「思い出の丘」
木の葉の散り敷いた丘にわたしは帰ってきた
愛する人とともに
風が見晴らす田園を流れ
山鳩が空を渡ってゆくなかに
記憶が広がり思いの香りに沈み始める
邸宅のバルコニーに過ぎた日の後が
朝の光に輝き揺れている
この空の照らす静けさの中で
再び愛する人と佇んでいる
その一日にわたしは驚き
あなたが青い服を着て軽やかに
歩いていた跡を、わたしは探し求める
愛する人よ、かつてここにかの人がいた
わたしは何も知らなかった
すべてはあなたが教えてくれたのだ
しかし、一塵の風がどこからか吹いてきて
彼女を砕けた光の中に奪い去ったのだ
わたしは、その苛烈さに打ちのめされ
苦しみの螺旋に苛まれた
今、優しい丘に立ち、穂の揺れるなかで
花を髪に飾っていたあなたを思い出している
許してくれるだろうか、わたしが再び幸福になることを
叢の岸辺を歩こう、愛する人よ
あなたの足音とともに
幸福の思い出と再びの飛翔の風を受けながら
「少年のころ」
すべては過ぎてしまった
懐かしい愛の日々よ
あなたの瑞々しい肢体を
わたしが見つめる空の光
風の吹くなかに探し求める
満ち溢れた夜の束の間の荒廃
でも、静かに川は木立の音を奏で
その秘密を探そうとする
今も、あなたは眠ることはなく
わたしに訪れた愛の日々は遠くない
朝、あなたの緑髪がしなやかに揺れる時
白い掌が穂を照らす微風となって光っている
わたしは子どもだった
そして、あなたは輝いていた
若草が萌えて戯れるなかで
わたしは、あなたと出会い
そこには少年への慰めがあった
わたしは神の道に進もうとしていたが
でも、あなたの薔薇色の唇が
あれほどに積み上げられた砦を
緑色の風とともに突き崩してしまったのだ
日々は過ぎて、蒼きころは思い出となり
あなたの声を叢の水辺に聞き
わたしは光を浴びつつ草原を歩いていく
「カフェ」
木立が夕暮れを見捨てるころ
小さなカフェに入る扉の向こうで
忙しく働くきみが見える
記憶の流れが時間に逆らう
束の間の戯れ
かつて幼き年に雪は今のように
降り積もって
屋根を白く光らせ
きみとぼくは校庭をかけた
冬に近い雨の日の帰り道
ぼくは街路樹の木の葉の秘密を
解きたいと考えていた
その時、きみがカフェに入る姿を
見かけたのだ
思い出のベールが剥がされてゆく
痛みをぼくは感じ
きみの入れた珈琲に口をつければ
心は蒼い水に溢れる
薄れた遠いころを語りかける眼に
きみの記憶が蘇る人間的な瞬間に出逢えば
ぼくは心の白さを露わにするだろう
ただ、肩が雪に打たれている
この甘美な時を残すべきか
ぼくは迷っている
「君の来る日」
僕が去ろうとするこの街に
君が越してくることを友人に聞いた
僕は駅のホームで
八時五分着の特急を待っている
あの六月の夕方、庭園の小道で
君と友人のあとを自転車で追いかけた
髪に揺れる紫の蝶結びは紫揚羽が飛んでいるように見えた
突然の雨、あずまやでのひととき
次の日、女友達を連れないで君はひとりで来た
みずうみに浮かべたボートが橋の下を通り過ぎる
まばゆい光がオールの水にきらめき
そして、告白と確かめるような口づけ
手紙を交わし合った三年間の愛の日々
吹雪の中で会った時、君は毛皮のコート
君は寒さに強くて、僕は君に暖められた
そして別れ
しかし、君の印象的な茶色の目
優美な鼻筋
頬のうぶ毛の輝きを
僕は忘れたことはない
僕は君をホームで待っている
早朝だ、今は夕暮れではない
日の光に映る全ての形が違っていることからそれは明らかだ
その時、ビルのガラスの反射の眩しさを受けて僕は悟ったのだ
君との恋は終わったのだということを
君が来ることを知ってからの七日間
僕は幸福だった
僕は思い出し、君もまた思い出の中にしかいない
僕はどこに行くとも知れぬ電車に乗り込みうとうとと眠りはじめた
作品データ
コメント数 : 4
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お気に入り数: 0
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作成日時 2023-01-01
コメント日時 2023-01-10
#現代詩
#縦書き
項目 | 全期間(2024/11/21現在) | 投稿後10日間 |
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可読性 | 0 | 0 |
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技巧 | 0 | 0 |
音韻 | 0 | 0 |
構成 | 0 | 0 |
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2024/11/21 19時32分45秒現在
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内容を変えた定型詩を四篇、実験的に詩作しました。 従って、これら四つで一組の詩となります。 形式は比較的、変えやすいのですが、内容を別々にすることは難しい。 この実験がどこまで成功したかは何とも言えませんが、私としては形式より内容にこだわりたいと考えています。 また、一部に比喩を用いていますが、比喩は使いどころが肝心で乱用すべきではないと思います。 また、詩的表現は比喩を用いずとも可能です。
1watertimeさんのほかの作品でもそうだったのだけど、これらの作品は足元の写し方が綺麗だと思う。室町さんが前におっしゃってたことがあって、詩人は映像的という言葉を間違っているという話で、いったいどういうことかというと、単に物理的イメージが脳裏に浮かぶことが映像的なのではなく、むしろ、映画的映像表現を熟知していることが映像的である、という話でした。その一例として挙がったのが、足元の映像表現で、車が、遠い世界からやってきて、止まり、ドアが開いて、誰かが地面に降り立つ片足を大写しに写すという、それが映像的なのだと語っていました。 すみません、つまり「カフェ」は例外なのですけど、それ以外の作品で、みんな印象的に立ち去っている。「婚礼」もそう、ということです。じつはこれが言いたかっただけのライコメで恐縮です。(でもじゃあほんとはカフェが大事なのかも。)
1いすきさん、室町さんが仰っているように映像表現は映画的な連続性のあるものですね。 詩はやはり物語ですから、その場だけを映すことでは不十分だと思います。 また、足元の写し方については、私自身、気が付かなかったところで、詩作の良いヒントになりました。 有難うございます。 「カフェ」はちょっと独特な作品ですが、この作品が「詩、四篇」には不可欠な作品だと私は考えています。
0私も詩は、お茶を飲みながら綺麗なお姉さんに読んでもらうのは最高だと思います。 むさくるしい男に詩を読んでもらうのは、ちょっとあれかもしれません(笑)。 でも、詩の雰囲気は、詩作において、とても大切だと思います。
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