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かみありづき
頭蓋陶片のごと散りぬ商店街閑散たり 諸人去りて 誕生日十三本目の蝋燭に火は移れども 消ゆ一息に 福音書へ倒す燭台 虚の宿る蜜蝋塗れの表紙を拭ふ 梔子の実を宛がへる唇若く 聖句を愛す たよるな 恩寵一般日に焼けて印刷紙にも朝の日の影 牧夫救済を語れども脱輪の列車傾きて菜の花 聖霊のくちづたへを遂せ 主の御心を受けて鳩震へをれ 死を知り初む しらざるがゆゑ闘争の花籬に艶めきぬ唐菖蒲 イーゼンハイム祭壇画に誓ひて光倒れ戸ゆ差す 手を眺むつかのま
かみありづき ポイントセクション
作品データ
P V 数 : 1101.8
お気に入り数: 1
投票数 : 1
ポイント数 : 0
作成日時 2023-04-18
コメント日時 2023-04-26
項目 | 全期間(2024/11/21現在) | 投稿後10日間 |
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叙情性 | 0 | 0 |
前衛性 | 0 | 0 |
可読性 | 0 | 0 |
エンタメ | 0 | 0 |
技巧 | 0 | 0 |
音韻 | 0 | 0 |
構成 | 0 | 0 |
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平均値 | 中央値 | |
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叙情性 | 0 | 0 |
前衛性 | 0 | 0 |
可読性 | 0 | 0 |
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※自作品にはポイントを入れられません。
- 作品に書かれた推薦文
鷹枕可さんの実像というか「顔」がこの詩句から見えてこないことが もったいないと思うんですよね。 毎朝、顔を洗ったり、口をすすいだり、ふとみた桟に虫の骸が埃まみれでひっくり返っていたり。 最近よく思うのは日常を「作品」として丁寧に落とし込める人は傑作を書ける人なのかもしれないなと。
0レスポンスを賜り、嬉しく存じます。 主体の再現性、或は二重性を突き詰めましたら、このような作品となってしまいました。允につまらなくて申し訳ございません。 自我を抹殺したならば、普遍性を帯び得るか、と思いまして。 そも、「私が私である」という自明より、「私は誰でもないがゆえに誰でもある」という意思表示へと至る道は、誤りなのでしょうか。 そして、「確たる自己」とは。 今、オリジナリティと普遍性を巡り、葛藤を致して居ります。 透明にオルグされた飛蝗の群の一匹、より。
0こんにちは。 ここに書かれているようなものを、自由律短歌というのでしょうか。私にはあまり馴染みがないのでよくは知らないのですが。 ほとんどがキリスト教的な内容のもののようですが、鷹枕可さんはクリスチャンなのでしょうか。 私は聖書の内容にはあまり詳しくはないのですが、2番目の「十三本目の蝋燭」とは、一息で消えるところからイスカリオテのユダを表しているように思えました。 また、4番目に出てくる梔子の花言葉は「喜びを運ぶ」だそうですが、これは福音をイメージしているのかな、などと想像しました。 そして、タイトルの「かみありづき」とは、4月にはイースターがあるので、イエスの復活の月を示しているのだろう受け取りました。 解釈が違っていましたらすみません。
0レスポンスを賜り、嬉しく存じます。 イメージの、想定し得る処が伝わりました様でございまして、安堵を致して居ります。 地獄は在れども救済は無い、とは或る社会学者様の主義ではございますが、知らずに感銘を受けていたのかも、知れません。
1レスポンスを賜り、嬉しく存じます。 昔は、イーゼンハイム祭壇画を眺めながら、ヨハネ受難曲を聴くのが、愉しみでございました。 因みに、かみありづきには、出雲の外では神の不在が引き起こされる訳でございまして。甚だ迷惑な風習、と思うも頻りでございます。 私は、クリスチャンではございませんが、彼等の篤信に学ぶべき処も多くございました事も、事実でございます。 日々、信教、思想を更新しましては、過去の言動の誤りを覚える事も頻りでございます。
0氏には、親しくしていただいてその口で批評、これ褒めるというのも他人様から見てなんだか 、と思われること、置いておいて。 美しい歌ばかりだ。 ただ気になったのは >牧夫救済を語れども脱輪の列車傾きて菜の花 氏は近日、自己を客観視して、「罪人」と定義していたが そんなことを言えば、世界総、罪人になってしまう。いいや、そうかも知れないが それがインスタントな救済でもいい、念者になってもいいから 幸せになって欲しいと思う。こういう軽口は門外漢だからできる。私は反省しなきゃならない。
0お褒めに与り、嬉しく存じますが。 私自身は、凡夫でしかなく、罪多き人間でございます。 ひと時、見開かされたと誤る盲人に過ぎぬ、と自戒を致しております。 下記に、思う処を正直に、したためさせて頂きます。 信じる神が、騙す神であるのでは、という矛盾に苛まれております。 天の父とは、誰なのか。ダビデより前に出た者、モーセ、ヨセフ、イスラエル等等。 皆、罪に彩られております。 イエスが、俗世界への強い否定形として、立ち尽くし、遂には群衆の意思に基づいて丘への道を辿り、裁かれる迄。 此処に真実を巡る、一つの寓話を見出す事は容易でございましょう。 真実が誤謬へと解釈され、奇蹟がその欺瞞に充ちた結実として存続し得るしかないのならば。 魚は蛇となり、麺麭は石へと返ってしまうでしょう。 捨てられた隅の石が礎となり、人々がかのひとの口から生じた刀剣を以て万物を裁き始める時、土地には争いが生じ、天の国は地に墜ち。 膝までを葡萄酒の様な血に浸かりながら、人々の治世の終焉を、私達は眺める外には、ないのかも、しれません。 然し、一つの体制の終焉は、新しい体制の誕生でもあります。 願わくば、イエスの復活がイエス自身、そしてイエスを憎む者の上にも、呪いではなく、福音として齎されることを、祈らずにはおられません。 治世への反抗に拠って治世の平和を齎す、この矛盾が。若しや基督と、彼の教えに殉じる者達の悲願なのかも知れません。 長々と、焦点の合わぬ駄文を失礼致しました。
1焦点はバシッと合っています。そう思います。 まあ、終末があってこそ、人は、人の心は慈悲に解放されて いや、そこまでないと、人の欲望、エゴーは止まらないのでしょう。 それは、実感できます。
0ありがとうございます。 ひとの子に、義しさの止まる時は短く、それを実感致しております。 一時の花をまことの花と見紛うことの誤りから、思わず背を向けたくなる様な心地も致しますが。留まっていてはいけないのでしょう。 肝に銘じつつ。
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