作品を読む
シブくてニクい
僕はこの作品に感想を長々と書いたんだけど、最初は「んー?」という感じでした。というのは、この作品の語り手(作中主体)は、何か内容のあることを語っているふうには感じなかったから。ためしに第一連を挙げてみますね。 真夜中の公園では ブランコは白い 歩き疲れた道の突き当りでは そこに何が書いてあるにせよ 看板は黄色い 「へ?」って感じなんですよね。それに、 真夜中の公園ではブランコは白い でもないんです。「では」で切って、行換えをしている。 井上陽水の「傘がない」という古い曲の歌詞に 都会では 自殺する若者が増えている という箇所があるけど(とりあえず「では」で切ってみた)、これなら意味が通って、何かの記事みたいではあるけど、「へ?」とはならない。ところがこの作品は、 真夜中の公園では で始まって、行が換わって、次につづく言葉を待っていたら、 ブランコは白い で止まる。これはなんというか、空を掴まされた感じがして、言葉としてちょっと気持ち悪い。これが、 ブランコは動かない とかなら、まあ、当たり前のことではあるけど、そんなに違和感はない。というのは、イメージとして公園にはブランコは付き物だし、ブランコは人がそれに座って動かすものだから、反対に、人がいなければ動かないとしてもおかしくないよねって話になる。それが、 ブランコは白い と、色の話になる。 仮に白いブランコがあったとして、それで「ブランコは白い」と言うなら全く変ではないけど、それなら「真夜中の公園では」という前行はいらない。 要すると、「真夜中の公園では」と「ブランコは白い」が結ばれて語られることの因果的関連が見出せなかったんですね。この作品ではこういう語りかたがつづくから、作者は意図的にこういう外しかたをしてるのかな、いったいなんだろなと思ってました。 でも、考えてみるに、「真夜中の公園のブランコが白い」って変ですよね。《歩き疲れた道の突き当りでは/そこに何が書いてあるにせよ/看板は黄色い》というのもなんか変。で、これは作中の主体にとってそう見えた(捉えられた)色なのかしら、と考えると、「真夜中の公園」も「歩き疲れた道の突き当り」も、特定性を示していると思った。なるほど、だから「では」だし、行換えしてるんだなと。 何が言いたいかというと、ある特定の時・場所・状況では作中主体にとって、Aという色がBという色として捉えられるとするなら、《真夜中の公園では/ブランコは白い/歩き疲れた道の突き当りでは/そこに何が書いてあるにせよ/看板は黄色い》というのは必然性があるよね、ということなんです。そしてそれを示すために作者による行換えがあったんじゃないかということ。 そう思うと、この作品コメント欄の田中恭平さんへの返信に、澤さんが書いているけど、作中主体は訥弁だけど、それもやっぱり必然性があってそうなっているのであって、奇をてらってとか肩すかしをしているというのではない。 実際、ほぐすように読んでいくと広がりも奥行きもあって、感想はコメント欄に書いたものの、とても完全に読めたとは言い難いし、読んだことすべてを書けたわけでもないと感じています。 にしても、のっけから「へ?」って気がかりにさせて、違和を感じさせて、そのくせちゃんと必然性に則って書かれて、読みに誘いこむ作品て、ちょっとシブいし、ニクいと思うので推薦します。
シブくてニクい ポイントセクション
作品データ
P V 数 : 745.8
お気に入り数: 0
投票数 : 1
作成日時 2023-04-26
コメント日時 2023-04-28
コメ欄の重厚な批評と打って変わって、推薦文は批評裏話とは心憎いですね。あんな濃い批評をコメ欄に出してしまわれて、推薦文をどうなさるおつもりなのかと杞憂していた(すなわち推薦文投稿は当然の前提である)ので、なんだか虚をつかれました。考えたら推薦文の最重要は、なにをおいても広告なのですよね。 文中でのご言及ありがとうございます。あのコメ欄ではわたしも、新天地が開闢した気分になりました。田中恭平さんのおかげで、予定のなかった拙劣技術論を開陳する機会に恵まれ、こうして藤さんの鑑賞裏話を拝見して、自分の無自覚な読解傾向を、いよいよ自覚したところです。 >最初は「んー?」という感じでした。というのは、この作品の語り手(作中主体)は、何か内容のあることを語っているふうには感じなかったから。 逆にわたしは初見一発目から、一切の不可解なく詩境に没入したあげく、父の自殺の現場を思い出すなどの聯想過多で泣いたのですよね。いまよくよく考えると、なぜ突然没入できたのかわからない。 >「真夜中の公園では」と「ブランコは白い」が結ばれて語られることの因果的関連が見出せなかったんですね。 この初行の飛躍が大胆すぎて、読者がしょっぱなからつまづく蓋然性が高い、というのが、あえて挙げるならこの詩の構造的な弱点なんだろうと、いまさら思いました。逆に言えばその弱点を忌避している限り、つまり読者の無理解を恐れている限りはですね、よい文章は書けないのだろうと、改めてつくづく思いましたね。
2詩を読むことの厄介なひとつは、読み始めるや「この作品は何を語ろうとしているか」という考えが、つい働いてしまうってところですよね。書かれていること以外に作品の言葉が語っていることはない、と思っているのに、気づくと何かしらの意味内容を伝えるためのものとして読んでしまっている時がある。その読み方のなかにあるのは、「意味内容を伝えるためのものなら、内容がそのまま理解できるように書かれているはずだ」という、日常生活での言語使用の意識ですね。習慣的に慣れ親しんだ言葉への考え方というか、堅い言い方をすると与えられた言語規範に染まった言語意識というか。 で、僕はつい無防備にそういう態度で作品の言葉と関わってしまっていたんだと思います。それで「ん?」となった。 推薦文では第一連を例にあげて、「では」とその前後、行換えについて書いたけど、先のような言葉への態度で関わっていたので、全体を通して「?」が続きました。いや、違うなー。「?」が重なっていったという方が近いかもしれません。 真夜中の公園では ブランコは白い (ん? どういうこと?) 歩き疲れた道の突き当りでは そこに何が書いてあるにせよ 看板は黄色い (あれ? ブランコの話は?) 女の子の白いパンティの真ん中には …… (ブランコの話は? 看板のことは?) (以下続く) 作品の言葉に違和感や疑問が生じる。ところが、次に来る言葉はこちらの疑問を解消することは語らず、またも違和感や疑問を生じさせる。読みすすめるごとに違和感・疑問が積み重なっていく。浮かんだ違和感や疑問が解消されずに、違うことが語られるから、読み手としては、当初のそれはいったん白紙にして、次にすすむけど、そこでも同様のことが起こるんです。「んー? どうなってんだー?」ってね、そりゃあ、なります。先に書いた言葉への意識で関わっていたわけだから、置いていかれた気持ちにもなる。 作品内で次々に積み上げられていく言葉、読んでいるこちらではそれを追うごとに積み上がっていく疑問や違和感。言葉が組み立てられては消え、また組み立てられては消えるっていうは、まさにツムツム的であり、テトリス的であるのだけど、こちらとしては素の状態で読んでいるから、たとえ最後の「や」で積み上がった違和感が「クリアー」されてカタルシスに立ち会うとしても、そこがわからないんです。敢えて言えば、その時はツムツム的テトリス的言語空間の中にいて体験している状態なんです。 ところが、全く何もわからないというのでもない。やっぱり何か言わんとするものがあるのは感じるんですね。よくはわからないけど、何か届いてくるものがあるのは感じたんです。それが最終行の 夜になるとブランコはみんな白いや で、とりわけ「や」の響きです。いま思えば、18音の中に置かれた5回のA音の5回目なので、その積み重ねの結果として大きく広がる効果があったのかもしれないけど、ともかく「や」には何か届いてくるものがあると感じました。 でも、当たり前だけど「や」だけでこの作品が作られているのではない。そういうところから見ていくうちに、色に関することがたくさん出てくるなとか、ここで初めて主語がでてくるなとか、言えば詩の言葉に向き合う態度が整ってきたんですね。慣れた言語意識の位置を作品の言葉の方へ近づける、みたいな。 だから、推薦文はこの後から始まるんですが、それはコメント欄に書いたのでここで繰り返すまでもないですね笑 ひとつ付け加えると、読むという行為は、疑問だとか違和感だとか、わからないとか、もやもやとか、逆に小さな発見とかを含めた言葉の体験を含むものだと思うので、こうした体験をさせてくれる作品に出会えたのは有難いことだし、それだけをもっても推薦に足るのではないかと思っています。 澤さんのおかげで今回のいちいちを考え直し、なんとか言語化することができたように思います。感謝申し上げます。加えて、当該作品の作者にも。ありがとうございます。
2