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死姦
人間は受け身の状態を嫌う。 なぜ人間は受け身を嫌うのか。 受け身とは他者に支配されている状態だからだ。 人間は、幼児期に、母に対して能動性を発揮することで、主体である自我を確立した。 受け身の状態は、寄る辺ない無力な幼児期へ人を連れ戻す。 巷にあふれてる、フェミニストなどを見れば明らかに受け身の状態を嫌がっている。 風俗嬢、専業主婦など、受け身のポジションに置かれやすいものほど、フェミってる傾向にある。 受け身の状態は自我にとっては危機なのである。 一方、受動性は、幼児期の状態であり、人間本来の姿でもあるがゆえに、人は受け身を嫌いながらも、受け身に回帰したがる。 もっとも能動的な職種である、社長や権力者にドエムが多いのはよく知られている。 彼らは、明らかに能動性に疲れ、受動性に回帰したがっている。 セックスの際、挿入される側のせいである女性は、快楽を伴う屈辱感みたいな感情を憶えることが多い。 昔、私のセフレが、セックスでおかされる女の気持ちは男にはわからん見たいなことを言ってた。 愛とは、無反応の受動性である。 愛とは、愛することではなく、存在である。 それは、愛するという能動的な行為ではなく、愛という状態、存在なのである。 女性の死体をおかしても、女体が揺れるだけで、屈辱感を感じることはない。 そのように、受動に対して無反応な状態を、愛と呼ぶ。 死の法悦を味わえば、君も私の言ってることがわかるだろう。 人は死ぬためだけに、死の法悦を味わうためだけに生まれてきたのだということが。
死姦 ポイントセクション
作品データ
P V 数 : 1792.9
お気に入り数: 0
投票数 : 1
ポイント数 : 0
作成日時 2023-05-04
コメント日時 2023-05-23
項目 | 全期間(2024/11/21現在) | 投稿後10日間 |
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叙情性 | 0 | 0 |
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※自作品にはポイントを入れられません。
- 作品に書かれた推薦文
なかなか地味に問題作を投稿されてきた作者ですが、久しぶりの投稿作品を読んで、根底にある思想がやはり気になるところです。セクシャルについての時流を考えれば、コメントする読者側も慎重になってしまう。一方、内容ではなくて技巧や文体の観点から評するならば、読み入らせる構造と可読性が過去作も今作もあって、どちらかというと内容よりもその方が私は気になるし、魅力を感じる。持論ではあるけれども、その文体にこそ作者が作品に残すことが唯一可能な「実態」があると考えていて。それは、そもそもの言語の源が他者と交わる為のツールにあるから。言語表現とは音楽や絵画とは違ってマテリアルが道具なのだから、「道具をどう使うか」の域を出ることはない。例えば赤色が塗られた絵は「赤」そのものなのだけれども言語表現で使う「赤」という意味を「使った」何かであって「赤」そのものではない。であるのだから、作者が表現する思念は「赤という言語を使っている(使い方•手法•技)」それにしか表れないのである。いうならば、書かれている内容や思想よりも、「書き方•仕様」にこそ作者が他者へ読ませたいそれが残っている。設計技師が図と仕様によって思想を残せるように、作者はその作品のスタイルによって残すのである。極論すれば内容はどうでもいい。内容と作者は別物なのだから、作品よりも作者に興味を持ってしまう私にっては内容はあまり意味を持たない。
2ふむふむ。 文体論に帰すれば、私の印象では、最後のその言いたいことを、逆算する形で 要は、読者を強引にリードしている印象があって、まあ、それぞれの語の定義からして 曖昧なわけです。 例えば、エゴーの訳が自我、なんですけれど、そもそも自我、なんて言葉 肌感覚でとおいんですよ。だから、僕の場合はegoにぶち合ったとき 私は、自分の周辺から言葉を捜す、ってこともやってみるわけです。 そうすっと、ああ、エゴってこれ、自我じゃなくて要は、煩悩じゃん、とか。 フェミってる、って言葉とか、逐一、とおいのですよ。要はすべっている印象があって まあそういうレトリック、説き伏せ、には当然、僕は「そうは問屋が下ろさねぇ」 になるのですけれど。 だって、そういう説き伏せに逐一付き合っていたら めちゃくちゃなことになりますよね。 「オン・ザ・ロード」ってアメリカ文学に「大先生に新思想を吹き込むな」 って台詞があるのですけど、確立した相手、読者という地盤、に対して その自分のメッセージングをしたいとして、そのつぶさな努力が足らない。 やっぱり、三浦さんが仰るように、作品自体より、それがどういう環境を得て 発話されているのか、とか、どういう方なのだろう、この方は、って方がでかいですね。
1ありがとうございます。じつは、このコメントを書いた後に武田地球さんに「俺のこのコメント、一生懸命書いたんだけど、意味わかる?」ってきいたらぜんぜんわかんないと言われ、あー誰かみうらが言いたいこと解釈して欲しいと思っておりました。 こちらの作者の作品群を過去から辿っていきますと、当初は思想性がそうは無かったと三浦はみていまして、どちらかというと読んで楽しめるエンタメに寄っていたと思うんです。ある時期から思想性が全面に出てくるようになった。でも元来からの読ませる技巧は変わらずにあるとみていて。そこが興味深いし、やはり作家性をどこに見出すかで作品の評も変わってくると思うんですよね。たしか、石原慎太郎が芥川賞かなにかの選考で選者の大家から太陽の季節について、この人間の腹の底が云々という作者の人格否定が言われてるんですよね笑。でもその作風の新しさが評価をされての受賞だったわけで。それって倫理観やらの「内容」よりもスタイルが評価された。また、人格否定と作品評価は区分出来ないことの表れでもあるという。 恭平さんも出されておりますが「読者」という存在、この存在がもっと主役になるとネット詩は更に面白くなるとみています。「書ける人」「読める人」が旧時代のネット詩の主役だったと思うんです。作者が評者でもある、合評という仕組みですね。そうではなくて、一読者をどうすれば醸成出来るか。途中を省いて三浦が現時点で辿りついた結論を申しますが、それは「教育と不良少年」なんです。理想的な在り方としてマイルドヤンキーが「この詩のコメントおもしれえー。こんな批評を俺も書きたい」ってなること。どちらかというと作品ではない。作品はわからなくてもいい。でもその作品へのコメント(批評文)を読んだら、その詩作品も読みたくなるし批評を書きたくなる環境。これがやれたらネット詩は面白くなるし、詩を書く(プレイする)ことより詩を読む楽しみがやがては文学を文化にするとみているんです。今も「読める人」は少なからずビーレビにもいる。でもその人が書いているコメントがもっと「アホな不良少年」にも届いてしまう面白いものであって欲しい。教科書は読まないけどビーレビの批評文は面白いと言わせたい。古き昔にあったロック批評の投稿雑誌ロッキングオンみたいに。思わず語ってしまいましたが、三浦はそのカルチャー化にしか興味はないんですよね。 2000年代初頭に新しい媒体だった2ちゃんねるの詩板。そこに熱狂した若者が老齢化してそのメンツがずるずる引きずってるのではなくて、新しい世代がネット詩を楽しむにはどうすればよいか。それしかないですね。余計な話になってしまい、作者さん失礼しました。でも、本作品がどう評されるか、その環境についての話でもあります。
2あっ、そうなんですか。ユリイカ! といいますか武田地球様、たいへんじゃないですかっていうかツボで爆笑してるんですけれど(笑)。 すんまへん、先の批評、もう一度練り直す?てか私の宿題はいつ終わるのだ? 現場からは以上です。
0読んでくださってありがとうございます。
0読んでくださってありがとうございます。 中身の人は、ポリコレどこ吹く風の、時代遅れとんでも男です。
0死にそうな人に優しくしたら、ときとして、死んでしまうのってこれだと思う。わからないけどアポロンさんって私はこういうふうに考えますという説明をストレートに分かりやすくできる能力を持ってるのかも。そういう人って意外と少ない。私もそういうことができるようになりたい。あと、もともとアポロンさんはどういうつもりで何の話をしてるのかみたいな。人間って場合によっては、いともたやすくタブーに近づいてしまうことがあると思いますので。
2読んでくださってありがとうございます。
0いやあ、先月の私とは思えないほど、毒舌をかましていて申し訳ない。 マジで何こいつ「田中恭平」(笑)。 >中身の人は、ポリコレどこ吹く風の、時代遅れとんでも男です。 はい。言質とれましたので、現場からは以上です。 私の思うところ「いすき」様が代弁してくれております。
0作品の批評ではなく私への個人攻撃になってますね。
1これはなかなかむつかしい問題を孕んでいて 私は、作品に、その人間性を見出す、という甘い態度でいたけれども どうやら作品とテキスト、創作物、これが全く切り離されたタイプの書き手さんも いるようだ、ということでして。 そうならば、私があたらずとも、そのテキストのみを尊重する方が これは「読者」が、あたるべきであったと、これは痛恨です。 だから、これは非常にむつかしい。 ですから、最近はその作品に対するとき、「感想です」と明記しているのですが 初読の段階で、その作品に対してコメントという形であるが リード、を入れてしまったことをここに謝ります。 ごめんなさい。 だから、私にできることは、どうやらこうこうこういう、スタンスで挙げられた 作品らしいという言質を獲得しつつ それはまっさらな目の読者に届けるという方法をとるべき、だと判断しました。 なので、投票、これはしたのですが、作品を上げます。
0あー、面白かった。
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