘泥にはビーレビの顕彰システムに関する私見もからむので、脱却が難しそうですが、ぼちぼち考えてまいります。
2本当に、投票の為のコメントになってしまって申し訳ないのですけれど、その推薦者、澤様の 実体験からイントロされて、これは席に座れないと思ったのです。 だから、今三十六歳なりに、こうコメントしようしたときに、「色彩」についていえば 芥川龍之介の遺作で、あっ、「歯車」か、その作中主体=芥川?は 色というものを、非常に険悪している様子が描かれています。 斎藤茂吉の歌集「赤光」の改訂版が出たよ、なんて聞くとその「赤」に 反応してビクッとしています。 それで、自分は音楽的に、リズムに重きを置いて書いてきましたが その「浄土」の語が出ましたとき、非常に痛恨したわけです。 ああ、耳ばかりで、眼を磨いていなかった、と。 しかしこんな言葉も、全くなんとかこしらえたような意見ですから もう、投票と、他の方にも読んで欲しいという意味でのコメントですから すみません。 北園克衛というあたらしいキーの提出に、また学べると思います。 その、自分がなんでそのジメジメとした体質の近代小説なり詩を 愛読するのかといいますと、やはりその、悲劇の原因を知りたい、と それをとりのぞけば、悲劇は避けられる、という下心が少しあったわけです。 ただ最近、やはり、自分の身内に不幸があり、これは書けないのですけれど それから、ちょっとその読み方が変わったように思います。 それで、まあ未だちょっと混乱はありつつ 人様の為に尽くそうと生きて、いつか、その身内の不幸について自分で ぶつかってみたいと思います。
1すいません、補足したいので書きます。 曖昧な記憶で書いてしまいましたが その、芥川龍之介「歯車」を読みかえしたところ、作中主体は色に、神経質になっている と書き換えます。 ともかく、こういった色彩に特化した作品の系譜があることに 気づいていたようで全く気づかなかった自分がいたことは確かで 痛恨の念を覚えた、ということです。
1清き投票と的確なご指摘ありがとうございます。 >その推薦者、澤様の >実体験からイントロされて、これは席に座れないと思ったのです。 別所でほかのかたからも類似のご意見を伺い、いよいよ悟りましたが、そのイントロやあのアウトロは失敗ですね。本稿の目的は、被推薦作品の修辞がどれほど高度か明らめることであるのに、論調が論旨から乖離しすぎて語弊が深甚です。悟ったからには(ほかの瑕疵も多くどのみち必要なので)ブログで書き直します。 こうしてご指摘に恵まれるため、転んでもただでは起きずにすむのが、ネット詩の最高にすばらしいところです。 >それで、自分は音楽的に、リズムに重きを置いて書いてきましたが >その「浄土」の語が出ましたとき、非常に痛恨したわけです。 >ああ、耳ばかりで、眼を磨いていなかった、と。 わたしは逆に楽才が皆無なので詩を断筆しました。つまり詩才は楽才にほかならないと確信しています、現にミューズも辯才天も楽神じゃありませんか。 それにしてもあの「白いブランコ」にはやられましたね。全容が見えたときの快楽といったらなかった、こんな高度な修辞にはめったにお目にかかれません。しかもまったく難解でなく、白パン赤リボンの赤信号から発見がテトリスのように連鎖────まあほんと推薦文は、こういう与太話のほうが無難なのかも。 >その、自分がなんでそのジメジメとした体質の近代小説なり詩を >愛読するのかといいますと、(後略) これはさらなる与太話ですがわたしは、もし文学極道が存続していたら、いよいよ現代詩から脱却して近代詩へ回帰する方向へ向かったんじゃないか、それをぜひ見たかったとか、最近よく考えるのです。ぜひともに明治を偏好しましょう。芥川『歯車』は想定外でしたので読んでみます。
1おはようございます。 あっ、悟る、というのは・・・澤様は、新たな天地まで行きましたか。 しかし、手前勝手ですが、このイントロなりは、まあビーレビューに残るとして その斎藤茂吉が「赤光」を出した、さまざまな意見があり、自分でおもうところあり 「改訂版」を出すのですが、今残っているのは、これは「オリジナル」の方で 「改訂版」で訂正された箇所が、実は書き手がいちばん訴えたいことだったりするのかな と。 >それにしてもあの「白いブランコ」にはやられましたね。全容が見えたときの快楽といったらなかった、こんな高度な修辞にはめったにお目にかかれません。 私は、その色、というものに疎いので それをフェティッシュではないか?で片づけたが、その読者というのは、非常にこれは 読み込んでいますね。反対にそのそれを自分の言葉で書ける方が またハードルが高いので、澤様の才が生きたとして >わたしは逆に楽才が皆無なので詩を断筆しました。つまり詩才は楽才にほかならないと確信しています、現にミューズも辯才天も楽神じゃありませんか。 今月二品、提出されておりますが、ワーク、いや、アート、このレベルになると これはもはや「詩」。 自分の眼が信じられない身としても、今三百点を狙いにいって書いているので まあ、七十点くらいは言い得ているかなと思います。 そして、完備さんの推薦文とこちらの推薦文ならば、私はこちらをとります。 そういう意味でも初め、「私はこちらの席に座るべきでした」。 私も、明治又、江戸後期がポイントだと考えております。 ともに励んで下さるのでしたら、こんな嬉しいことはありません。感謝です。
1お返事が遅れてごめんなさい、ただいまブログ版に添付する画像の選択等に手間取っております。こういう一見無駄な手間も読解の深化には役立つのでして、今度こそ自信作が完成しそうな予感。はたして、 >このイントロ(中略)実は書き手がいちばん訴えたいことだったりするのかな そういう事情もあり、あのイントロは消しようがないと再認したので、形を変えて残すことにしました。ブログは序文で論旨を明瞭にし、附記で特筆すべき修辞(血の池地獄と浄瑠璃世界の対照!)を詳解もするので、語弊はだいぶ消えるでしょう。 なにせあの前提は、被推薦作品の魅力を説明するうえでも重要です。つまり、あの沈痛な詩境にあって、浮いてるどころの話でない白パン赤リボンのディープインパクト。あんな奇想(私見)を宇宙の公理とばかりに飄飄と語るあたりが、わたしの思うこの作者の真骨頂なので。 >(読解を)自分の言葉で書ける方が >またハードルが高い それは詩人と読詩人の、いわば生態の違いですね。ちなみにわたしのいう読詩人の鑑は、ドーキンスと赤毛のアンです。 わたしにミューズや辯才天はほほえまない。そこでアラクネや織女星に、テクストすなわち引用の織物の才を乞うのでした。話が『蜘蛛の糸』につながってよかった。田中さんはぜひ楽神の加護でもって、300点を叩き出してください。 * 改訂中の推薦文がトップに上がり続けるのは好ましくないので、以降の返信は下げます。拙文へのほかのご意見、また近代偏好に関するお話などありましたら、近日公開予定のブログ記事へお寄せいただけますと幸いです。
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