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みていてはみえないもの
今、ヨハネによる福音書を読み止して、この文章を書いているのは、誰だろう、私か?私が私であると、どうしてわたしが明かせるだろう。 閉じたわたしは何処までも昏く、地上の許へおちてゆく。あなたは、おちずにとどまっておられる。 おおくの人は、眉の下に瞳を持ちながら、これをもってみることをわすれている。しらないというべきか。 あなたがすきというときのあなたとはだれだろう、あなたなのだろうか。 梵天、ブラフマーにもそらがあって、かれらはたかみに居ながらおりてくることはない。水はあたえられない。 暁の明星、金星天。五芒星のゆめをみたならば、かみのこきりすとをも疑ってしまう。 奇跡が光で言葉ならば、その比喩の代償はだれがしはらうのだろう。 深くふかく水にふれられないとき、 わたしは私だと誰が明かせるのだろう。 おりしもその夕か昼にあしたに、 ひらかれた暗闇から、じぶんからからときはなたれるだれかがいたのかもしれない。
みていてはみえないもの ポイントセクション
作品データ
P V 数 : 817.6
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投票数 : 0
作成日時 2023-01-15
コメント日時 2023-01-16
比喩に代償が必要である理由をもっと詳しく知りたいなと思いました。最後の一文が、超重要であると思ったのですが、何となく生まれようとしている何物か、こだわりの対象である何かがあると感じました。
2レスポンスを賜り、允にありがとうございます。 自我意識の侵襲より開放をされました文を認めます事は、批評対象作品の力が無ければ叶いませんでした。 先ず、てんま様に於かれましては。深く感謝の念を表明させて頂きたく存じ上げます。 奇跡に代償が必要なのか、この命題に於きましては未だに深く悩み、決定的な解答を得てはおりませんのですが。 大前提と致しまして。若し、奇跡=比喩=言葉、という図式が成り立ちますなら、言葉は人の行動を動機付ける機能を具有しておりますゆえに、奇跡は現実に干渉する性質を附帯している、と申せましょう。 此れも比喩ですが。例えば水俣病と謂う社会問題を改めて表現致しますなら、水銀から金へ、という錬金術的定型句を実際化致しました顛末を、かの事件より読み解く事も出来得るでしょう。水銀の雑じる工業排水に拠って莫大な富、つまり金を築きました代償に、蔓延を致しましたのが水俣病である、という結論、つまり原因と結果の相関関係を、聊か無理強いではございますが、成立させうる事も出来なくはないでしょう。 そして問題なのは、われわれ、夙に言語表現者は言葉=比喩に拠ってしか、事象を認識把握し、表現し得る手段を持たない、この一点に尽きるでしょう。 言葉が言葉の埒内にて完結し得るならば、何ら問題は無いのでございますが。 前述の通り。われわれは言葉に由り、従い、抗い、行動をする存在である、という現実的側面を無視してはならない、と考えるがゆえに。 奇跡に附きましての、盛大にも無駄かも知れぬ葛藤を覚えて居ります次第でございます。
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