二〇一九年四月一日 「?」
烏丸御池の高木神経科医院に行って、睡眠誘導剤やら精神安定剤を処方してもらって、隣のビルの一階にある、みくら薬局で薬をもらったあと、いつもいく河原町のバルビル近くの居酒屋の日知庵にいくために、地下鉄御池駅から地下鉄東西線を使って、地下鉄三条に行こうと思って、地下鉄御池駅から切符を買って、改札に入ったんだけど、べつの改札から出てしまって、自動改札機がピーって鳴って、あれっと思って、このときには、べつの改札口から出たと自分では思ってなくて、駅員さんに「ここはどこですか?」って尋ねたら、キョトンとされてしまって、 「すいません、ぼく、病院から出たばかりで、そこの神経科なんですけれど、ここがどこかわからないんですけれど。」って言ったら、「御池駅ですよ、どこに行かれるんですか?」って訊かれて、「あ、すいません、三条京阪なんです。電車って、ここからじゃなかったんですよね?」、「改札から改札に出られたんですよ。」、ううううん。たしかに頭がぼうっとしてた。 ちょっと涙がにじんでしまった。五十をいくつも越えた歳で、こんなんで生きてるのって、とても恥ずかしいことやなって思った。
二〇一九年四月二日 「dionysos」
同人誌の dionysos の印刷の途中で昼ごはんを食べに行ったのだけれど、京大の近くの「東京ラーメン」という、ふつうのラーメンで400円という値段のところで、おいしくて有名らしいのだけれど、そこでご飯を食べて、また京大にもどって印刷の続きをしたのだけれど、帰りに、キャンパスの入り口のところで、大谷くんが、黒田くんに、DX東寺というストリップ劇場の無料招待券を渡した。黒田くんが「これ、なんですか?」と訊くと、「山田さんが、それくれたんだけどね。」「ええ? 大谷さんが行ったらいいじゃないですか?」「おれ、いっつも断ってるねん。」「大谷さんがもらったんじゃないんですか?」「違うねん、これ、このあいだのぼんに渡してくれって言われたんや。」「ぼんて、何ですか?」「「ぼん」て、若い男のことを、そう言うんや。まあ、だれにでも、あのひとは「ぼん」て言うんやけど。」「そうなんですか。でも、大谷さんが行けばいいじゃないですか?」「おれ、彼女いてるし、行けへんやろ。」「ええ! ぼくが行くんですか?」黒田くんの手のなかのチケットを取り上げて、ぼくが「DX東寺・招待券」という文字を確かめてから、黒田くんの手に戻して、「行ったらええんとちゃう? 黒田くん、行ったら、黒田くんの文学や哲学が深くなるで。裸で勝負してる人間を見るんや。きっと、黒田くんが大きくなるで。あそこも、こころもな。」「そうですか?」「そうや。」「じゃあ、もらっておきます。でも行かなくてもいいんですよね?」「そら好きなようにしたらええけどな。行ったら、黒田くんが深くなるで。」と言ってから、ぼくは、大谷くんに、「その山田さんて、何者?」って訊くと、「いつも行く居酒屋さんでしょっちゅういっしょに飲んでる、元ヤクザの人なんです。」「へえ、その人、いいひとなんやなあ。」と、ぼくが言ったら、「いまは、いいひとですよ。」「その飲み屋って、どこにあるの?」「ぼくの住んでるマンションの前。」「どんな店?」「食べ物、なんでも300円なんですよ。」「へえ、おいしいの?」「おいしいですよ。」「そやけど、そのひととの関わりなんて、なんか、青春モノの映画みたいやなあ。いや、人生が映画のようにすばらしいのか。うん、人生は映画のようにすばらしい。あるいは、映画は人生のようにすばらしい、か。まあ、どっちでもええけど、とりあえず、日記には書いとこ。」ってなことを言いながら、印刷の場所にもどって作業の続きをしていた。 あ、印刷は終わってたのか、そうだ。紙を折る作業に入ったのだ。借りていた教室で、総勢七人で、紙折り作業をして、さいごにホッチキス止めが終わったのが五時四十分くらいで、そこから、みんなで、リンゴという店に行って打ち上げをしたのだった。「朝、死んだ父親に起こされたから、三日後に死ぬとしたら、どうする?」って、リンゴで、黒田くんと川渕くんに訊いたんだけど、それぞれ、「ぼく、考えたことないです。わかりません。」「ぼくは、とりあえず田舎に帰るかなあ。」やった。ぼくはいつ死んでもいいように、そのときのベストの作品を書いてるつもりだから、 ぼくの場合は、いちばん好きなことしてる、「ぼくは、本を読んでると思う。」と言った。じっさい読んでない本がまだ400冊くらい部屋にあるので、そのなかからピックアップして読んでいくと思う。でも二人とも考えたことがないっていうのは、ぼくには不思議やったなあ。
二〇一九年四月三日 「まるで悲しむことが悪いことであるかのように」
まるで悲しむことが悪いことであるかのように
πのことを調べていると
ケチャップと卵がパンの上からこぼれて
コーヒーめがけてダイブした
ショパンの曲が流れ出した
世界一つまらないホームページという
ホームページにアクセスすると
3万5540桁あたりで
7という数字がはじめて5つ並んでいるのを
ジミーちゃんが見つけた
あと
28万3970桁あたりと
40万1680桁あたりと
42万7740桁あたりにも
7が5つ並んでて
7が7つ並んでいるのを
45万2700桁あたりに見つけたっていう話だ
ぼくはジミーちゃんを友だちにもてて
たいへんうれぴーのことよ
すてきなことよ
この間なんて
花見小路の場外馬券売り場に行ったら
もう時間が過ぎてたから
生まれてはじめて買うはずの馬券が買えなかった
っていう
すてきなジミーちゃん
花見小路に
造花の桜の花が飾ってあったけど
すぐそばの建仁寺に突き当たったところには
ほんとの桜が咲いていた
という
豚汁がおいしかった
彫刻刃で削ったカツオの削り節が
よくきいていた
ジャンジャンバリバリ
ジャンジャンバリバリ
詩に飽きたころに
小説でオジャン
あれを見たまえ
二〇一九年四月四日 「セーターの行方」
きょうは、ぐでんぐでんに酔っ払って帰ってきた。いつも行く日知庵で、作家の先生といっしょになって、三軒の梯子をした。日知庵には、俳優の美木良介が女連れできていた。ぼくと先生と先生の奥さんの三人はカウンター席に坐っていたのだけれど、その後ろのテーブル席に、ぼくの真後ろに坐っていて、先生の奥さんがおっしゃるまで、 気づかなかった。「オーラがないわ。」という奥さんの言葉に、ぼくも「そうですね。」と言った。奥さんがセーターを先生に作られたのだけれど、大きすぎたみたいで、田中さんにあげるわ、とおっしゃったので、いただきますと言いました。先生との話で一番印象に残っているのは、「見落としたら終わりやで。」奥さんがそのあと、「タイミングがすべてよ。」でした。いちご大福を持って女優の黒木 瞳さんもくるという話だけれど、彼女にはまだ会ってないけれど、この日知庵って、ふつうの焼き鳥屋さんなんだけど、半年前くらい前のとき、アンドリューって名前だったかな、オーストラリアから来た日系のすっごいかわいい二十代半ばのカメラマンの青年に、カウンター席で、ひざをすりすり、モーションをかけられたことがあって、なんだか、ぐにゃぐにゃ、むにむにむに~って感じやった。そんときは、付き合ってる恋人がいたから、彼には、いい返事ができなかったのだけれど、こんど会ったら、ぼくもひざをすりすりして、チュってしちゃおうかなって思った。
二〇一九年四月五日 「源氏物語」
さっきまで、五条大宮の公園で
源氏物語の本を切り抜いてセロテープでくっつける作業をしてたのだけれど
ポカポカとあったかいので
これから歩いて
桂川まで出て
桜でも見ようかなって思う。
桜はたしか
女子大の近くにいっぱい咲いてるんじゃないかな。
まあ、もちろん、女子大生がいれば
そっちのほうが花なんだろうけど。
じゃあ、行ってきま~す。
ついでに、イーオンでうどん食べようっと。
二〇一九年四月六日 「詩について」
ぼくが、日本の現代詩人の詩を読んで
いちばん驚かされるのは
その形式のヴァリエーションの貧しさにである。
きのう、ロバート・フロストの『炎と氷』を読んだ。
10行ほどの詩だったと思うのだけれど
それで一つの形式をなしているのだった。
時代や世代や思想や風潮でアンソロジーを組むより
フォルムによってアンソロジーを組むほうが
ずっと有益だと思うのだけれど
日本の詩のアンソロジストには、その見識はないようである。
ぼくのなかで、吉増剛造が偉大な詩人であったのは
北園などのモダニズム詩人たちのように
形式の発明者だったからである。
いまの吉増さんは
自分のつくった形式に溺れているような感じで
見苦しい思いをするのだが
それでも過去には偉大であったのだ。
日本の詩の貧しさはいつまでつづくのだろう。
新しい形式だと認識するには
過去の膨大な形式を知る必要がありますから
ぼくの詩の形式を
新しい形式だと判断できるひとは少ないと思います。
それはもうね、あきらめちゃってるの、笑。
ぼくは、古典から勉強してよかったと思っています。
そこには、ふんだんに形式がありましたから。
剛くん、ありがとう。
最近、元気を取り戻しつつあります。
このあいだ、ハート・クレインの『橋』を読んで、
すごくショックを受けましたが
これまで読んでなかった自分がバカだという思いでですが
まあ、そんなことでもなければ
人生はずいぶんと退屈なものになるのでしょうね。
恋もいいものだけれど。
そうだ。
同じフォルムでも
まったく異なる文学的な効果をもつことがありますね。
短歌にさまざまなレトリックが盛り込めるように。
それをもアンソロジーには加えなければなりませんね。
それに、そのほうが有益でしょうし。
いつか、そのようなアンソロジーが現われますように。
短歌や俳句は
そういうふうにアンソロジーを編んでたりするのかしら?
小説を形式で分類しているのは見たことないけれど
短篇小説とかだったら、できるかもね。
ミステリーとか、してそう。
でも、形式といっても、ほんとうに「形」だけではなくて
「内容と切り離せない形」なのだろうけれど。
パット・マガーのように
さまざまなシチュエーションを設定して
たとえば、犯人探しではなく
被害者探しや探偵探しのミステリーを書いたりするひともいるけれど
詩人でいえば
さまざまな形式をつくっていくひとかな
そんな詩人がたくさん出れば
それは思考の型の発明でもあるのだろうから
きっと豊かになるはずなのだけれど。
ぼくのあの引用だけの詩って
まだまだ可能性があると思うのだけれど。
ぼくは自我論に興味があって
熱心につくっていたのだけれど。
いまもよく引用するけれど
やはり自我との絡みはいつも意識している。
ほかのひとも、引用だけでつくってみたりしてほしいと
よく思います。
二〇一九年四月七日 「断片」
彼は相手の自尊心をくすぐり、相手が気持ちよく自分自身の気持ちを語るように促した。
自分が快楽を得るためには
先に他者に快楽を与えなければならないことを彼は熟知していた。
二〇一九年四月八日 「藤井晴美さん」
藤井晴美さんから、大判の詩集『不明の家』を送っていただいた。うれしいことだ。藤井晴美さんの詩は一気に読める。途中で読むのをやめられない。「文字状爆発」という詩に、「ぼくはいつも幽霊と飲んでいる。だから話はどうしても死の双極性に傾きがちだ。」という詩句がある。なるほどしかりである。
二〇一九年四月九日 「柴田 望さん」
柴田 望さんから、詩誌『フラジゃイル』第5号を送っていただいた。柴田 望さんの作品「顔」を拝読。詩についての詩だと思われたが、政治的にも読める。そういえば、詩で政治的なニュアンスを読み取るのは、ひさしぶりのことだ。生活に直結しているはずなのだけれど。
二〇一九年四月十日 「石川貴一さん」
石川貴一さんから、小説『ふたりの少年』を送っていただいた。ひさびさに、石川貴一さんの文体に触れる。20年くらいのお付き合いだろうか。文体の特徴は変わらず、がしかし、より読みやすく感じられる。碩学の石川貴一さんからは教わるところも多く、楽しく勉強させていただいているといった感じだ。
二〇一九年四月十一日 「考察」
何が人間に形式をもたらすのだろう?
あるいは、形式が人間を欲しているのか?
それなら昆虫でも形式をもたらしているではないか?
いや、形式は昆虫をも欲しているのではないか?
あの時々刻々形を変える雲でさえ、瞬間瞬間に形を形成しているのだ。
何ものかが万物に形式をもたらせているのであり
形式が万物を欲しているのである。
二〇一九年四月十二日 「海東セラさん」
海東セラさんから、個人誌『ピエ』vol.20 を送っていただいた。「デッドスペース」階段を主体に最初から最後まで語られていく詩。なにかについてコンを詰めて追及するということが、ぼくにはもはやできなくなって久しい。それでなのか、コンを詰める書き方がおできになられるのがぼくにはうらやましい。
二〇一九年四月十三日 「加藤思何理さん」
加藤思何理さんから、詩集『川を遡るすべての鮭に』を送っていただいた。いっさい詩句につまずくことがなかった。耳のいい詩人さんなのだと思った。作品にはひとつも破綻がなかった。詩句を読んでいる途中で、玲瓏という言葉が思い浮かんだ。なぜかしら塚本邦雄さんのことを思い出したのかもしれない。
二〇一九年四月十四日 「小林 稔さん」
小林 稔さんから個人詩誌「ヒーメロス」第40号を送っていただいた。編集後記にある「詩が至高性を目指す一方で、人生の最も低い地上からの眼差しを詩人に要請する、そこから詩人の無名性が必然とされる。」という言葉に、しかりと深くうなずく自分がいた。連載エッセーも楽しく知的なものであった。
二〇一九年四月十五日 「岸辺ゆきさん」
岸辺ゆきさんから、詩集『ある老女へ』を送っていただいた。まず表紙に目がとまった。ぼくのいまの心境にひじょうに響くものがあった。手触りもよい。ぼくのこれから出す詩集の参考にしようと思った。詩作品は、詩句がつまずくことを前提にしてつくられたもののように感じられた。ここちよいつまずき。
二〇一九年四月十六日 「橋場仁奈さん」
橋場仁奈さんから、詩集『半球形』を送っていただいた。この方も耳のいい詩人さんのようである。詩篇は、どれも音調的によくできていて、ひっかかることがなかった。同じような意味の言葉が連呼されるときにも、音調的な配慮がなされていた。同じ言葉のリピートも多い。あらためて思う。耳のいい方だ。
二〇一九年四月十七日 「マーゴ・ラナガン」
ようやく『三分間の宇宙』と『ミニミニSF傑作展』を読み終えた。マーゴ・ラナガンの短篇集『ブラックジュース』を再読するのを途中でやめての読書だった。つまらないSF短篇が多かった。いちばんよかったのは、ウォルター・テヴィスの「ふるさと遠く」だが、これは、テヴィスの短篇集を持っている。
きょうから寝るまえの読書は、マーゴ・ラナガンの『ブラックジュース』のつづきからか、イアン・マクドナルドの『火星夜想曲』のつづきからか、ルーシャス・シェパードの『緑の瞳』のつづきからにしようか。どれも、いまいち気がすすまないのだけれど。あれまあ、読書って、こんなに退屈だったっけ?
二〇一九年四月十八日 「グレッグ・イーガン」
マーゴ・ラナガンの短篇集『ブラックジュース』を再読し終わった。あらためておもしろいと思った。きょうから寝るまえの読書は、同じく奇想コレクションの一冊、グレッグ・イーガンの『TAP』にしようと思う。これも再読。きのう、ちょこっと、イアン・マクドナルドの『火星夜想曲』のつづきを読んだ。
二〇一九年四月十九日 「ダイソーでチョークを買うこと。」
ダイソーでチョークを買うこと。
二〇一九年四月二十日 「無韻詩」
流れ去る川の水が、わたしを考えるように
わたしはあるのではない。
夜の川の波間にまたたく月の光や星の光が、わたしを考えるのだ。
わたしを考えるままたたく光は、天では、つねに輝いているのだけれど
わたしを眺めて考えているときには、またたく光として考えているのだ。
わたしは、またたく光が考えたものなのである。
それは、とぎれとぎれの光であり
とぎれとぎれの光が考えるわたしもまたとぎれとぎれなのだ。
しかし、とぎれとぎれのわたしにも、とぎれることのないわたしがあって
それは、光が純粋に光であるからである。
光は、光以外のなにものでもないからである。
たとえ、流れ去り、つねに別の水となってうねりくねりする波のうえに
気まぐれに反射させられた光であっても、光は純粋に光なのである。
たとえ、月の光、星の光と、発する場所が違っていても
光は純粋に光なのである。
わたしを考える光は、ときに、わたしを別の場所に置く。
わたしを考える光は、ときに、わたしを別の時間に出現させる。
わたしを考える光は、ときに、わたしを別の出来事に遭遇させる。
わたしのなかにある余白は、光のまたたきであった。
余白があるからこそ、わたしは存在することができるのである。
天にある月の光や星の光が、わたしを考えることはない。
わたしは、またたく光が考えるものだからである。
夜に目覚め、朝になると消え去るわたしにこそ、ふさわしいつくり手であろう。
流れる川の水がわたしを考えるように
わたしはあるのではない。
もしも、流れる川の水がわたしを考えるのならば
わたしは、同じ姿をした、つねにまったく異なるわたしであるからである。
流れる川の水は、わたしのなかに余白をつくることはできない。
わたしは、流れ去る川の水のうえに反射した月の光や星の光が考えるものである。
わたしもまた、つくり手と同様にまたたくものであり
わたしのなかにある余白は、光ではないものからできている。
わたしを知らない水鳥が、川の水を曲げているように
わたしの知らない光が、わたしをまたたかせているのだ。
わたしを考えるものが、夜のあいだにまたたき、昼には死ぬのは
わたしにとって苦痛でもなく恥辱でもない。
また夜になると、わたしを考える月の光や星の光がまたたくからである。
それもこれも、わたしのなかの余白が、その光を思い出すからなのである。
わたしのなかの余白がつくる闇にまたたく光の記憶を。
二〇一九年四月二十一日 「夢」
いままた夢を見た。中年の姉妹の会話がおもしろかったが、その父親がぼくの母方の叔父だった。じっさいには姉妹は存在しない。姉妹の会話は忘れてしまったけれど、ぼくは、その姉妹のことを眺めて、夢のなかでこんな感想を持った。姉はぼくと同じ53才。「姉は53才の苦悩がある。しかし、妹はこれから53才になるやもしれんという不安と、いまの齢の苦悩がある。けっきょく、人間は齢をとったほうが強いのだ。その齢まで耐えて生き延びてきたのだから。」と。姉妹の皮肉な会話はおもしろくて、夢のなかでゲラゲラぼくは笑ったのだけれど、その会話は思い出せず。
二〇一九年四月二十二日 「夢」
けさ見た夢は、タコ八郎さんの子どもと称する子どもたちが出てきた。人間だった。で、だれかわからないのだけど、ぼくがとまってた部屋は、ネオンサインが横にあるアパートの上階。とまってた部屋のあるじは、ぼくの友だちだというけれど、知らないひとだった。北欧館に行こうと言うのだけれど拒否した。北欧館というのはゲイ・サウナね。ポイントは3点。なぜタコ八郎か。なぜネオンサインが窓から見える部屋か。なぜ北欧館か。さいしょの点は、手がかりなし。2番目の点も、自身の経験もなければ、知り合いの経験でもない。唯一、3番目の点のみ、思い当たるところがある。ここ数か月×××××××××。
二〇一九年四月二十三日 「イアン・マクドナルド」
きょうは、仕事が休みだったので、夕方から飲みに行ってた。8時に帰宅した。ウルトラQのDVDでも見ながら、ほっこりしようかな。このごろ、イアン・マクドナルドの『火星夜想曲』を寝るまえに読んでいるのだが、凡庸な気がする。それに比べて、ウルトラQは、何回見直しても、絶対的にすごいのだ。
二〇一九年四月二十四日 「短詩」
本から生まれた本太郎。
二〇一九年四月二十五日 「短詩」
本取り物語。
二〇一九年四月二十六日 「フラミンゴオレンジ」
ぼくの大好きなSF小説を Amazon で見たら、たいがいのものが1円で売ってた。これは、ぼくにとっては、たいへん喜ばしいことなのだけれど、そのどれもがそんなに売れた本だとも思えないので、なんでかなあとは思われる。『大潮の道』、『神鯨』、『スロー・リバー』、『ふるさと遠く』などなど。
きょうは、休みなので、日知庵に行く。飲みたい焼酎がある。飲みたい日本酒がある。フラミンゴオレンジという焼酎と、美泉という日本酒ウォッカだ。
二〇一九年四月二十七日 「イアン・マクドナルド」
イアン・マクドナルドの『火星夜想曲』をまだ読んでいるんだけど、いま半分くらいのところで、これ500ページ以上あるから、けっこう読むのしんどいけれど、ちょっとおもしろくなってきた。
ただねえ、会話がほとんどなく描写がつづくのね。紙面びっしりの文字を読むのは、老人には体力がいるわ。
たびたび見かける日本語でわからないものがある。『火星夜想曲』446ページ6行目にある「もものか」である。誤植のように思われるのだが、たびたび見かけるので意味があるのかもしれない。知ってる方がいらしたら教えてください。
また出てきた。466ページ2行目「肋骨がうずくのもものかは、くすくす笑い」 なんなんだ。「もものか」って。
きょうも仕事が休みだったので、日知庵に夕方から行って、さっき帰ってきた。寝る前の読書に、『火星夜想曲』を、と思っている。だらだらした読書っていうものが、いつになくよいものだなあとも思う。若さをなくしたのかなあ。
二〇一九年四月二十八日 「ルーシャス・シェパード」
イアン・マクドナルドの『火星夜想曲』を読み終わった。おもしろかったけれど、そうたいしておもしろいわけではなかった。捨てないだろうと思う。カヴァーの絵がとてもかわいらしいので。あしたからは、ルーシャス・シェパードの『緑の瞳』のつづきからかな。どうしようかな。『TAP』のつづきかな。脳を刺激するには、最高におもしろかったものを読むほうがいいに決まっている。だけど、死ぬまでの順番もあるしなあと思うと、『大潮の道』や『神鯨』なんかを読み返すのは、なぜかしら、ためらわれるのだ。デューンのシリーズは3回以上、読み返しているけどね。思弁的なやりとりが、たまらんのだ。
二〇一九年四月二十九日 「日知庵」
そだ。きょう日知庵で食べたお通しのタケノコ。めっちゃ、おいしかった。というか、きょうも、日知庵で食べた、お酒も料理も、めっちゃ、おいしかった。行けたら、あしたも行こう。それには、はやく寝なくては。おやすみ、グッジョブ!
二〇一九年四月三十日 「ルーシャス・シェパード」
きょうも仕事が休みだったので、日知庵に行ってた。クスリの処方箋を、きょうもらわなければならなかったのだが、忘れてた。日知庵でお酒を飲んでるときに、ふとしたきっかけで思い出せて、その場で病院に電話をしたのだった。ギリギリセーフな感じ。これから読書をして寝る。読む本は、ルーシャス・シェパードの『緑の瞳』。
二〇一九年四月三十一日 「Amazon」
これを割ったひとは、こんなものも割っています。
これをわかったひとは、こんなものもわかっています。
これをさわったひとは、こんなものにもさわっています。
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作成日時 2022-11-01
コメント日時 2022-11-01
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2024/11/21 22時56分42秒現在
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