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知恵の実を選ばしめたリヴァイアサン
知恵の正体とは「分析」であると拝聴をした記憶がある。 事象を糾える糸の網目の、その僅かなほつれやひずみから、問題の第一原因を遡求する試み。 それが私に於いての哲学の存在理由である。と明言しておく。 却説、黒髪氏の作品とは長い付き合いではあるが、近年のその思索、詩作の発展には目を瞠るものが在る。 到底評者にはたどり着けない境地で、記述している。 従って、評以前に全く読み切れていない訳ではあるが、その詩文の凄みから思わず筆を執らざるを得なかった次第である。作者には、其処を先ず陳謝をさせて頂きたい。 肝心の作品であるが、前提として、評者は個人的にキリスト教、或はイエスへ、分極した存在価値を懐いている。 つまりは、イエスを体現すればアンチキリストに。アンチキリストを体現すれば最もイエスに近付く。この矛盾の解決法を懊悩し、未だに詮索し続けている訳であるが。 肝心の批評対象作を拝読させて頂くと、如何やら黒髪氏はこの矛盾を知悉し、解消する見解を具有している様に思われる。 其処で、恐らくそのガイドを果した思想こそが、前述の哲学ではないのか、と推測をしている次第である。 アリストテレスとハイデガーの過程にて根を上げた、私の浅知恵で到底、理解し得ない概念を理解していらっしゃる様に感ぜられる為、此処らにて一旦口を噤むことにしよう。 ひとは、語り得ないものについては沈黙せねばならないのであるから。
知恵の実を選ばしめたリヴァイアサン ポイントセクション
作品データ
P V 数 : 1147.2
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作成日時 2023-01-02
コメント日時 2023-01-06
コメントを賜り、允にありがとうございます。 仰られになられた共一主観性とは、つまり誰でも趣意にライド出来得る感覚と解釈致しましてもよろしいでしょうか。 正直に申しますと、当方は高可読性の海に辟易を致して居ります。 妄想でも宜しいではないですか。その作品が面白ければ。 皆少なからず妄想を抱えて生存を致しておりますからには、その深淵を探る御方がいらっしゃっても罰は当たらぬでしょう。 寧ろ、煽情的な炎上商法ばかりが広く、浅く読まれる今のビーレビ(に限らずではございますが)、に著しい観衆の。感性の劣化を感受致しますことは不健全ではございましょうか。
1折り返し、レスポンスを賜り嬉しく存じます。 感覚的、飽く迄感覚的に陳べさせて頂きますが、同一内容を難読‐易異に隔てる記法の問題とは、言語の比喩的機能の問題に行き当たるのではないかと。 われわれの知能には二つの機能が在る、と当方は感受致しております。 一つは分析的機能、つまり事物の相異性を注視する機能の事でございます。 もう一つは統合的機能、事物の同一性を注視する機能でございます。 比喩とは、相違する事柄を同一化せしめる機能、つまり統合的機能の成果である、と仮定をさせて頂きます。 私は、その同一の自明性が破れた作品にこそ興味を抱く癖があるようでございまして。 相異を個性、同一を普遍性とも換言し得るかもしれませんが。 如何にも、個性の強い作品が好きなのですよ。 結局は好き嫌いでしか語れぬ自らの価値基準を羞じつつも、返答とさせて頂きたく存じ上げます。 室町様の価値判断に副う返答となれましたかは、甚だ疑問ではございますが、 此れが現状の当方の、価値基準の限界でございます。
0芭蕉の例え、とても腑に落ちました次第でございます。 「夏草」を執りましてもあれやこれや詮索もできましょうが(万葉集の「民草」が掛っている、夏という季節の腐敗が何とはなしにわれわれの感覚に訴えて来るのでは、等、等)やはり換言を致しましたら名句にはならなかったでことでございましょう。 唯、私達が批評的態度で作品に臨みます時、忘れてはならないのは批評対象作品、第一次創作物への尊敬の念、なのではないか、と思いますので、 其処のみ補足させて頂きたく存じます。 常に第一走者は作品であり、 批評的視点は常にその後追いをする外はないのですから。 丁度、亀とアキレスの関係の様に。
0すみません、お二方のコメント欄のやり取り、勉強になりました。いや、こういうやり取りを今後も読みたいと思うのは三浦だけではないと思いますので、コメントさせていただきました。
0コメントを賜り、ありがとうございます。 中々に、すかすかの脳髄を全動員させて頂いて居ります。良い鍛練の場を与えて下さり、室町様、並びに閲覧を頂いて居ります方々に於かれましては感謝も頻りでございます。 余計事ではございますが、返信記事をトップに上げない機能が実装されておりますことに、最近漸く気が付きました。これからは、なるべく自作につきましては潜伏運行を執り行おうかとも考えております。
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