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ものづくり日本
ものづくり日本とかって言っちゃうと ものづくりができない日本人の僕なんかは肩身が狭い 別に言ってもかまわないけれど 世の中にはいろんな人がいるのだから 事を決めつけて押しつけるのはやめよう もちろん目標を掲げて進むのは大事なことで そうするのは良い効率を生むだろうとは思う でもどうしてもついてゆけない人がいるのを忘れないで そういう人たちもがんばっているけれど 進む集団の最後尾で苦悶しているよ ものづくり日本の皆様すみません 僕はものづくりがどうしてもできません 学校の勉強も体育も就職も仕事も全然だめです 自分で自分は普通以下だと思います アイデアもなく夢もなく虚無感に囚われています 僕みたいな人間が国力を下げるのでしょう でも国どうしを比較した順位で日本がしばしば上位にくる こんなくずみたいな僕がいる国も 全体としては何かに関してすぐれているのですね 全体というものは目に見えにくいけれどその力はすごい ものづくり日本に住む何もつくることのできない僕 それでもこの国に生まれて暮らせているのは幸せなこと ものづくりに長けた人たちの世話になっている とこう書くことができるのも日本の文明が進んでいる証し あんまり悲しまずに日々静かに暮らすのが一番大切なことでしょう
ものづくり日本 ポイントセクション
作品データ
P V 数 : 1410.1
お気に入り数: 1
投票数 : 0
ポイント数 : 0
作成日時 2023-01-16
コメント日時 2023-01-21
項目 | 全期間(2024/11/21現在) | 投稿後10日間 |
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叙情性 | 0 | 0 |
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可読性 | 0 | 0 |
エンタメ | 0 | 0 |
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※自作品にはポイントを入れられません。
- 作品に書かれた推薦文
1998年にかかれた『みんなほとけの子』という本の中で、ひろさちやさんによれば、物余りの今の社会はガツガツした地獄で、将来訪れる物不足の貧しい社会が助け合って生きる極楽だ、と言っておられます。 だから、ものを作れるかどうかが偉いという基準ではないのでしょう。やはり智慧ですね。
0決めつけはよくないよねということを私はテーマとして持ってるんですよ。なので、一読して引っかかってくる今作に流れている思念はとても気になりました。先日もちらっと打ち明けましたが、作者さんは知り合って会話してみると、三浦とは意外と馴染む人やなあと思ったんです。それって人が多面体であることだからだと思うんですよね。一面だけを見てその人を決めつけてはいけないというか。それは作品もものづくりも、あるいは国家も国土もそう。ところが一方で、接している一面が真実であったりもする。その一面以外にもある面があることを「知っていながら知らないふりをして」一面だけでコミュニケーションを取る。あるいは、その一面だけを共同体が必要としてくる。僕は結果として諦めたところがあって。他人のその一面以外の見えていない面は自己の想像の内に止めることにしたんです。平たく言えば妄想するということ。それは歪んだ人格でもあるし、完全なる自己肯定の世界なんです。 yasu.naさんの意外な面が垣間見えた作品でもあるし、作家のCOREな部分が宿る作品に読めました。
0なんだろう、前の作品で「明らかに退行していた」を読んだ時から今作を続けて読んで思うんですけど、やすなさんって私から見たら結構いい差別主義者で、それはまず自分のことを真っ先に切り捨てるところに現れてると思うんですよね。それってもう結論が最初に出されてるのとおんなじだから爽やかでいいんですよね。やすなさんって弱さを演じるのがうまいというか、そこまで言ったら褒め殺しなんだけど、やすなさんの書く暗さって振り返りたくなるような雰囲気があっていいと思います なんだろう、真に国力を下げているのは私なんですよ。ようするに世の中って学歴とかコネじゃないですか。それって目の前の仕事は効率的になるかもしれないんだけど真に実力のある人間を押さえつけちゃうじゃないですか。私みたいな人間が一応大学を出たとか出ないとかいう、きわめてあいまいで不確かな事実に基づいて不当に給料を得ているってのが一番間違いなんですよ。だから俺ってじつは本当にどうしようって思ったりするというか。 なんだろう、私ってほんとはノーベル賞取りたかったんですよ。今からすると笑えるんだけど、そこまで言ったら私がノーベル賞取れないっていう、それはもうやけになって才能のせいにしたくもなるっていうか。でもそれって正当化でもなんでもなくて事実なんですよね。みんなみたいにキラキラしたことしたいって思うけど、どうやってもそうはなれない。でも人間って本人があんまり自覚してないようなところに本当の強みが隠されてるってことはあると思うんですよね。うーんなんだろう、やっぱり思わずにはいられない。幸せじゃない家に生まれた人は幸せになることができないのかって。そんなわけあるか。ヤクザはそういうものではない。
0皆さんコメントありがとうございます。ただ私は現在禁煙中で、体調が悪く、思うようにものが書けなくなっており、返信が遅れます。コメント大歓迎ですが、返信が遅れますこと、ご理解下さい。絶対返信しますけん!
1お読みくださりありがとうございます。まずは私がこの作を書いた訳を基調講演的に話しておくのが良いと思われるのでそうします。時々身の回りを眺めていると「ものづくり日本」という言葉がどこか不正確であるように思えたのでした。「ものづくりアメリカ」「ものづくり中国」「ものづくりベトナム」「ものづくりインドネシア」「ものづくりドイツ」等々と言ってみても差異はないではないか、と思ったのです。このことは作品には直接的には落とし込んでいませんが、作品第一行のくだけた口調に暗に含ませたつもりです。さて、しかしながら「ものづくり日本」という言葉は現代においても、それが大企業によって発せられた場合でも中小企業によって発せられた場合でも、日本の実績、特技、誇り、目標をあらわしているのは私にも十分理解できます。そしてこのような言葉を標語とすることは日本人の行動規範となり、効率を上げることに資すると思われます。この作品はこんな認識から出発して書いていったものですが、展開の仕方としてかなり筆が滑ってしまい、読む人によっては私が少なからず卑屈であるように受け止められるかもしれません。ただ、このような拙い作品でも何かしら情報や課題を提出してはいると思います。基調講演はこれくらいにして黒髪さんからいただいたコメントを見ます。ひろさちやさんという名は聞いたことがありますが、特に調べなくてもコメント内の情報だけでこの人の言うことはだいたい分かりました。私としては現実的に考えて物は豊富にあった方が良いとは思うのですが、人々が助け合わない社会は嫌ですね。また、ものづくりということを広く考えれば、こんな私とて何か書いてネットに公開している点ではものづくりをしていると言えますが、およそ人間の生業や行動の中に何も作らないものなどあるのだろうかと反省してしまいます。いやしかし、この広い世界では、どこの国でも良い意味で「ものづくり」と言えることをしている人間と、やらなきゃいい余計なことをしている人間がいるものです。創造と破壊がバランスを取って併存しているとも考えられます。偉さの基準としては、ものづくりのできる人間は偉いというか強いと思われます。ただしそこで傲慢になってしまうのは誤りで、何も作れない人間がいるのも確実なのだから、ここにおいて人間どうしの助け合い、智慧ということがないがしろにできないこととして登場するとは思いました。
1コメントありがとうございます。私のこの自作についての総論は、黒髪さんへの返信の中に基調講演風に書きました。次には各論に入ろうとしているわけですが、私は総論の中に曖昧さを残してきました。つまり「ものづくり」と非「ものづくり」との区別はどんなものなのかということです。この区別については私個人が目にしてきた人物に典型を求めて、便宜的に、また批判も覚悟で、明らかにしたいと思います。この人物とは、私の父、伯父、叔父、です。全員昭和20年代の生まれ、そして全員仕事はブルーカラーとして終えた人々です。私が生意気な高校生だった時、叔父に「君は一度、百姓をやれ」と言われたことが忘れられません。また晩年には『下町ロケット』という小説を読めとよく言っていました。私は今、このような人物たちを「ものづくり日本」に生きた典型的人間としておいてみることにします。これに対峙する人間のタイプはたくさん考えることができるでしょう。或る人は単純にホワイトカラーを、或る人は販売員や店員さんなどを思い浮かべるでしょう。ただこちらのタイプの人間は今はそんなに突き詰める必要がないです。大事なのは私が一種類のタイプとしてすでに定め書いたように「ものづくり日本」に生きたブルーカラーの人々です。この人たちが引退してゆく真っ最中を私たちは生きているわけです。どうなることか。ここにこそもっと内容を持たせなければならない問題があると思われます。また、室町さんは、公共的なものと個人の問題を無理に結びつけて関係があるかのように書いているのは間違いであると指摘されています。私もこの関係というものについては考えたいところなのです。一人の人間の力は社会に対してどれくらい有効なのでしょう。社会というものが人間の団体であることを免れない以上、こういう有効性は確実に存在すると思われるけれど、個々人が持つ有効性は互いに等しいだろうか。いただいたコメントに対する返信としては異例の体裁の文になってしまいました。それというのも室町さんのコメントが私にいろいろと考えさせるからです。
0コメントありがとうございます。ここまで黒髪さんと室町礼さんに返信したわけですが、それらの返信内容を踏まえて、さらに細かく深く自作品とクヮンさんからのコメントを見てゆこうと思います。勝手なことではあるのですが、私は今、時代とその時代の社会との両方を合わせた意味を持つ用語として「時代社会」という用語を使い始めようと思います。そうして考えてみて、今の時代社会を統べている現役の人々にとって「ものづくり日本」という言葉は、他のたくさんの価値観を示す言葉のうちに同列に並べることができる一つの言葉であると私には見て取れます。「ものづくり日本」という言葉は確かに過去に深く根付いています。でもだからと言って今の時代社会に新しく生まれてまだ根も浅い価値観よりも重視し過ぎるのも違う気がします。私が作中に「日本の文明が進んでいる証し」という語句を挿入したのは、「自由」ということがこの国ではかなりの程度で浸透していることをこの作品に味付けしたかったからです(もちろん不自由や貧困や虐待や病いの類いを見落とすわけではありません)。この一般的に自由な国の運営を事業と見なし、事業継続計画(BCP)という用語を用いるのもあながち無理なことではないと思います。「ものづくり」一辺倒ではない、多様性を認める時代社会は、過去の時代社会よりも衝撃やアタックに対して強固だと思います。
1コメントありがとうございます。「事を決めつけて押しつけるのはやめよう」という作中箇所は詩文としてはとても見苦しい稚拙な表現であると作者の私自身が反省しているのですが、でも言っている内容は排斥できない大切な事だと思っています。人が多面体であることを私は認めますし、さらにまた人は一般的に他者の一面しか見ることができないものだとも思います(この一面も真実ではありますが)。この構図はもっといろいろな方面に応用されると思います。たとえば現代の実業界における価値観が「ものづくり」第一というだけではなく、もっとさまざまな業務や活動を等しく第一として多様性を認めてゆく、その反面、共同体の政策や専門家はしばしばただいくつかの業務や活動しか眼中に置かないということが起こり得ると考えられます。三浦さんのおっしゃるところ、つまり「諦めた」「見えていない面は自己の想像の内に止めることにした」という箇所はこういう困難な構図を乗り越えるという意味で含蓄があると思われました。
0コメントありがとうございます。昔、私の作風について、自分語りをやめられず、その域を出ないものであるように思うといった意味の批判を言った方がいました。私にとっては痛い評ではありましたが、私自身この評を受け容れる他なかったし、今もそういう作風を持っていると認めざるを得ません。今回、いい差別主義者と言われて、確かにそうかもしれないと思いました。私は、強いものと弱いもの、高いものと低いもの、良いものと悪いものといった区別やランクづけを知らず知らずのうちにかなり頻繁に為す癖があるかもしれません。でもこういう癖は私個人が社会生活を経験するうちに身についたものだと思います。たとえば、年功序列、有資格者と無資格者の間にある上下関係、出世競争や成果主義などの真っ只中に暮らせば、私の悪い癖も理解されるのではないでしょうか。しかしこれは癖であって、冷静になってみれば修正可能なものだと思います。私にも寛容さや公正さや気配りといったことが備わっていると信じます。その上での自分語りであれば、自分を弱く暗く描いても、或いは強く明るく描いても、まあ何かしら意義あることを読者にもたらすことができるのではないでしょうか。読者とて、この同じ厳しい社会生活を送っているのですから。
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